第六話 エリオット・サザランの肖像(一)

__ヨスニル共和国チェサ特別区ミローナ街17番ヨスニル鉄道記念館__555年8月20日

 


 鉄道記念館は、レッドロビンズホテルとは線路を挟んだミローナ街にあった。レイルズ通りからだと建物が邪魔をしてトレイン・シェッドに出入りする蒸気機関車の姿を見ることはできないが、ミローナ街側にあるチェサ鉄道記念公園からだと列車も景色の一部だ。


 今から約四十年前、クローナ歴五一四年にクローナ大陸横断鉄道の全線開通記念式典が行われたのがこの公園だった。東西クローナに比べ、革命の嵐が吹き荒れた中央クローナでは鉄道敷設工事が遅れ、最後に開通したのがヨスニル国有鉄道管轄区間だったのだ。


 公園にはモニュメントを中心にして楕円形の広場が整備され、それを囲うようにチェサ駅、線路、鉄道記念館、プラタナスの並木があった。並木の下には恋人たちが身を寄せ合っているが、プラタナスの葉は暑さにうなだれて白っぽい葉の裏を見せ、その上の淀んだ空はチェサの街に蓋をしてすべてを蒸し焼きにしている。


 貴婦人たちの纏うバッスル・ドレスは、四百年代末に流行ったものとは違って裾を煤けた地面に引きずることはなかった。わずかに足先がのぞく軽やかなデザインは、裾を汚さないためだと耳にしたことがある。


 鉄道記念公園の設計に携わった人々は、これほど薄汚れた景色になることを想像しなかったのだろうか。蒸気機関車の煙をイメージしたというモニュメントも、その横のモダンな時計塔も、駅舎も、石畳も、休息のための御影石のベンチまで、すべてが煤で黒ずんでいる。


「チェサは晴れた日でも灰色のベールがかかっていますが、今日のスモッグは特に酷い。風向きのせいで工場地帯の煙が流れてきているようです」


 隣のアカツキが窓から空を見上げていた。わたしたちを乗せた馬車は広場の外周に整備された馬車路を走り、鉄道記念館へ向かっている。小石でも弾いたのか馬車が揺れ、アカツキと肩がぶつかった。サハラン霊園を出てからもう何度体をぶつけたかわからない。


「すいません、ケイ卿。わたしから誘っておいてこんなふうに言うのもどうかと思いますが、この馬車に二人で乗るのはやめた方が良かったですね」


 メルヴィン・ヒースが手配した馬車は横長のベンチがひとつあるだけで、隣り合って座るしかなかった。これが愛を囁く恋人同士なら問題ないが、会ったばかりの平民相手にアカツキはよく了承したものだ。


「ユーフェミア嬢。二人乗りの馬車に二人で乗るのは別におかしいことではありませんよ」


「公爵家のご令息と平民が並んで座っているのがおかしいんです。それに、クゥヤ様にも申し訳ないことをしてしまいました。わたしとケイ卿がチェサで合流することにしておけば、もう少し兄弟水入らずの時間がとれたはずです」


 四人乗りの馬車に一人乗り込んだクゥヤは、別れを惜しむようにアカツキと話し込んでいた。わたしは隣の馬車で待っていたけれど、義弟の怪しむような視線が何度かこちらに向けられ、少し寂しい気分になったのだった。


「クゥヤはユーフェミア嬢と話したかったようで、兄さんばっかりずるいと言われました。もしかしたらユーフェミア嬢に一目惚れしたのかもしれません」


 アカツキは顎を引き、上目遣いにわたしと目を合わせた。


「ケイ卿に冗談を言う元気があるようで安心しました。霊園では今にも泣きそうな顔をしてましたよ」


「実際に泣いたんです。それで弟がわたしを心配して、無理はするなと小言を言われていたんです」


「ケイ卿は意外に涙もろいんですね」


 わたしの知らないアカツキの一面を見せられたせいか、自分相手に嫉妬に似た感覚を覚えた。セラフィア・エイツの知るアカツキはいつも飄々としていて、こんなふうに弱さを見せることはなかったから。


「わたしが最後に泣いたのは乳母の葬儀です。十二の時だったと思いますが、それ以来涙を流した記憶はありません。乳母が死んだときだって、一、二週間もすれば普通に過ごせていました。それが、一ヶ月経ってもこの体たらくです。セラフィアはそれくらい大切な人だったんですよ。だからわたしはあの男が許せない」


「ルーカス・サザランのことですか?」


「そうです。先ほどユーフェミア嬢から彼の話を聞いて、やはり直接話を聞かなければならないと思いました。ソトラッカに戻ったら彼の家を訪ねてみます。借家を引き払ったわけではないようですから」


 アカツキの言った〝彼の話〟というのは、ルーカスからの別れ話に傷ついたセラフィアが自殺したという、あのバカバカしい嘘のことだ。


「直接尋ねても、エイツ男爵様にしたのと同じ話が返ってくるだけだと思います」


「そうだとしても、ルーカス・サザランがどんな顔でセラフィアの話をするのか確かめずにはいられません。あの男から告白して恋人になったようだけど、本当にセラフィアを愛していたのか。なぜ別れを切り出したのか。ユーフェミア嬢には――」


 アカツキが何か言おうとしたとき、馬車がガクンと揺れて停まった。窓の外に『クローナ鉄道記念館』と刻まれた石が見え、五段ほど石段を上った先にレイルズ通りにあるような古典的な石造りの建物が見える。


 わたしは御者にオトへの伝言を頼み、迎えは不要だと言って馬車を出させた。アカツキの荷物は父が手配して先にホテルに届いているらしく、持ち物といえば脱いだ上着くらい。わたしも貴族令嬢ふうに小さなハンドバッグしか持っておらず、ホテルまではわざわざ馬車に乗る必要のない距離だ。


「では行きましょうか」


 アカツキは癖で懐中時計を確認したが、広場の時計塔はもうじき六時半になるところだった。七時の閉館まで三十分あるから、肖像画を確認するのには十分時間がある。


 わたしは赤毛が見えないようにつば広帽子を目深にかぶり、アカツキと並んで鉄道記念館の受付カウンターの前に立った。二人分の入館料千クランを出すと、係の若い青年は「閉館は七時ですがよろしいですか」と申し訳なさそうな顔をする。


「構わないよ。ところで、エリオット・サザランの肖像画がどこにあるか教えてもらえるかな」


「エリオット・サザランの肖像画ですか? えっと……、すいません、少しここでお待ち下さい」


 受付係はカウンターを出て、展示室とは反対方向に駆けていった。エントランスロビーにはわたしとアカツキの二人が取り残され、係の足音が聞こえなくなると不意に外の喧騒が耳に届く。それはどこか遠い世界のことのように感じられた。


「ケイ卿、先ほど馬車を降りる前に何か話そうとしていませんでしたか?」


「……ああ。あれは、ユーフェミア嬢に恋人がいたのか聞こうとしたんです」


「なぜそのようなことを?」


「あなたはわたしよりも長く生きてきたでしょうから、恋人に先立たれたこともあったかもしれないと思ったんです。わたしはまだ未熟者で、どうやって愛する人の死を乗り越えればいいのかわからなくて」


 いま耳にした言葉をどう受け止めてよいかわからず、わたしは彼の腕に手を添えたまま、ぼんやりとその顔を見つめた。


「ケイ卿のおっしゃっる愛する人というのは、セラフィアお嬢さまのことですか?」


「もちろん。それ以外に誰がいるんです?」


「でも、あなたは……」


 愛してるなんて言葉をわたしに言ったことはないし、わたしと同じように結婚や恋愛よりも研究を優先する人だったはず――喉元まで出かかったその言葉を飲み込むと、アカツキは続きを勝手に想像したらしく「ええ」と淋しげにうなずいた。


「わたしはセラフィアの恋人ではなくただの同僚です。彼女がいなくなってから、自分がどれほど彼女を愛していたのか気づくような、そんな愚かな男なんです」


「会ったばかりのわたしになぜそんな話を?」


「普段は強がっていないと悲しみでどうにかなりそうで。親しい人たちはみなわたしの気持ちを察して慰めてくれるでしょうが、わたしに慰めてもらう資格はありません」


 出会ってから今までのアカツキとのやりとりが、交霊の時のように一気に脳内に溢れた。


 どうしてわたしはルーカスの告白を簡単に受け入れてしまったのか、どうしてもっとルーカスの言葉を疑わなかったのか、サザラン家についてなぜ情報を集めようとしなかったのか。イヴォンの姿絵を見せられた時点でアカツキに相談するべきだったし、あの夾竹桃祭りの日、約束に遅刻したとしてもアカツキの研究室に顔を出すべきだった。記憶が後悔とともに波のように押し寄せ、


 ――わたしがセラフィアだと打ち明けてしまおうか。


 一瞬そんな考えが頭を過ったけれど、口にする勇気はなかった。たとえアカツキが信じたとしても、今のわたしはイモゥトゥ。十六歳の少女の姿はいつまでも変わらない。アカツキがセラフィア・エイツに抱いた感情を、少女の姿をしたわたしにそのまま向けるとは考えられなかった。


「ユーフェミア嬢、どうやら係の者が戻ってきたようです」


 若者は恰幅の良い壮年の男を連れており、この暑さのなか上着のボタンをきちんと留めたその男はここの館長だと名乗った。


「初めてお目にかかります。あなたがケイ公爵家のご令息でいらっしゃいますね」


 受付では入館料を払っただけで記名も何もなかったが、係の若者が公爵令息の顔を知っていたようだった。カウンターの中で作業しつつ、チラチラこちらをうかがっている。


「わざわざ館長に来てもらうほどのことでもなかったのですが、お気遣い感謝します。わたしはケイ公爵家の三男でアカツキ・ケイと言います。ソトラッカ研究所で研究員をしております。こちらは同僚だったエイツ男爵令嬢のご友人で、男爵に頼まれてわたしがチェサを案内しているところなのです」


 アカツキがわたしとの関係までわざわざ説明したのは、受付係がおかしな噂を広めないようにだろう。エイツの名が出たからか、館長は余計な詮索をしようとはしなかった。


「ケイ卿はエリオット・サザランの肖像画をお探しだとうかがいました」


「ええ。ここにエリオット・サザランの肖像画が展示してあると耳にし、機会があればぜひ拝見しようと思っていたのです。わたしは宗教学が専門で、エリオット・サザランといえばラァラ神殿を建てた方ですから」


「そういうことでしたか。ここにあるのは小さな絵ですが、ご覧になって損はないと思います。ご案内しましょう」


 館長は見学ルートに沿って目的地へと向かう道すがら、目についた鉄道模型や古びたポスターについて絶え間なく蘊蓄を披露した。鉄道好きが高じてここの館長をしているらしく、アカツキは愛想良く相槌をうっていたけれど、わたしの心は先ほどのアカツキとのやりとりに囚われて、館長の声はほとんど耳を素通りしていた。


「これです」


 館長が足を止めたのは蒸気機関車開発の歴史に関する展示室。部屋の隅の目立たない場所に手帳を広げたくらいの小さなコンテ絵が掛かっており、白黒で髪色まではわからないが、垂れ目がちの穏やかな眼差しも、口元に浮かべた笑みさえもゾッとするほどルーカスにそっくりだった。雰囲気が違って見えるのは年齢のせいだろう。


 絵の横には解説文があり、タイプした文字で次のように書かれている。


『エリオット・サザランが生きたのは蒸気船が活躍し始めた四百年代前半。蒸気機関車はまだ存在しなかった。エリオットはクローナ大陸を横断する交通路が蒸気機関によってもたらされると予言し、蒸気機関車の開発に多額の出資をした。しかし、彼がその完成を見ることはなかった。世界第一号の蒸気機関車は、彼の故国ロアナ王国の首都ハサと隣国ナスル王国の聖地トゥカを結ぶ約千キロを走行したと記録されている。※左の肖像画はエリオットの友人の手によるものとされているが作者は不明。裏面に〝420年8月2日〟と記載があり、エリオットが四十歳の時のものと思われる。』


「美男子でしょう。肖像なんて美化して描くものですが、このエリオット・サザランは本当に美形だったようです」


 館長が得意げな顔で言い、アカツキは値踏みするように絵に顔を近づけて観察した。


「たしかに見て損はない美男子です。館長はエリオット・サザランに詳しいのですか?」


「いえいえ。数年前にクローナ大聖会の方々をご案内したことがありましてね、そのときに大教司様がそのような話をされたのです。今話題のラァラ神殿にもエリオット・サザランの肖像があるそうですが、晩年に描かれたものでこちらの絵のほうが断然若くて美形だとか。それから、この絵は珍しいものだともおっしゃっていました」


「珍しいと言うと?」


「ちょっとわかりにくいですが、喉仏のここのところにホクロがふたつあるでしょう? エリオットの肖像はいくつか残っているそうですが、ホクロが描かれているのはこの絵だけではないかということです」


「どれがホクロですか?」


 目を眇めるアカツキの横で、わたしにはハッキリ見えていた。襟のレースと喉仏の陰影に紛れるように、確かに小さな点がふたつ。それはルーカスの首のホクロとまったく同じ場所にあった。

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