第四話 エイツ男爵家の訪問者
――ヨスニル共和国ダンスール郡コラール市ツリズ通りエイツ男爵邸――クローナ歴555年8月20日
当初の予定ではチェサ駅からコラール駅まで鉄道を利用するつもりでいたのだが、今朝わたしの部屋を訪れたメルヴィン・ヒースは『馬車を手配しました』と、老人の風貌ならではの穏やかで威圧的な笑みをもってこちらの拒絶を封殺した。チェサ特別区とコラール市は隣接しており、ツリズ通りまでは二十キロほどしかなく、道も整備されているから馬車でも一時間ほどあればたどり着く。父が首都へ出かけるときはもっぱら馬車移動だったし、ヒースの顔を立てるためにもわたしはありがたく厚意を受け取ることにしたのだった。
オトをレッドロビンズホテルに残し、一人でエイツ家に向かった。いつにも増して暑さの厳しい日で、ヒースが用心のために姿を隠せる箱馬車を手配していたこともあり、カツラはかぶらず髪を束ね、鍔の広い帽子を持って出かけた。『髪型が違うだけでも多少は交霊の妨げになるから』というオトの助言を受けてのことだった。それでもキャビンは窓を上げなければ耐えられないほど暑く、カブリオレで幌を上げて走ればもっと涼しいだろうと思ったが、工場地帯を抜けるときは煤煙の酷さに辟易し、箱馬車を選んだヒースに感謝した。
エイツ家の方から訪問は午後にとの連絡が入っていたため、それに合わせてホテルを出発したのは正午過ぎ。ツリズ通りはコラール駅よりも手前にあり、エイツ男爵家が見えてきたのは午後一時を少し回った頃だった。国内外に名を馳せるだけあって敷地はかなり広く、建物が見えても正門まではまだしばらく距離がある。ノウゼンカズラが塀を乗り越えて蔓を垂らし、橙色の花が道端にポトポトと落ちているのが見えた。
『ユフィの髪みたいね』
庭の棚に咲き乱れるノウゼンカズラを指差し、姉のように慕っていた使用人にそんなふうに話しかけたのは、たぶん十二歳の夏。ノウゼンカズラが橙色の花をつけるたび、ユーフェミアのことを思い出さずにはいられなかった。
今のわたしはそんな思い出に浸ることもできず、刻一刻と近づく父との再会に心臓は早鐘を打っている。自分は元使用人ユーフェミア・アッシュフィールドだと心の中で繰り返したが、ふとした瞬間に緊張の糸が切れ、父の前で取り乱してしまうのではないかと気が気ではなかった。
そうしているうちに馬車はスピードを落とし、正門の数十メートル手前で完全に停車した。どうしたのだろうと前方の窓越しに御者に声をかけようとしたところ、正門前に停まった馬車が目に入り、ちょうど門から人が出てくるのが見えた。
「あの馬車が出発したあとで門の前につけますから、少しお待ち下さい」
御者の言葉にわたしは「ええ」とそぞろに返しながら、本能的に帽子を深く被ってうつむいた。そして、御者の陰に隠れるようにしながらそっと門の様子をうかがい、確信したのだった。
門を出たところで握手を交わしているのは、わたしの父とルーカス・サザラン。首にスカーフを巻いた金髪の青年は、この暑さのなか相変わらず長袖で、それでも汗ひとつかいていないような涼しげな顔をしている。傍に控える小柄な従者はロブに違いなかった。
握手の手が離れたとき不意に二人がこちらを向き、わたしは不自然にならないようそっと帽子の鍔を下げた。
――次の来客をお待たせしてしまったようですね――ああ、あれはセラフィアが懐いていた使用人の――
そんな会話が交わされているのではないかとヒヤヒヤしながら、わたしは門前の様子をうかがうのもやめて、さっさとルーカスがいなくなることを祈った。馬車が動き出すまでほんの二、三分ほどだっただろうか。門の前に停まってもルーカスの馬車が道の先に見え、わたしは父が門前で出迎えているにも関わらず、不躾を承知で門の陰に駆け込んだ。そして、その勢いのまま思い切り深く頭を下げた。
「男爵様、あの時は突然いなくなり、本当に申し訳ありませんでした。訪問をお許しくださった上、過分のご配慮までいただいて――」
「頭をあげなさい。外は暑いから、ひとまず中に入ろう」
肩に父の手が触れ、半ば予想していたこととはいえ、この体は昂る感情を抑えることができずポロポロと涙が溢れてきた。顔をあげられずにいると、父は馬車を裏に回して待つように御者に言い、女中を呼んで客人を書斎に案内するよう命じた。その口調から、わたしが元使用人だということは伏せてあるようだった。
「ユフィ。セラフィアの話をしよう。今日はあの子が亡くなってちょうど一ヶ月なんだ」
わたしは父の短い影を追うように、生まれ育った屋敷に足を踏み入れた。
「こちらです、どうぞ」
わたしを案内してくれたのは、二年ほど前からこの屋敷にいる最年少の少女。クゥヤが養子になった時期に使用人を大幅に入れ替えたため、ユーフェミアがここで働いていたことを知る者はいない。もしいたとしても、父がユフィの正体を知って味方してくれているのなら、訪問に合わせて外出させるなりしているはずだ。
「あのう、わたしの前にいらしていたお客さまは、セラフィア男爵令嬢のお知り合いですか?」
女中に尋ねると、「そのようですが、詳しくは」と言葉を濁した。今日はずいぶん暑いですねと当たり障りのない言葉で話題をそらし、わたしの素性を探るような質問をしてくることもない。ちゃんと線引きのできる優秀な女中だが、少女時代のわたしを救ったのは図々しく心に踏み込んでくる型破りな使用人ユーフェミア。昨日メルヴィン・ヒースが彼女に救われたと言ったときも、ユフィならそういうこともあるだろうと、談笑する二人の姿が目に浮かぶほどだった。
「飲み物をお持ちしますね。この屋敷には製氷機があるので、冷たいものを飲めば汗がひくと思いますよ」
書斎から出ていく女中の後ろ姿を見送りながら、研究所でも夏になると冷凍機の隅で氷を作って飲み物に入れていたことを思い出した。貴族学校のように夏休みがあるわけでもなく、きっと同僚たちは今夏も同じように氷を作り、あの場所で各々の研究を進めているのだろう。
「待たせたね」
ノックもなく扉が開き、わたしは慌ててソファーから立ち上がった。父は手の動きだけで「座れ」と促し、自ら運んできたグラスをわたしの前に置く。紫色をした葡萄ジュースには大きな氷がふたかけ浮いて、カラカラと涼しげな音をたてた。こうして改めて正面から見てみると、父はずいぶん疲れているようだった。
「君は変わらないな」
「その理由は男爵様が考えられている通りです。ですが、あのような大金を本当にわたしがいただいてもよろしいのでしょうか」
父はうなずき、「冷たいうちに飲みなさい」とグラスを指した。
「ユフィがいた頃はまだ製氷機がなかったね。セラフィアはソトラッカ研究所に勤めていたのだが、研究用の設備で氷を作ってコーヒーに入れるのだと、そんなことを言っていた」
「お嬢さまのことは人づてに耳にしました。とても残念に思います」
わたしは用意していた言葉を口にし、故人を悼むふうに顔を伏せて押し黙った。父はイス皇国でわたしがユフィを見かけてイモゥトゥに興味を持ったこと、研究所がイモゥトゥの存在を公表したことをきっかけにわたしがイモゥトゥ研究者になると決めたことなどを時系列を追って説明し、そのあと事故の話になった。
「信じがたいのだが、目撃者の話によるとセラフィアは自ら馬車の前に飛び出したそうだ。それで、ソトラッカ市警は自殺ではないかとも考えたらしいが、あの夜は夾竹桃祭りだったこともあり、酒に酔って足元が覚束なくなっていたのだろうという話で落ち着いた。が、事故現場はチェレスタ九番通り――と言っても君にはわからないか。ランタンパレードの終着点であるローサンヌ広場の近くでね、目撃者がたくさんいたのだが、酔ってふらついたようには見えなかったと複数の人間が言っている。腹立たしいことだが、麻薬でもやって突発的に馬車の前に飛び出したんじゃないか、なんていう噂もあるくらいなんだ」
「そんなのあり得ない!」
思わず立ち上がり、そんなわたしを父は眩しそうに見上げた。
「まあ、座りなさい。わたしもあの子がそんなことをする子じゃないのはわかっている。あの夜、セラフィアはさっき馬車で帰っていった青年と会っていたらしい。彼の話ではセラフィアの恋人だったそうだが、あの夜セラフィアに別れ話をしたらしくてね、そのせいで自殺したのではと、そんなことを言っていた」
「その話を信じるのですか? セラフィアお嬢さまが男に振られた程度で人生も研究も放り出してしまうなんて」
「わたしが知っている娘ならあり得ないことだ。だが、あの子がソトラッカに行ってからは会話をする機会もずいぶん減ってしまってね、娘のことをこれっぽっちも理解できていなかったのではと、今さらながら悔やんでいるよ」
この場で自分がセラフィアだと名乗ってしまいたかった。けれど、おそらくルーカスは何らかの目的があって父に接触したはずで、ここで真実を話せば父にまで余計な火の粉が振りかかりかねない。
「お嬢さまの恋人というその方は、研究所にお勤めなのですか?」
「いや、彼はルーカス・サザランといって、ロアナ王国では名家の出身らしい。そう言えば君はロアナ出身と言っていたから、エリオット・サザランの肖像画くらいは見たことがあるんじゃないか?」
なぜ今エリオットの名前が? と訝りながら、わたしは「いえ」と首を振った。
「そうか。まあ、君があの青年と会うことはないかもしれんが、エリオット・サザランと驚くほど似ているんだよ。わたしはエリオットの肖像画を見たことがあってね、こんなに整った美男子が実際にいるわけがない、どれだけ美化したのだと笑ったのだが、さっきの青年はまさに肖像画から抜け出したような美男子だった」
「エリオット・サザランはそれほど有名なのですか? ラァラ神殿を建てた人と聞いたことはありますが、旦那様は宗教関係のことはあまり興味がおありにならないと思っていました」
「宗教に興味がないのは昔から変わらないよ。それに、神殿を建てた男が敬虔な信徒とは限らない。エリオット・サザランはどちらかといえば俗物だったのではないかと、わたしはそう考えているんだ。同時代に生まれていたら意気投合したかもしれない」
「まさか」とつぶやくと、父は鼻を触ってフッと息の漏れるような笑い方をする。懐かしい仕草だった。
「エリオットはおそらく商売のために宗教を利用していたんだ。彼が生きていた四百年代前半は移動はまだ馬車か船、それも蒸気船ではなく帆船が主流だったが、彼の支援があって、ジチ教大聖会が世界で初めて実用化された蒸気船を所有することになったんだ。その後、蒸気機関車の開発にも出資したと聞くし、サザラン伯爵家がワイアケイシア社の大株主なのもその流れだろう。クローナ大陸の交通網はエリオット・サザランがいなければ五十年遅れていたと、業界ではそんなふうに言われているらしいよ」
ロアナ王国は宗教に支配された旧弊な土地だと認識していたわたしにとって、父の言葉は目から鱗が落ちる思いだった。それに加えてエリオットとルーカスが瓜二つだという事実は、いったい何を意味しているのだろう。
「男爵様はどこでエリオット・サザランの肖像をご覧になったのですか?」
「どこだったか、ナスル王国あたりに仕事で行ったときだと思うが、気になるのならチェサ駅裏の鉄道記念館に彼の絵があったはずだ。コンテで描かれた小さなものだが」
グラスの氷はすっかり溶けて、薄紫の液体が下のほうに溜まっていた。このあとは自分の墓に行くつもりだったのだが、変更して鉄道記念館に向かおうかと考えを巡らせつつ、わたしは最後にアカツキ・ケイへの紹介状を書いてもらえないかと父に頼んだ。すると、予想外の言葉が返ってきた。
「ちょうどいい。アカツキ君は昨日からコラールに来ていてね、昨晩はこの屋敷で一緒に食事をとったんだ。今日は彼の弟でありわたしの息子になったクゥヤと街を散策して、昼食をとったあとにセラフィアの墓に向かうと言っていたよ。君も墓地に向かうつもりだったのだろう?」
父は喋りながら席を立ち、執務机から便箋を取り出すとサラサラと何かを書きつけ、エイツ男爵家の印璽で封をしてわたしに差し出した。
「セラフィアがイモゥトゥ研究者になった理由はアカツキ君も知っている。君のことは娘が懐いていた使用人だと書いたから、彼なら事情を察するはずだ。もし会えなくても、手紙は研究所宛てにも送っておくから心配しなくていい。研究所が気に入らなければいつでもここに来ればいいさ。今度、セラフィアの部屋を見せてあげよう」
ユーフェミアに向ける父の慈愛あふれる顔に、わたしは肺病で孫娘を亡くしたというメルヴィン・ヒースの話を思い出していた。父も、ユーフェミアと話すことで娘を失った穴を埋めたがっているのかもしれない。わたしにユーフェミアのようなことができるだろうかと少し不安になったが、父の娘であるわたしが、娘を失って悲しむ父を慰められるなら憑依も悪いことばかりではないと思えた。
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