第三話 レッドロビンズホテル

__ヨスニル共和国チェサ特別区__555年8月19日



 チェサ駅構内の電信局でジュジュとエイツ男爵家に電報を送り、外に出るとオトが壁際で旅行鞄に腰掛けていた。到着列車が重なる時間帯らしく、電報受付に長蛇の列ができていたせいで少年は待ちくたびれた顔をしている。


 ようやく到着したヨスニル共和国の首都チェサ特別区。蒸気機関車や工場から吐き出される煙で街は灰色の靄がかかり、忙しなく行き交う馬車が土埃をたて、道行く紳士が靴磨きの少年に足を差し出し葉巻を吸っている。その景色はわたしが知っているチェサと変わりなかった。


 バッスルスタイルの流行は今が最盛期らしく、御婦人たちはみなお尻を大きく膨らませた雄鶏みたいなドレスを身に纏っていた。肩を露わにしたデザインは大胆だが涼しげで、上品さが保たれているのは肘まであるレースの手袋のおかげ。みなその手に扇を持って首筋を煽いでいる。


「ひどい空気だね」


 オトは鼻をひくつかせてクシャミした。


「チェサは特にひどいのよ。煙突の高さが条例で決められたけどまだ工事が進んでないの。ソトラッカはここの百倍空気がおいしいわ。農業や牧畜が主な産業だから」


「へえ、ぼくもユフィと一緒に研究所に行こうかな」


「わたしは別に構わないけど、犬がうろついてるかもしれないわよ。ルーカスに情報を流してたクリフ・オールソンは犬の一人かもしれないし」


 わたしは自分の言葉にハッとして、駅からまっすぐ伸びるレイルズ通りに目をやった。古典的な石造りの建物が立ち並ぶ広々とした石畳の道。王政時代に整備されたもので、この道をまっすぐ行けば国務院として使われているかつての王城にたどり着く。小高い丘にそびえる旧王城は汚れた大気に霞んでいたけれど、その手前にあるチェサ時計塔は文字盤を読める程度には見えていた。


「ユフィ、どうかした?」


「あそこに時計塔があるでしょ。その下がヨスニル国立大学の正門よ。クリフ・オールソンが通ってる首都キャンパス」


「そうなんだ。ちょっと行ってみる?」


「本気で言ってるの?」


 わたしがジロリと睨むと、オトは愛嬌たっぷりに肩をすくめる。そのあと彼の視線がおかしな動きをし、たどってみると身なりの良い紳士が物色するような視線をオトに向けていた。手を振って応えるオトに呆れつつ、わたしがその手を掴んで引き下ろすと、男はそそくさと立ち去っていく。


「チェサ特別区での売春は公営のものしか許可されてないからね。さっさと行くわよ」


 わたしが旅行鞄を手に歩き出すと、オトはクスクス笑いながらついてきた。


「あの男についてくの?」


「ついて行ってるんじゃないわ。宿がそっちにあるのよ」


「ユフィが昨日電報で予約してたところだよね。なんて名前だっけ」


「レッドロビンズホテル。一般の貴族向けのホテルじゃないから駅の案内所には登録していないの」


「庶民向けってこと? 男爵令嬢がそんなところを知ってるなんて意外だね」


「父が昔からよく利用してた商人向けの宿なの。談話室で定期的に事業家のサロンが開かれていて、国内外の商人が利用しているけど客層はかなり若いわ。値段を抑えるために個室には最低限のものしか揃ってないから」


「あのエイツ男爵がそんな宿を?」


「サロンの発起人が父なの。志ある若い人にチャンスをあげたかったみたい。前にザッカルングのタオル工場の話をしたでしょ? あの話も元はそこのサロンから始まったらしいわ。外国客が多いのは、だいたいどの言語も喋れる従業員が一人はいるから」


「デセン語が通じる?」


「問題ないわ。たぶんロアナ語やナータン語でも大丈夫よ」


 へえ、とオトは感心しているようだった。


 わたしたちは仲良し姉弟を演じながら歩き、レイルズ通りを外れ、カフェテラスで談笑する人々を横目に見、開演前のオペラ劇場前にたむろする貴婦人を遠巻きに避け、赤煉瓦造りの建物が立ち並ぶサンズ通りに出た。


 ランプライターの少年がガス灯に火を灯している姿で日が暮れかかっていることに気づく。着飾った紳士淑女の姿は見当たらず、パブでは小ざっぱりした服の男女が楽しげにビールを酌み交わしていた。


「さっきの通りとはずいぶん違うね。柄が悪そう」


「全然そんなことはないわ。ウェルミー五番に比べたら安全そのもの。レイルズ通りはヨスニルの旧貴族が好む由緒正しい街だけど、こっちは革命後にできた新貴族と労働者の街。自治組合もちゃんと組織されているし、レイルズ通りよりも犯罪が少ないの。高級品を扱ってる店がこっちにないせいもあるけど――。着いたわ、ここよ」


 一見パブのように見える入口の左右に、愛想の良い笑みを浮かべたベルボーイが立っていた。わたしとオトのデセン語の会話が聞こえたのか、


「レッドロビンズホテルにお越しですか?」


 デセン語で尋ねてきたのはクセ毛の黒髪に浅黒い肌をした青年。


「予約してあるの。ユーフェミア・アッシュフィールドよ」


「かしこまりました。どうぞこちらへ」


 ベルボーイはわたしとオトの荷物を両手で軽々と持ち上げ、その逞しい背中にディドリーの男を思い出す。


 ジュジュの話によるとリスル座では計画通りダーシャが死んだと噂が広まり、だからといって何が変わるわけでもなく、あの男も踊り手として日々を過ごしているらしい。あの男のことを考えるたびに胸が痛むけれど、その痛みは時とともに少しずつ和らいで、そのことがダーシャに対してもあの男に対しても申し訳ない気分にさせる。


「姉さん、ぼうっとしてないでよ」


 オトの声で我に返った。受付カウンターでは見覚えのある老紳士が穏やかな微笑をたたえ、思いもよらぬ邂逅にわたしはしばし呆然となる。


「アッシュフィールド様。お二人様同室で、今夜と明日のニ泊のご宿泊でよろしいですか?」


「……あ、ええ。もしかしたら数日延ばすかもしれません」


「その時はまたお申し付けください。では、こちらにご署名をお願いします」


 差し出されたペンをとり、思わず『セ』と書きかけたのを、『ユーフェミア・アッシュフィールド』と強引に修正した。支払いを済ませ、傍で待っていたベルボーイについて部屋へと向かいながら、勝手知ったる景色に妙な違和感を覚える。セラフィアよりも目線が低くなったせいだ。


 ロビーを横切り、サンズ通りに面した館内カフェを横目に通り過ぎ、階段を上がると談話室から漂ってくる煙草の匂いが鼻をくすぐった。扉のないアーチ状の入口には紫色をしたカーテンがかかり、片側だけが金色のタッセルで留められている。


「あちらは談話室になっております。ご宿泊のお客様でしたらご自由にお使いいただけますし、書庫もありますので気軽にご利用ください。デセン語の本もございます」


 オトはひょいと首を突っ込んで「広い!」と無邪気な声をあげた。好奇心旺盛な平民の弟を演じているようだ。


「姉さん、すごく広いし本もたくさんある」


「わかったから、また後で一緒に来ましょう。荷物を持たせたままでは悪いでしょう?」


 その後ベルボーイに案内されたのは談話室と同じ二階フロア、通路突き当たりにある角部屋だった。窓が東と南の二方にあり、寝室とは別に簡素な応接室が付いているこの部屋は、寝室のみの一般客室と比べて割高のはず。


「あの、この部屋で合っていますか? わたしが予約したのは普通の部屋のはずですし、その分しかお支払いしていません」


「ご心配なく。この部屋で合っています。オーナーの計らいですので、どうぞごゆっくりお寛ぎください」


 ベルボーイはそう言うと、荷物を置いてさっさと部屋を辞してしまった。二人きりになるなり、オトが「どういうこと?」と眉を寄せて聞いてくる。


「わたしにもわからないわ。でも、彼の言っていたオーナーっていうのは、さっき受付にいたおじいさんのこと。名前はメルヴィン・ヒース。何度も顔を合わせたことがあるけど、それはエイツ男爵家の娘としてだし、彼がエイツ家に来たことはないから使用人の顔なんて知らないはずなのに」


「やつらが関与してるってことはないよね」


「あり得ないわ。もし仮にそうだとして、こんなふうに特別扱いしたら警戒されるに決まってるじゃない。そんなバカなことしないわよ」


「やつらではなさそうだけど、オーナーにユフィの正体がバレてる可能性はあるってことじゃない? ダーシャが昔このホテルを利用していたとか」


 刹那の沈黙を破るノッカーの音で、わたしもオトもビクッと肩をすくめた。


「アッシュフィールド様、先ほど受付をさせていただいたヒースと申します。少々お時間よろしいでしょうか」


「……あの、すいません。今着替えをしているもので、どのようなご要件でしょう」


「頑固じじぃが昔話をしたいだけと申しましたら、この扉を開けていただけますかな? ユーフェミアさん」


 ロアナ語の砕けた言葉にわたしはオトと顔を見合わせて驚いた。どうやら、ユーフェミアは宿泊客以上の関係をこの老人と築いていたらしいが、口調からして彼がわたしたちに害をもたらすようには思えない。わたしは帽子を脱いだついでに焦げ茶色のカツラも外し、旅行鞄の上に投げ置いた。


「ちょっと、ユフィ。大丈夫なの?」


「何かあったら叫べばいいわ。きっとサロンまで聞こえるはずだから」


「目立つとまずいんじゃない?」


「わかってる。でも気になるじゃない」


 最後のひと言がダメ押しになったようだ。オトは「わかったよ」と自ら扉を開け、そのときには愛想の良い弟の顔に変わっている。老紳士はわたしの赤毛をみとめるとわずかに目を見開き、穏やかな顔に無数の皺を寄せた。


「お元気そうでなによりです。ユーフェミアさん」


 テーブルを挟んで向かい合い、口を切ったヒースの言葉はデセン語だった。ユーフェミアとどのような関係か聞き出したいところだけど、下手なことを口にして怪しまれるわけにはいかない。


「もしかしてエイツ男爵様に命じられていたのですか? 逃亡した使用人を見つけたら報せろと」


 消去法の結果選んだ言葉だったが、思いもよらず核心を突いたらしかった。


「男爵はあなたを捕まえて罰しようなどと考えているわけではありません。あなたがもしわたしの前に再び現れ、助力を必要としているなら労を惜しまず協力するようにと」


「理解できません。どうして男爵様がそのようなことを?」


 ヒースはわたしの隣に座るオトをチラと見ると、次に口にしたのはロアナ語だった。


「あなたが正体を隠して安全に暮らせるよう、ある程度の資金もお預かりしております。セラフィアお嬢さまがあなたのことを心配しておられて、あなたのためにソトラッカで研究をされていたのですが」


 オトの視線を感じながら、わたしは父との会話を思い出していた。


『ユフィはイモゥトゥだから逃げたのかもしれないわ』


 冗談交じりに話したのは〝ダーシャ〟を見かけた数日後だった。蒸気機関を使った輪転印刷機の視察のためにシデ帝国の教皇庁へ行っていた父と、イス皇国内で合流してすぐのことだ。そのとき父は『彼女は童顔だったからな』と笑っていたけれど、わたしたちがヨスニルに戻ってすぐソトラッカ研究所がイモゥトゥの存在を公表し、わたしは研究所への異動を申請したのだ。


『ユフィの件か?』と父には短く問われ、『そうね』とうなずくわたしに『そうか』と、それだけの会話だった。


「ユーフェミアさん。誠にお伝えし辛いことなのですが、実はセラフィアお嬢さまは先月お亡くなりになったのです」


 ヒースの湿っぽい声で、わたしは追憶から現実へと意識を引き戻した。


「知っています。先ほど駅でエイツ男爵家に電報を送り、訪問を許可いただけるならレッドロビンズホテルに返信がほしいとお伝えしました。返事が届きましたらよろしくお願いします」


「かしこまりました。ところで、こちらの方がどなたかお伺いしてもかまいませんか? 弟さんではないでしょう?」


「ぼくはユフィの世話係だよ」


 オトがロアナ語を喋るとヒースは目を瞬かせた。


「これは、失礼いたしました。内緒話のつもりでロアナ語を使っていたはずが、全部筒抜けだったとは。老人の浅慮と笑ってお許しください」


「別に気にしないで。ぼくもわざとわからないフリをしてたんだから。それより、オーナーさんとユフィの関係を聞いていい? ユフィは最近記憶が曖昧で、どうやらあなたのことをよく覚えていないみたいなんだ」


 ああ、と納得したようにうなずいたヒースは、新生前症状についてちゃんと把握しているようだ。


「以前と雰囲気が違うとは思っておりましたが、そういうことでしたか。ユーフェミアさんはわたしのロアナ語の先生なのです。エイツ男爵家で使用人をされていたのと同時期に、週に二度ほどこのホテルでロアナ語の指導をしていただいておりました。男爵の依頼でロアナ語書籍の翻訳などもされていました」


「覚えてないわ」


 わたしの言葉にヒース老人は淋しげに視線を落とした。


「ちょうどあの頃、わたしは孫娘を肺病で亡くしたばかりだったのです。ユーフェミアさんとの屈託ないやりとりにいつも救われていました。ですから、この老いぼれにできることがあれば遠慮せず何でも言ってください」


「それなら、エイツ男爵様に会えるよう取り計らってくれる?」


「それはわたしがお手伝いするまでもありません。セラフィアお嬢さまの葬儀のときも、もしユフィ嬢が現れたらよろしくと、わたしにそう申しておりましたから」


「ヒースさんは葬儀に行かれたのね?」


「ええ。先日の大雨ほどではありませんが、あの日も空が泣いてるように一日中雨が降っていました。研究所の方々も参列されて、わたしはそのとき初めてケイ公爵家の令息お二人をお見かけしたのですが、研究所でお嬢さまと同僚だったという三男のアカツキ様はそれはそれは憔悴なさっていて、見ているこちらも涙が止まりませんでした」


「アカツキ……」


 無意識にポロリと口にしたけれど、ヒースは「ええ、アカツキ・ケイ様です」と特に訝ることなく話を続けた。


「ユーフェミアさんはもしかして研究所へ向かうおつもりですか? もしそうであれば、エイツ男爵様を通じて事前にアカツキ・ケイ様に連絡するのが良いと思います。男爵様も信用できる方だとおっしゃっていましたから」


「……先のことはまだ未定なの。でも参考になったわ」


 明言しなかったのは、いつどの場面がやつら・・・に交霊でのぞかれるかわからないからだ。勢いでカツラをとってしまったのを今さらながら後悔した。


「もうひとつ、老人からの忠告をよろしいですか」


「忠告、ですか?」


「ええ。ご存知かどうかわかりませんが、現在、ロアナ王国のラァラ神殿がイモゥトゥに懸賞金をかけて捜索しているのです」


「知ってるわ。イヴォンというイモゥトゥを探してるんでしょう?」


「そうなのですが、どこで間違って伝わったのか、イヴォンを捕まえたら七千万クラン、他のイモゥトゥでも報奨金が出るという話が広まっていて、金目当てでイモゥトゥ探しに興じる者が増えているのです」


「でも、イヴォンじゃないとお金は出ないんだよね? 対応にあたる聖会が大変じゃない?」


 オトの指摘にヒースは渋い顔で「ええ」とうなずいた。


「ヨスニル聖会も被害者みたいなものです。ラァラ神殿は聖会を通じて情報を求めると紙面に出したのですが、どうやら各国聖会にはそれが事前に知らされていなかったらしく、情報提供者を門前払いにしようとしたら『呪いが怖くてイモゥトゥを見殺しにするのか』と、ちょっとした暴動が起きましてね。今はチェサタイムスに掲載された捜索記事を聖会の正門に貼って、『イヴォン以外の情報はソトラッカ研究所へ。謝礼金は出ません』と書いてあります。ですが、誰かが意図的に広めているのではと思うくらい偽情報が拡散して収集がつかないようです。聖会の前では情報提供者が毎日悪態をついてます。イモゥトゥを探す者たちはどうやら見境がないようですから、お二人もどうかお気をつけください。隣国ザッカルングでも似たようなことが起きているらしいです」


 ヒースはひとつ息を吐き、伝えるべきことは伝えたというように懐中時計を確認すると、「男爵様からです」と膝に抱えていた包みをテーブルに置いて部屋を出ていった。開けてみるとそこにあったのは現金の束。絶句するわたしをよそに、オトは札束をイチ、ニィ、と数えていく。


「ユフィ、これって一束百万クラン?」


「そうよ」


「じゃあ、一千万クランだ。約五百万テセかぁ。赤の他人にポンとあげる金額じゃないね」


「当たり前でしょ。受け取れないからお父さまに直接返すわ」


「もらっておけばいいのに。たぶん、ダーシャは失踪直前の給料をもらってないと思うよ」


「使用人の給料が一千万クランもあるはずないでしょ」


 そんなわたしとオトの会話を聞いていたかのように、夜十時を回って届いた父からの電報は次のような文面だった。


『ホウモンヲカンゲイスル ヒースニワタシタカネハ ホンヤクノミハライホウシュウ』


 いくらロアナ語を話せる人間が重宝されるからといって、どれだけ翻訳したらこんな大金が支払われるのか。父はどうあってもユーフェミアにこのお金を受け取らせるつもりらしいが、それはおそらく娘が気にかけていたイモゥトゥだからだろう。それを受け取るのも娘だという事実を、父が知ることは一生ないはずだ。

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