第三章 クローナ大陸東端から

第一話 ウェルミー五番通りの朝

__イス皇国モアクイツ市ウェルミー5番通り新月の黒豹倶楽部__7月21日午前



 出窓に腰かけたルーカスの、金色の髪が淡く陽に透けていた。膝の上の画板に留められた紙はエイツ製紙の商品らしく、彼の足元に『エイツ画用紙』と印字された箱が立てかけてある。

 セラフィアのことを思いながら描いたんだ、と青年はこちらを振り返って言った。実物の方が綺麗だけど、この絵もなかなか良く描けてると思わない?

 青年は悪戯っぽい眼差しでわたしを見つめ、紙の上のわたしはバカみたいに笑顔を浮かべている。

『ルーカス、その絵をどうするの? イモゥトゥに見せて交霊でわたしのことを探るつもり? それともすでに調査済みなの?』

『だって、仕方ないよね。セラフィアは期待外れだった。ぼくは秘密をうっかり喋ってしまうような、ちょっと抜けた女性が好みなんだ。ぼくはイヴォンを探しているだけなのに、どうして君は協力してくれないの? 研究所のイモゥトゥにこの絵を見せるだけでいいのに』

『ユーフェミアを襲ったのはあなたの仲間じゃないの? イヴォンを見つけるために、手当たり次第イモゥトゥを捕まえて交霊させようとしてるんじゃないの?』

『セラフィア、自分の言ってることが支離滅裂だって気づかない? やっぱり君は壊れちゃったのかな。でも大丈夫、その苦しみは目を閉じれば終わるよ。愛してる、セラフィア。お別れのキスをしよう』



「――イヤッ!」


 自分の声で飛び起きると、そこは硬いベッドの上だった。手に握りしめたのは薄っぺらな掛け布。部屋に明かりはなく、鎧戸の隙間から夜明け前の頼りない光が差し込んでいた。


「ダーシャ? ……じゃなかった。ええっと、ユーフェミアだっけ」


 澄んだ、若い男の声だった。同じベッドに寝ていたその男は気怠げに体を起こし、「ユフィ?」と、わたしの目の前でヒラヒラと手を振る。少しずつ、昨夜の記憶が蘇ってきた。


「……オト?」


「うん、そう。オト。忘れられてなくて良かった。調子はどう? やっぱりダーシャの記憶は戻りそうにない?」


「調子は悪くないけど、記憶は戻らないと思う」


「そっか。じゃあ、ユーフェミアも一緒にもうひと眠りしよう」

 

 オトは重力に身を任せるようにふたたびベッドに身を沈め、昨夜もそうしたように「ほら」と右手を差し出してきた。ダーシャは新月の黒豹倶楽部に身を潜めている間、少年と青年のちょうど境目にいるこのプラチナブロンドの男に添い寝してもらっていたらしい。新生前症状の進んだダーシャを一人で寝かせるわけにはいかず、監視役をしていたのだとか。


 婚前の若い娘が男と同衾するなんて、と思ったけれど、


 ――襲ったりしないし、女性に対して欲情しないから心配しなくていいよ。それに、ぼくは八十を過ぎたおじいちゃんだから。


 そんなふうに言われると抵抗する気もなくなってしまった。眠かったのもあるし、監視が必要なのはわたしを心配してのことだろうし、それに、わたし自身一人になることが怖かったのだ。


 実際、悪夢にうなされて起きてみると一人でないことがありがたかった。ここがどこで、わたしが誰なのか、オトがいるだけで思い出せる。これは夢ではなく現実なのだと、すぐに諦めがつく。


「イモゥトゥにも睡眠は必要だよ。限界まで我慢して突然意識を失うより、ちゃんと寝られるときに眠った方がいい」


 オトはわたしの手を強引に握ると、目を閉じてスゥスゥと寝息をたてはじめた。わたしは隣に寝転び、息がかかるほどの近さでその顔を観察する。


 八十歳のおじいちゃんの肌はすべすべで、寝顔に少しあどけなさがあった。彼は昨日ハンチング帽の給仕が言っていた『男専門』らしいけど、ダーシャの監視と新生後の世話係を請け負っているため、しばらくそっちは休業なのだとか。


 ふと、エイツ家にいる義弟のクゥヤを思い出した。今年十六で、見た目だけならオトと同じくらいの年ごろ。クゥヤがエイツ家の養子になったのは、わたしが研究者になると宣言したからだった。


 父は常々「女が商売してはいけないことはない」と、わたしがエイツ家の事業に関わることを望んでいたけれど、研究者になりたいと打ち明けると「女が研究者になってはいけないことはない」と迷うことなく背中を押してくれたのだった。必然、エイツ男爵家の事業を任せるに足る後継者を探さねばならなくなり、最初は婿養子をという話が持ち上がった。


 結婚相手として名前が挙がったのは元ヨスニル王家のウィルビー公爵家、それから元ザッカルング王家のケイ公爵家。二家門とも政治への関与を制限されているため、社交界では『名ばかり貴族』と揶揄されている。


 そもそも、なぜ隣国ザッカルングの元王家がヨスニルにいるかというと、ザッカルングに革命が起きた当時、ヨスニル王家が亡命を手助けしたのだ。さらに公爵位と領地を与えてケイを名乗ることを認めたのだが、それにより国内の反王政派が反発を強めてヨスニルでも革命機運が高まった。王家は早々に白旗をあげて無血開城したのだが、その決断は革命で苦い経験をしたケイ公爵の進言だったということである。


 クローナ歴五〇三年のヨスニル革命から今年で五十二年。ヨスニル王族の子孫はウィルビー公爵家として首都から離れた僻地ではあるが不足ない暮らしを送っている。ケイ公爵家も同様に政界からは距離を置いていたのだが、この貴族たちから冷遇されている二家門に注目したのが、まだ爵位どころか実績も何もなかった父。


 製紙技術の進歩したシデ帝国から抄紙機を輸入するため、まだ二十歳そこそこだったエイツ青年はウィルビー家とケイ家に出資を持ちかけた。当時は『事業を潰した平民に金を出すなど』と貴族も商売人も嘲笑したらしいが、父の事業が拡大するのに伴って両家の資産も増えていった。ちなみに、エイツ家の家業だった紙問屋を潰したのは、父ではなくわたしの祖父だ。敬虔なジチ教徒だった祖父は二束三文で聖会に商品を卸し、その結果の廃業である。父がジチ教に限らず宗教全般を嫌うのも無理はなかったのだ。


 公爵家と男爵家という一見不釣り合いな縁談も、そういう事情を考えれば現実的な選択肢ではあった。が、結婚話は流れ、内心乗り気でなかったわたしは胸を撫で下ろした。候補の一人レナード・ウィルビーは長男だから婿はちょっとと渋られ、もう一人の候補アカツキ・ケイも難色を示したのだ。その当時は「どうせ金目当てと言われるのが嫌なのだろう」と思ったが、ソトラッカ研究所に配属されたあと、アカツキが縁談を断った理由が「事業より研究がしたかった」からだと知った。


 父から「おまえの弟だ」とクゥヤを紹介されたのはアカツキと出会う一年くらい前だっただろうか。婿ではなく養子となったのは、結婚するには若過ぎたからだ。わたしはすでに家を出てヨスニル大学首都キャンパスに通っているときで、エイツ男爵家に戻るのはせいぜい月に一度。新しくできた年の離れた弟は、「エイツ家の事業に興味があるのです」と緊張気味に自己紹介し、わたしが男爵家に帰るたびに頬を赤らめて「おかえりなさい」と迎えてくれた。


 アカツキとこんな会話をしたことがある。


『きれいな姉ができたとクゥヤに自慢されたことがあります。見合いもせず縁談を断るなんて兄さんはバカだって』

『ケイ卿が後悔してるようには見えませんが』

『エイツ卿はわたしが縁談を受けた方が良かったのですか? 研究者志望の、才能も熱意もある令嬢だとおうかがいしていたので、わたしと同様、結婚には興味がないのではと思っていたのですが』


 まだ出会ったばかりの頃の、ずいぶん堅苦しいやりとりだったけれど、微睡みの追憶は心をあたたかくした。それでいて、切なく胸を締めつけた。

 

「……シッ、静かに。もう少し寝かせてあげよう。悪い夢を見たのか朝早くに起きてたんだ」

「……そう。たしかにイモゥトゥのくせに顔色が良くないわ」

 

 ロアナ語の会話が聞こえ、瞼の向こうでゆらゆらと蠢く影はオトとジュジュのようだった。ほっそりした指がわたしの額に触れ、ふわりと香ばしいベーコンの匂いが漂ってくる。目を開けると、


「あら、起こしちゃった?」


 ジュジュはベッドの縁に腰を下ろし、昨夜とは違う化粧っ気のない顔でニコッと笑った。窓辺のテーブルには平べったいキツネ色のパンと、ベーコンと白インゲン豆の乗った皿が置いてある。


「いい匂い」


 わたしがスンと鼻を鳴らすと、二人は顔を見合わせて表情を緩めた。


「朝食の前に確認しておきたいの。あなたは誰?」


「ユーフェミア・アッシュフィールド。中身はセラフィア・エイツ」


 昨日、眠る前にジュジュと話し合い、ユーフェミアと名乗ることに決めたのだった。決めたと言うよりもそれしか選択肢がなかった。


 追われている身でダーシャという名前を使うわけにはいかないし、ヨスニル共和国に戻るならユーフェミアの知り合いに会わないとも限らない。見た目が変わっていないことは怪しまれるかもしれないけれど、下手に偽名を使うよりも堂々とエイツ家の元使用人を名乗った方がマシだろうという話になったのだった。元使用人としてならエイツ家を訪ねることも、父と話すこともできなくはない。過去に失踪したことを咎められるかもしれないけれど、それでも父にはひと目でいいから会いたかった。


「眉間にシワ」


 ベッドの上であぐらをかいていたオトが、ぬっと手を伸ばしてわたしの眉間を揉んだ。自然と彼の左肩に目がいってしまうのは、まだ見慣れないからだ。半袖シャツの袖口からは五センチほど腕が出ているけれど、その先はなかった。


「気になる?」とオトは微笑をわたしに向けた。


「気に障った?」


「いや。変に目をそらされるよりいい。イス・シデ戦争のときに砲撃を受けてこうなったんだけど、イモゥトゥとはいえ、我ながらよく生きてたって思うよ」


「戦争に行ったの?」


 思わず声が裏返った。こんな、まだ少年と言っていい見た目の子を戦地に送るなんて――。


 パン、とジュジュが手を打って立ち上がった。


「続きは食べながら話しましょう」


 鎧戸が開けられると、夏の日差しに目が眩みそうになった。昨夜はじっくり見る間もなく眠ってしまったけれど、陽の光に晒された部屋にはずいぶん色んな物が置かれている。服に食器に筆記具、本、ボードゲームにカードゲーム、ブリキ玩具にぬいぐるみ。雑然としているのは窓とは対面の壁際だけで、部屋自体は片付けられて広々としていた。他に置かれているものと言えばベッドとテーブルと椅子くらい。


 ここによく似た場所を知っている。ソトラッカ研究所第六研究棟にある、新生後のイモゥトゥが暮らしている部屋だ。新生後のイモゥトゥを育てるのは基本的には赤ん坊を相手にするのと同じで、物の使い方や言葉は一から教えないといけない。そのための学習道具がこの部屋には揃っている。


 イモゥトゥの新生後に関するレポートはまだ外部に公表されていないが、歩き方や泳ぎ方などの手続き記憶は失われていないようだった。言葉については、声帯が十分発達していることもあり発話だけならすぐできる。――というのはたった二例の新生でみられたことにすぎず、これが他のイモゥトゥの新生にも当てはまるかどうかは正直わからない。


 四十年前に研究所がイモゥトゥを保護してから、新生したのは二人。五年前に新生した一人目はその振る舞いと見た目にさほど違和感がなくなってきているが、去年新生したばかりの二人目は精神的な成長速度と能力の成長具合が不均衡なせいか癇癪を起こすことが多かった。すべてが手探りで、第六研究棟の書庫に足を運ぶたび幼児教育に関する書籍が増えている。


「ダーシャの新生に備えていっぱい準備したのに、無駄になっちゃったみたい。おむつも用意してたのよ」


 ジュジュがグラスにミルクを注ぎ、オトがあくび混じりに「どうぞ」と椅子を引いた。ダーシャの新生後の世話係を任せられていたオト。彼がおむつを変えるところを想像すると、可笑しいような情けないような気分になった。


「おむつよりも着替えたいわ。この服痒くて」


「あそこにダーシャの服があるから適当に出して着てちょうだい。着替える前に一度体を流したほうがいいから、あとで案内するわ」


 わたしは昨日ジチ教徒の家でもらったクタクタの服のままだった。陽に晒されるとそのみすぼらしさが際立ち、半袖ブラウスの裾は黒く薄汚れ胸元には点々とシミがある。スカート丈を調整するためにフリルを後づけしたのか妙にアンバランスだった。


 ベーコンの香りに誘われて椅子に座ると、オトが右手を使って器用にインゲン豆をフォークで潰し、ベーコンも一緒にパンに乗せて「はい」とわたしに差し出してきた。片手で器用にすべてをこなす姿に感心しつつ、これまで感じたこともないくらいの空腹にお礼を言うのも忘れてかぶりつく。豆はスパイスが効いて、ベーコンもパンもまだ温かく、「おいしい」とヨスニル語がこぼれた。


「何語?」


 オトは自分の分の豆を潰しながら首をかしげる。


「ヨスニル語」


「昨日の夜うなされて喋ってたのもヨスニル語だったのかな? 聞き取れなかったけど」


「聞き取れなくて良かった。それにしても、イモゥトゥにはロアナ語が喋れる人が多いのね。研究所でも八人中六人がロアナ語を話せたわ。交霊状態でロアナ語を口にすることも多かった」


「へえ。本当にイモゥトゥの研究者なんだね」


 オトが手を止めてわたしを見た。ジュジュは口の中のベーコンを飲み込むと「それより」と行儀悪く肘をついてフォークをぷらぷらと振っている。


「研究所のイモゥトゥは全員がロアナ語を話せるわけじゃないのね。その方が意外だわ」


「どうして?」


「ほとんどのイモゥトゥがロアナ出身だからよ。わたしもあなたもオトも、元はロアナ王国の貴族の屋敷で監禁されていたの。監禁時期が違うからそこで出会ったわけじゃないんだけど、どうやら同じ屋敷っぽいのよね」


「昨日ディドリーの男に聞いたわ。高い塀に囲まれてて、中庭しか出られないっていう場所でしょう? ダーシャが交霊状態でそういう話をしていたって。やっぱりロアナ王国の貴族だったのね」


 わたしはこれまで研究所のイモゥトゥが交霊中に口にした貴族の名前を頭の中に思い浮かべていた。その中にイモゥトゥを監禁していた貴族の名前もあったのかもしれない、と考えていると、


「タルコット侯爵よ」


 ジュジュがあっさりと口にした。


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