第五話 お別れのキス

__イス皇国モアクイツ市ウェルミー五番通り新月の黒豹倶楽部__7月20日深夜つづき



 イモゥトゥは極限状態に置かれると生命活動を抑制して仮死状態になる。窒息しかけたときや絶食時も同じような状態になるらしい。その事実を知っているのはイモゥトゥ研究者とイモゥトゥ自身、それに加え、イモゥトゥに虐待まがいの実験をしていた人間くらいだ。消去法で考えるなら、目の前にいる二人はやはりイモゥトゥなのだろう。


 気になったのは、女がダーシャの服装に言及したことだった。


「ねえ、ダーシャは以前から狙われていたの? それでリスル座を辞めて身を隠した?」


 わたしがロアナ語で問いかけると、女の視線がわたしとディドリーの男のあいだで行き来し、「そうね」と短く答えた。


 イモゥトゥとバレて狙われたのか、それとも他の理由があるのか。ダーシャを追っていたのは誰なのか。女はある程度知っているようだけど、ここで詳しく話すつもりはないらしい。


「とりあえず、この男が着れそうな服を持ってきてくれる?」


 女の指図でハンチング帽の少年は棚の奥に姿を消し、扉の外で聞き耳をたてていた仲間がいたのか、話し声が足音と一緒に遠ざかっていった。


「口止め料ははずむから、ダーシャは死んだってことにしてくれない? どうせリスル座にこの子は戻らないから」


「ダーシャを追ってたやつらが信じると思うか?」


「そいつらのことはこっちでどうにかするわ。リスル座の人間にそう信じさせてくれたらいい。この子がイモゥ……」


 女はハッと目を見開いてわたしを見た。うっかり口にしかけて思い留まったようだった。わたしにイモゥトゥだという自覚があるのかどうか、まだ確かめていなかったから。


「わたしはイモゥトゥ。この男も知ってた。ダーシャは言わなかったけど」


「この男から聞いたの?」と女に問い返され、わたしは首を振った。


「わたしは溺れて息が止まった。でも、死んでない。ディドルの怪物ではないから、わたしはイモゥトゥ」


「吸血鬼のことね」


 髪をかきあげる仕草は女の癖らしかった。茜色の紅がのった分厚い唇が開かれ、彼女は男に顔を向ける。


「リスル座にはダーシャをイモゥトゥだって疑ってる人はいた?」


「夢遊病と妄想癖のある女だとは思われてるが、ディドリーはイモゥトゥに詳しくない。新生やそれに伴う症状も知らないし、ディドル伝承の吸血鬼と混同して化物みたいな姿だと勘違いしてるくらいだ。ダーシャがイモゥトゥだなんて考えちゃいない」


「あなたも勘違いしたほうがいいわ」


 女の言い方に苦笑を浮かべ「承知しました」と、男は演技がかった所作で胸に手を当て頭を下げた。


「あなた、あと二十年早くダーシャに出会うべきだったわ。世の中うまくいかないわね」


「いや、うまくいったんだ。だからおれはダーシャの最後の男になれた」


 すべての出逢いに肯定的な意味を見出す、移動生活民ディドリーらしい言葉だった。ユフィも最後の相手がこの男で幸せだったに違いない。そして、おそらく新生が目前に迫っていると直感し、危険を承知で会いに行ったのだろう。


「なんにせよ、ダーシャの恋人だったあなたがダーシャの死に納得してくれてるのが何よりだわ。それは、あなたが彼を納得させたということよね」


 女の視線が男からわたしへと移動し、ひとつ息を吐いてロアナ語で口にしたのは彼女自身のことだった。

 

「わたしの名前はジュジュ。ダーシャに初めて会ったのがいつだったか、忘れてしまうくらい長いつきあいよ。新月の黒豹倶楽部はわたしとダーシャで起ち上げたの。イモゥトゥの情報拠点としてね」


「やっぱりイモゥトゥなのね」


「そうよ。さっきの男もそう。ところで、お望み通り名乗ったんだから、今度はあなたのことを話してくれる? いろいろ忘れてるわりに状況は把握しているみたいだけど、あなたは自分がダーシャだってことを知らなかったのよね?」


「ダーシャのことはまったく知らないわけじゃなかったの」


 どういうこと? と女は眉をひそめた。


「三年前、イス皇国に来たときに彼女を見かけたの。ディドリーのテント街で踊り子をしていて、ダーシャって呼ばれていた。踊り子は、わたしの知ってる人にそっくりだったの。名前はユーフェミア・アッシュフィールド。わたしは、彼女がヨスニル共和国で使用人をしていたエイツ男爵家の娘、セラフィア・エイツ」


 ジュジュは口を半開きにしてわたしを見つめていた。名前が聞き取れたのか、男が「信じると思うか?」と耳元で囁いてきたが、信じる信じないではなく、わたしにはセラフィア・エイツの記憶しかなかった。むしろダーシャのふりをしろという方が無理な話だ。


「ダーシャのふり、できない」


 下手くそなナータン語で言うと男はフッと表情を緩め、わたしは男にも聞き取れるようにデセン語で話を続けた。


「わたしはソトラッカでイモゥトゥの……」


 言葉に詰まると男が「研究」と助け舟を出してくる。


「研究をしている。ユーフェミアがわたしにロアナ語を教えた。八年前、ユーフェミアがいなくなった。イス皇国で見て、イモゥトゥだと考えた。それで研究を始めた」


「交霊状態ってわけじゃないのね?」


「コウレイ?」


 首をかしげると、ジュジュはご丁寧にヨスニル語で「交霊」と言い換える。ヨスニル生まれかと思うような自然な発音で、わたしはそれを機にヨスニル語に変えることにした。ヨスニル出身だと証明するために。


「交霊ではないわ。これが交霊なら、わたしはダーシャだと自覚しながら、セラフィアの記憶を目と耳で体感するはずよ。おそらく、ダーシャは海の中で新生したんじゃないかしら。そこにセラフィア・エイツの意識が入った」


「それは、イモゥトゥ研究者セラフィア・エイツとしての見解?」


「まさか! 研究者としてこんな非科学的なことを口にする日が来るとは思わなかったわ。まあ、もう研究者ではなくなったんだけど」


 ジュジュはわたしの一挙手一投足すべて見逃すまいと目を凝らしていたが、中身が別人ということだけはなんとか伝わったようだった。細い肩が、納得したのか気落ちしたのか、スッとその位置を下げた。


「研究者ではなくなっても、その記憶と知識は残ってるのよね?」


「ええ。その代わり、リスル座で踊れって言われても無理よ。ナータン語もデセン語もこのとおり。ダーシャの記憶はなくなってるから」


「仮にあなたの言うことが本当だとして、ヨスニル共和国にいるセラフィア・エイツの体は今どうなってるの? 眠っているあいだに意識だけ乗り移った?」


 わたしは刹那思案し、二人に伝わるようデセン語で答えた。


「セラフィア・エイツは死んだの。死んで、起きたらこの男の舟にいた。理由はわからない。セタの国に行けなかった」


 最後のひと言は冗談のつもりだったけど、ディドリーの男は言葉を失い、ジュジュは激しく動揺していた。「どうして」と、わたしの腕を掴んで体を揺さぶってくる。


「なぜセラフィア・エイツが死ぬの? いつ? どうして?」


 その狼狽ぶりに面食らいながら、なぜこのイモゥトゥが見ず知らずの女の死にこれほど動揺するのか考えた。


 ジュジュはダーシャからわたしがイモゥトゥ研究者だということを聞いていたのだろう。新月の黒豹倶楽部はソトラッカ研究所に助けを求めるつもりだったか、そこまで考えていなかったとしてもわたしに接触して情報を得ようとしていた可能性はある。もしそうなら、セラフィアの死は計画の頓挫を意味する。ジュジュが失望するのも無理はなかった。


「わたしが死んだのは夜の九時か十時。中央クローナ時間で。死んだ理由は……海に落ちた。酒に酔って」


 嘘をついたのは、これ以上ディドリーの男に心配をかけたくなかったからだ。妙な間があったせいか二人ともわたしの言葉を信じている様子はなく、疑いの眼差しをこちらに向けている。しかし、死んだわたしへの気遣いなのか無理に追求してくることはなかった。


「本当に、死んでしまったの?」


 ジュジュは慎重に言葉を選んで口にしたようだった。


「死んだと思った。きっと死んでいる。だから、わたしが死んだのか確かめたいの。ヨスニル共和国に帰りたい。家族に会いたい」


 父の顔が頭を過った。母はわたしが幼い頃に死に、家族といえば仕事で滅多に家にいない父親。わたしは父を尊敬していたし、愛していた。でも、この姿でエイツ家に帰って「セラフィアよ」と訴えたところで、父がその言葉を信じることはない。失踪した元使用人が死んだ娘の名を騙るなど、魔術的なものを嫌悪する父の怒りを買うだけだ。


 わたしの居場所はエイツ男爵家にもソトラッカ研究所にもないのだと思うと、悲しさが波のように押し寄せ、力ないヨスニル語が口からこぼれた。


「家に帰りたいよ」


 そのとき頭上からバタバタと足音がし、階段を駆け下りる音のあとハンチング帽の少年が棚の陰から顔を出した。


「持ってきたぞ」


 投げたボールを拾ってきた仔犬みたいに得意げな顔が、妙にしんみりした空気に気づいて萎んでいく。


「何これ? ジュジュ、何かわかったのか?」


「色々とね。話はまた明日にして、ひとまず休みましょう。二人とも疲れてるでしょう?」


 男は少年から着替えを受けとると、「おれはこのまま帰るよ」とぶっきらぼうに口にした。不本意だが、と言いたげな口調だった。


「リスル座の連中はダーシャが来たのを知ってる。おれが探しに出たことも。おれ一人朝帰りとなるとどんな噂が広まるかわからないし、どうせ広めるのならダーシャが死んだという噂の方がいいんだろう?」


「こっちとしてはありがたいけど、あなたはそれでいいの?」


 ジュジュの問いかけに男はうなずくと、足元に置いていた麻袋をジュジュに差し出した。


「ダーシャが着てた服だ。ダーシャは見つけられなかったってことにするから、これは処分してくれ」


「わかった。ちょっと待ってて。すぐ謝礼を準備するわ」


「金はいい。死んだ女の代わりに金を持って帰ってきたら怪しまれるし、別に金なんかもらわなくても口外したりしない。おれが喋ればこいつが危なくなるんだろう?」


「そうだけど」


「じゃあ、その袋の中に入ってるペンダントをくれないか? あいつがいなくなる前にもらったってことにするから」


 これでいいなら、とジュジュは男の望み通りペンダントを渡し、中にあった紙だけを麻袋に戻した。そのあとハンチング帽の少年に事務的な口調で馬車を呼ぶよう告げ、男が着替えるのを待って店への扉を開ける。短い階段を上ると扉があり、階段は右へ折り返してさらに上へと続いていたがジュジュはそこで足を止めた。


「ここを開ければ店に出るわ。あなたは給仕のフリをして表に出てちょうだい。うちの者に馬車でモアクイツ駅まで送らせる。誰かにつけられていないか注意して、しばらく適当に雑踏を歩いたらその後は好きにしたらいいわ」


「わかった」と男がうなずくと、ジュジュはわたしを見て階段上を指さした。


「あなたの部屋はこの上よ。この男とはここでお別れ」


 改めて言われると急に心細くなり、ホールから漏れ聴こえてくる妙に軽快なピアノ演奏がなぜか悲しい気持ちに拍車をかけた。


「大丈夫だ。あんたなら、絶対」


 男の大きな腕がわたしを抱きしめ、自分が涙を流していることに気づいた。押しつけられた厚い胸板は、汗と潮と、香木みたいな匂いがする。それが陽だまりのように心地良くて、わたしはほんの数時間しかこの男と関わっていないのに、ダーシャの体が別れを惜しんでいるように感じられた。


「ダーシャじゃなくて、ごめんなさい」


「どうして謝るんだ? もし意識を取り戻したダーシャが赤ん坊みたいになってたら、おれの手には追えなかった。セラフィアお嬢さまと話せて良かったよ」


 不思議なほど感情が昂って、堪えきれない涙が着替えたばかりの男の服を濡らした。嗚咽がおさまって顔をあげると、男が泣き腫らしたまぶたにキスをしてこう言ったのだった。


「お別れのキスだ」


 ジュジュが男を連れて店内に消えたあと、取り残されたわたしはぼんやり扉を見つめていた。感傷に浸っていたわけではなく、思い出したくもない記憶が舞い戻り、それに耐えていたのだ。


 ――お別れのキス。


 その言葉を耳にしたのは二度目だった。日に焼けたディドリーの男とは真反対の、青白い肌をしたわたしの恋人だった男。思い出すことに恐怖もあったけれど、怒りの感情がふつふつと自分の奥に息づいているのを感じた。


「確かめないと」


 つぶやいたとき、扉が開いてジュジュが顔を出した。


「確かめるって、セラフィア・エイツが本当に死んだかどうか? わたしもそれについてはハッキリさせておきたいんだけど」


 ふと、この女性には打ち明けたほうが良さそうだという勘が働き、


「わたし、殺されたの」


 直感任せの言動も、人前で憚ることなく泣きじゃくるのも、セラフィア・エイツらしくはなかった。無理にセラフィアらしいところを探すとすれば、自分の口から発せられるハスキーな声に違和感がなくなり、それに不安を覚えたことくらいだろうか。

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