第四話 新月の黒豹倶楽部

__イス皇国モアクイツ市ウェルミー五番通り新月の黒豹倶楽部__7月20日深夜



『新月の黒豹倶楽部』は赤茶けたレンガ造りの建物で、二階部分が白壁だった。看板を照らすランプと二階の出窓の明かり、扉の脇で壁にもたれかかって立ち話をしている男二人の煙草の火がチラチラと揺れ動いている。店内からはピアノの音色が漏れ聞こえていた。


 男二人はずいぶん若い顔立ちをしていたが、着ているのは仕立ての良さそうなウェストコートとズボン。揃いの服に二人とも蝶ネクタイをつけ、どうやら店の給仕のようだった。一人はハンチング帽を被り、もう一人は白シャツの袖を肘までまくり上げている。顔を寄せてヒソヒソと話し、その視線はわたしたちに向けられていた。


 たしかに、わたしたちは見咎められるほどみすぼらしい格好だったかもしれない。だからといって引き返すわけにもいかず、手を繋いで扉の前に立った。


「あんたたち、そんな格好じゃあこの店には入れないよ」


 ハンチング帽の男がデセン語で言い、シッシッと手を払った。声変わりもまだ終わってないような少年らしい声とは裏腹に、威嚇するようにギョロッと大きな目でわたしを睨みつける。もう一人の給仕が相棒の肩を叩いて店の中に入っていったが、そのとき小声で口にしたのは、聞き間違いでなければロアナ語だった。『報せてくる』と言ったようだった。


「あんた、身売りに来たってんなら話をつけてやろうか? うちの地下は男専門だし、あんたのその体なら稼げると思うが」


 ハンチング帽の鍔を持ち上げ、ディドリーの男を見上げる姿は子犬が熊相手に吠えているようにしか見えなかった。少年の高めの声はウェルミー五番通りに響き、道の向かいにいる派手なドレスの女性と髭の紳士が好奇の目をこちらに向ける。真っ赤な唇が動き、『あらあら、お気の毒に』とでも言っているようだった。


「おれは身売りに来たわけじゃない。店主に会わせてくれないか」


「そんな格好で店に入れると思ってるのか」


「ああ。扉を押せばいいだけだからな」


 この大男なら造作もなく給仕を放り投げてしまうだろう。その体格差にもかかわらず、ハンチング帽がディドリーに気圧されている様子はなかった。


「この扉は客しか入れない。諦めて帰るんだな」


 わたしとディドリーの男は顔を見合わせた。たしかにわたしたちは客ではないのだ。


「それなら、店主をここに連れてきてくれ」


「いい加減にしろ!」


 憤慨した様子で紙巻煙草を地面に投げつけると、給仕は苛立ちを隠さず靴で踏み消した。何時間ここに立っていたのか、煙草の吸殻が足元に散らばっている。


「おい、おまえ」


 わたしとさほど身長差のないハンチング帽が、勢いよく腕を掴んできた。咄嗟に逃げようとしたけれど、彼が囁いた早口のロアナ語にパッと顔をあげる。


「おい、なんでこの男を連れてきたんだ? 巻き込みたくないと言ってたのはおまえだろう」


 ディドリーの男もロアナ語だと気づいたようだった。わたしの肩を抱き寄せたが、給仕から無理に引き離そうとはしない。プンと煙草の匂いがした。間近で見たその顔はやはり少年で、ひとつの可能性がわたしの頭を過った。


 ――この子、イモゥトゥかもしれない。


「あなたはわたしを知ってるの?」


 ロアナ語で返すと、相手の男は困惑した表情でチラと後ろの扉を振り返った。ピアノ演奏がやんで笑い声が聞こえてくる。


「面倒くせえやつらだな! こっちに来い! 金が欲しいならその体で稼ぐんだな!」


 少年は投げやりなデセン語をウェルミー通りに響かせ、顎をしゃくって店の脇の狭い路地へと誘った。彼の動作が妙に攻撃的で挑発的なのは、どうやら通行人に聞かせるための演技らしい。


「おい、ついて行くのか?」


「もちろん」


 ディドリーの男は未練がましく正面扉を見ていたが、わたしは大きな手を引っ張って少年の後を追った。店の中に入っていったもう一人の給仕も十代のようだったし、イモゥトゥの可能性は高い。なにしろ、この場所を指定したのはダーシャだ。


「さっさとしろ!」


 すぐ後ろをついて行っているのに、ダメ押しのような演技にわたしは思わず笑ってしまった。ハンチング帽はそれを目ざとく見つけて、気が抜けたように「まったく」と肩を落とす。


「こっちは心配してたってのに」


 そう言うと、路地の先を塞ぐ木戸を押し開けてわたしたちを奥へ押しやった。彼自身は最後に木戸をくぐり、閉めたあと耳を押し当てて通りの気配をうかがう。


 路地の先は細い階段になっていて、左も右もレンガ壁が下まで続いていた。階段を下りきった場所は行き止まりで、左側に扉がある。小さなのぞき窓が見えたけれど中に明かりは灯っていないようだった。


「あんた、ディドリーだろう?」


 少年のデセン語が背後から聞こえた。ディドリーの男が「ああ」とうなずき、ハンチング帽の鍔が邪魔だったのか少年は帽子をとって目の前の男を見上げた。


「あいつ、どこにいたんだ?」


「あんたに話していいかどうか判断がつかん。とりあえず店主に会わせてくれないか?」


「たしかに、今聞いても二度手間だ。ひとつだけ確認するが、あんたがここにいるってことは、あいつはあんたを忘れてるんだな?」


 少年の問いかけに、ディドリーの男は手に持っていた麻袋から銀色のペンダントを取り出した。


「おれのことも、あんたらのことも覚えていないようだ。この中にここの住所があったから連れて来た。ダーシャにそう言われていたからな」


 二人ともわたしを見ていた。少年はさっきまでと違って不安と心配を隠そうともせず両眉の端を垂らしている。そうなると本当に子犬みたいだった。


「ねえ、二人は知り合い?」


 問いかけると、男二人は「いや」と首を振る。


「こんなとこにいてもしょうがない。とにかく中に入ろう。話はそれからだ」


 少年は帽子をかぶりなおすと、わたしの横をすり抜けて階段を駆け下りていく。彼は首に吊るしていた鍵を服の下から引っ張り出し、南京錠を外した。中は半地下の倉庫のようだった。想像していたよりも広いが天井は低く、ディドリーの男は天井の梁に余裕で手が届いている。


 少年はポケットから出した蠟マッチでランタンに火を灯し、それを手に板敷きの足場を進んでいった。倉庫の真ん中を貫くように敷かれた幅六十センチほどの足場。それ以外は土間になっており、いくつもの木箱が積み上がって、酒樽がずらりと並び、壁際の棚には酒のボトルや麻袋が所狭しと置かれていた。他にも、少年の着ているような給仕の制服や、無造作に投げ置かれた高級そうなシャツやズボン、カツラまである。


「おい、さっき言っていた、男専門というのは本当なのか?」


 ディドリーの男が少年の華奢な背中に声をかけると、「本当さ」と返ってきた。


「おまえも体を売ってるのか?」


「買うつもりか? 悪いがおれはやってない。そっち専門でやってるやつは店の前で顔を晒したりしない。表向き、新月の黒豹倶楽部はミュージック・ホールってことになってるからな」


「裏の商売が男娼の斡旋ってことか」


「まあ、それもある意味表向きの裏商売さ。あんたもここまでダーシャに関わったのなら、ある程度察してるんだろう? 無事にここから出られると思わない方がいい」


「おれも体を売ることになるのか?」


 少年の脅しなどどこ吹く風で、ディドリーの男はククッと可笑しそうに笑った。


 不意に頭上から足音が聞こえ、少年は「やっと来たか」と天井を見上げる。足音は階段を下りるような軽い音に変わり、その行く先を耳で追っているとギッと扉の開く音がした。


 右前方にある棚の陰から現れたのは濃い化粧をした若い女。濃紺のドレスの生地は高級そうでデザインも派手ではないが、胸の部分が大きく開いて、その色気だけで鼻を伸ばした紳士からいくらでも金を巻き上げられそうだった。


 肩までの長さの癖のないまっすぐな金髪。それが少しセラフィア・エイツと似ていたけれど、顔つきは全然違っている。小さな鼻とぽってりした唇、左の目元にあるホクロが印象的だった。彼女もイモゥトゥかもしれないと考えたのは、厚化粧の下にある素顔がまだ十代のような気がしたからだ。


 女はわたしの顔を見るなり安堵した様子で息を吐いたが、何も言わず問いかけるような視線をハンチング帽の少年に送った。


「忘れてるってさ」と少年が言った。ロアナ語だった。


「そうなの? ねえ、あなたは自分が誰かわかる?」


 女もロアナ語を話し、わたしはそれに合わせてロアナ語で答える。


「リスル座の踊り子ダーシャ」


 女とハンチング帽はパッと表情を明るくしたが、「この男に聞いたの」と続けると一転険しい表情になった。


「なあ、名前を聞いてみたらどうだ? 別の名前になりきってるのかも」


 どうやら少年より女の方が立場が上のようだった。女はわたしを凝視したまま、思案顔で「そうね」とうなずく。


「意識が混濁しているふうでもないし、こんな状態は初めてだわ。受け答えもちゃんとしてて、ロアナ語も喋れる。まるで記憶喪失になったみたいね。ねえ、あなたはダーシャという自覚はないようだけど、他の名前がある?」


 ロアナ語で交わされるやりとりを、わたしは複雑な気分で聞いていた。期待しているのは「ユーフェミア」や「ルーシー」という答えだろう。けれど、わたしはセラフィア・エイツとしての記憶しかない。彼らがダーシャの味方であることはほぼ確信していたけれど、その答えを口にすることで彼らがどんな反応を示すのか考えると慎重にならざるを得なかった。完全に過去を忘れたフリをしたほうが、疑問や警戒心を抱かれないはずだ。


「名前を教えてくれる?」


 女は優しい口調で、けれど催促するように言った。


「先にあなたの名前を聞いてもいい?」


 質問で返答を先延ばしにすると、女は少し驚いたようにまばたきする。


「慎重なのね」


 彼女の口調は「ダーシャにしては」と言っているようだった。こういうときダーシャならどうしただろうと、わたしはユフィのことを考える。彼女が警戒心を露わにするのは部外者に対してで、その場合も口先だけの駆け引きで優位に立とうとはしない。こういう場面では自ら堂々と名乗り、それから相手の名前を問うはずだ。


 もし彼らがダーシャと親しい間柄なら、いくら誤魔化しても中身が別人だということはいずれバレてしまうだろう。裏を返せば、わたしが演技をしなければダーシャではないとわかってくれるはずだ。


「わたしはあなたを知らないのだから、慎重になるのは当たり前だと思うわ。ここがどういう場所で、あなたたちが何をしているのか、今のわたしは何も知らないのだから。さっきその給仕が言っていたの。無事にここから出られると思うなって。わたしとしてはこの男を巻き込むようなことはしたくない。今のところ、この場で信用できるのは彼だけだから」


 女はわたしの言葉を黙って聞いていたが、視線は隣の大男に向けられていた。ディドリーの男はまったく会話が聞き取れないからか、倉庫の酒を物色するように棚に目をやっている。


「ねえ、あなた」と、女はデセン語で男に話しかけた。


「もう遅いし、上に空き部屋があるから泊まっていったらいいわ。ダーシャを連れてきてくれた謝礼も用意する。案内させるからこの子について行って」


「こいつは」と、男はわたしの頭を大きな手でつかんだ。


「彼女とはもう少し話すことがあるの」


「おれを追い払うつもりか?」


 男が不満げな顔で見たのはわたしだった。


「ダーシャはあなたにこの場所を教えなかった。あなたは知らない方がいい」


 わたしが拙いデセン語を話したせいか、女とハンチング帽とが顔を見合わせる。ディドリーの男の太い眉が頼りなさげに垂れ下がり、「あんたは大丈夫なのか?」と気遣わしげに顔をのぞきこんできた。心配しているのはダーシャの体だろうか、それともダーシャの中にいるわたしだろうか。


「この場所はダーシャが書いた。だから大丈夫。ダーシャはあなたに言ったはず。わたしはあなたを知らないからお別れ。ありがとう」


 男はぐっと眉を寄せ、「あんたは大丈夫なのか?」と同じ言葉を繰り返したが、今度は『あんたは』を強調した。「大丈夫よ」と答えたのは女だ。


「悪いようにはしないから安心して。彼女のためにもわたしたちに任せてくれるのが一番なの」


「だが、ダーシャは変なヤツらに追われていたんだ。それで崖から海に飛び込み、おれが引き上げた。安心しろと言われて、はいそうですかとは答えられない。今は普通にしているが、海からひっぱり上げた直後は息をしていなかったんだ」


 女は不機嫌そうに髪をかきあげて首を振った。


「それで、二人はそんな格好なわけね。やっぱりディドリーの服はさっさと処分しておくべきだった」


 ロアナ語でひとり言をこぼしたが、『息をしていなかった』という部分は気にもとめず、ダーシャが不死だと知っているのは確実だった。

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