第三話 幻覚のルーシー
__イス皇国モアクイツ市__555年7月20日深夜
「こっちだ」と男は坂道を上り始めた。
わたしの記憶が確かなら、このあたりは小路が迷路のように入り組んだ坂の街で、海辺から見上げると白壁に色とりどりの瓦屋根がかわいらしい観光地だった。海岸沿いにはクローナ、ガルムント、ディドルの三大陸各地の商品を扱う店が立ち並び、モアクイツ市でも駅前通りに次いで賑わっている場所だ。
ペンダントの紙に書かれていた『モアクイツ市ウェルミー五番通り』は、この港町と駅周辺の繁華街のちょうど中間あたりに位置している。『新月の黒豹倶楽部』はおそらく店の名前だろう。
道すがら、男は途切れることなくダーシャの話をしていた。時々わからないデセン語もあったけれど、わたしは問い返すことなく男の話に耳を傾けた。なんとなく、邪魔してはいけないような気がしたのだ。
「リスル座に入ったときから、病気でたまに幻覚が見えるという話はしていた。ディドリーの踊りは振りつけが複雑で、指先まで神経を使うんだが、そういう集中しないとできないことをやってるときは幻覚が見えないらしいし、体を動かすのが好きなようだったから、それで踊り子になったんだろう。
今思えばジチ教徒の居住区から外れた場所で仕事を探したのかもしれない。うちの一座はテント街でもナータン教徒の居住区に隣接していて、他の楽団と違ってナータン教徒相手の興行が多い。だから普段はナータン語なんだ」
唐突に男はパチンと指を鳴らした。
「さっきやったのは、あいつを呼び戻すための合図みたいなものだ。昼間にあいつがぼんやりしてるときはだいたい現実ではない何かを見てる。リスル座の踊り子ダーシャだと意識すれば幻覚が消えるというから、指を鳴らしてあいつの名前を呼んだ。
あいつがリスル座を去るまでは、昼間はそれでやり過ごした。だが、夜は比べものにならないくらい不安定だった。おれを拒まなかったのはそのせいだろう。いつも名前を呼ばれたがっていたし、そうしないと色んな幻覚が頭に流れ込んできて自分が誰なのかわからなくなると言っていた。
さっき、あんたにいくつか名前を知ってるか聞いただろう?
あれは
「話したの?」
わたしは交霊中のイモゥトゥに質問するように、極力短い言葉をできる限り穏やかな口調で口にした。
「話したというより、あいつに合わせてやっただけだ。ほら、呆けた老人の言葉は否定するより合わせてやれって言うだろう? あれと同じだ。
適当に合わせて名前を聞いたり、何をしてるのか尋ねた。あいつは農家の納屋住まいだったり、飲み屋で酔っ払いの相手をしていたり、時には娼婦まがいの幻覚も見ているようだった。内容があんまり酷いときは、指を鳴らして現実に引き戻した。
変化があったのは、興行中にあんたを見かけた後だ」
「えっ」
手をつなぎ、腕をくっつけて歩く男は道の先に目をやってチラリともわたしを見ようとしなかった。ダーシャの顔をした別人を、今はその目に入れたくないのだと思った。
「あいつはあんたに会ったあと、しょっちゅうエイツ男爵家で働いている幻覚を見るようになった。名前は知っての通りユーフェミア・アッシュフィールド。おれをセラフィアお嬢さまだと勘違いしてロアナ語を教えてきたりもした」
「あなたはヨスニル語がわかるの?」
「いや、まったく。でも問題ない。あいつが幻覚でヨスニル共和国にいても、おれがナータン語で話しかけると言葉が変わるんだ。幻覚だからそんなもんだろう?」
男は自分でそう言いつつ腑に落ちていないようだった。
「あいつは、あんたのことがよっぽど気に入ってたらしい。幸せそうな顔をしていたから、エイツ家にいるときはそのまま幻想の中にいさせてやった。
二、三ヶ月経った頃、
「子どものとき」と、わたしはオウム返しに口にした。
彼女がエイツ家にいたのは十年前。この男に自分が何歳と偽っていたのかは知らないが、子どもと言うしかなかったのだろう。本当のことを言えばイモゥトゥだと告白するようなものだ。
「十歳にもなってない子どもが貴族令嬢の世話に加えてロアナ語まで教えるなんて、さすがのおれだって真に受けたりしない。でも、あいつの嘘をいちいち咎める気はなかった。幻覚だって嘘みたいなものだ。たとえ過去にエイツ家で粗末な扱いを受けたという事実があったとしても、いま幸せな幻想を見ているならそれでいい。そう思っていた」
「エイツ家はちゃんとしてる! 使用人は大切にする!」
ムキになって言い返すと、男が驚いたように目を丸くしてこっちを見た。わたし自身、感情まかせに言い返したことに内心動揺している。
「あんた、ダーシャとはまったく似ていないと思ったが、そういうところは似てるな。大事なものを悪く言われるとすぐ感情的になる」
たしかにユフィにはそんなところがあった。でもそれはユフィの性質で、セラフィア・エイツなら貴族らしく憤りを隠して皮肉で相手をやり込める。おかしなことが起こりすぎて気が立っているからなのか、それともユフィの体にいるからユフィのような反応をしてしまうのだろうか。
「わたしはダーシャじゃないの」
「わかってるさ」
男の返事が虚しく鼓膜を通過していった。
「あんたに話しておきたい、もう一人のダーシャがいる。ルーシーという名前だ」
周囲をはばかるような男の潜めた声に、わたしは興味をそそられ「ルーシー?」と相づちを返した。つい今まで気分が落ち込みかけていたのに、暗い感情がサッとどこかへ消え、その切り替えの早さもユフィの性質のような気がした。いや、セラフィア・エイツも感情に流されることなく研究対象への興味を優先する。
「ルーシーのファミリーネームは?」
「ファミリーネームはない。あいつが幻覚でルーシーになったのは半年くらい前だ。夜中に物音がして起きてみたら、あいつがテントの隙間から外をうかがっていた。何をしてるんだと聞くと、『逃げる』とおれに手招きするんだ。
エイツ男爵家を辞めたとき、あいつは何も言わずに姿を消したって言ってたから、またエイツ家の幻覚かと思ったが違ってた。なぜ逃げるんだと聞いたら『イモゥトゥだからって閉じ込められるのは嫌だ』と言うんだ。あいつの口からイモゥトゥって言葉を聞いて、やっぱりそうかと思った」
「さっき、あなたはダーシャがイモゥトゥかどうかわからないって言った」
わたしが口を挟むと、男は足を一時止めて「そうだったか?」と片方だけ口角をあげた。ちょうどガス灯の下を通りかかったときで、日に焼けた黒い肌を青白い光がうっすらと包み、どこか亡霊じみて見えた。
「あいつが自分のことをイモゥトゥだと言ったことはない。イモゥトゥはあいつの幻覚の中のルーシーだ。
ルーシーは貴族に監禁されているようだった。ルーシーだけじゃなく同じ建物には何人か別のイモゥトゥも住んでいて、出られるのは中庭だけで、その中庭も高い塀に囲まれている。だから、荷馬車が来るときが脱出のチャンスだと言っていた」
「ルーシーはひどいことをされていた? 暴力みたいな」
「勉強ばかりさせられて、間違った答えを言うと叩かれたそうだ。痣になっても翌日には治るから、また叩かれて新しい痣ができる。その繰り返し。そりゃあ、脱走を企てるのも当然だ」
「……勉強」
わたしがつぶやくとその言葉の意味がわからないと思ったのか、男は「学校ですることだ」と適当な説明をした。しかし、わたしが考えていたのは別のことだった。
研究所のイモゥトゥがそうであったように、ルーシーは交霊のための知識を詰め込まれていた可能性がある。貴族が他人の記憶をのぞき見ようとするのは政敵の弱みを握るためで、交霊での会話を理解するにはそれなりの知識がいる。そのための勉強だ。ただ、交霊状態で見たものを口述する癖はダーシャにはないようだから、交霊させられる前に脱走に成功したのかもしれない。
「ルーシーは逃げたの?」
「わからないが、ここにいるってことは逃げたんだろうな」
その通りだ。
「誰がルーシーを閉じ込めていたの?」
「仲間のフリしてルーシーに聞いてみたんだが、急に違う幻覚が混じったみたいによくわからないことを口にし始めた。聞き取れなかったがロアナ語を喋っていたと思う。おれの勘だが、監禁されてたのはたぶんロアナ王国内だ。なにせ、お嬢さまにロアナ語を教えるくらい流暢に喋れるんだろう?」
男の勘にわたしの勘も同意していた。ロアナ王国の外で生まれ育った人間が、ロアナ語を学ぶことはかなり珍しい。父はユフィの語学力を買って雇ったようだったし、ヨスニル共和国ならロアナ語翻訳だけでも食べていける以上の稼ぎが得られる。
「ロアナ……」
頭に浮かんだのは金髪に透けるような色の白い肌の、薄幸なふりをした狂った美青年だった。目の大きな少女の素描も一緒に脳裏に蘇り、首を振って二人の幻影をイス皇国の夜闇に散らす。
「なあ、あんたはルーシーがダーシャの過去だと思うか?」
「あなたは?」と聞き返した。
「ルーシーは赤毛だったんだ。赤毛は目立つから脱出する前に切ると言って、いきなりハサミを掴んで髪を切ろうとした。慌てて指を鳴らしてダーシャの名を呼んだが、しばらくのあいだ自分がどこにいるのか、おれが誰なのかわかっていないようだった。この頃から戻りが悪くなったんだ。
赤毛だけじゃない。どこまでが実際にあった過去かはわからんが、全部があいつの作り出した幻想だとは思えなかった。ルーシーのときも、ユーフェミアのときも、性格はダーシャそのものだったからな」
わたしは記憶共有の検証実験を思い返した。記録はしていないが、イモゥトゥがわたしを誰かと勘違いして話しかけてくることがたまにあった。交霊内容を淡々と口述するのではなく、一人称語りの交霊。あのときのイモゥトゥも過去を見ていたのかもしれない。
ひとつ疑問が浮かんだ。
「ねえ、わたしは? セラフィア・エイツもダーシャの過去だと思わないの?」
男は面食らった顔をし、ククッと表情を和らげて笑った。
「ダーシャとセラフィアお嬢さまが同一人物なはずがないだろう。同時代に生きてるんだから」
「あっ」
わたしはバカな質問をしたことに気づいて恥ずかしくなった。
「そうでなくてもあんたはダーシャとは別人だ。同じ顔に同じ体なのに、どうしてこうもそそられないのか、こっちが聞きたいくらいだ」
そそられる、という言葉の意味は知らなかったけれど、男のニヤニヤ笑いで理解した。腹立たしさに顔を背けると、傍らの家の軒先に置かれた夾竹桃の鉢植えとグラスが目に飛び込んでくる。チェレスタ九番通りの酒屋の店主が『リーリナに目をつけられたらあれを投げつけりゃいい』と鉢植えを指さしたのを思い出した。あの鉢をこの男に投げつけてやりたい――そんなことを考えていたら、男が「真面目な話だが」と妙に改まった声で話しかけてきた。
「イモゥトゥの新生ってのは赤ん坊みたいになるってどこかで見かけたんだが、あんたが乗り移ってるのはどういうことだ? ダーシャは新生したわけじゃないのか?」
「わからない。でも、新生はしたと思う」
それしか答えようがなかった。しょんぼりうつむいたせいか、男はわたしを励ますように肘で軽く小突いてきた。
「まあ、乗り移ったのがセラフィアお嬢さまで良かった。あんた、ディドル大陸にある吸血鬼の伝説を知っているか? 死なない、年をとらない怪物だ」
「知ってる」
うなずくと「さすがイモゥトゥ研究者だ」と男は感心する。
吸血鬼伝承についてわたしに教えてくれたのはアカツキだった。同じ不老不死でもずいぶん違うよね――と、開いたページに目をやったまま、勝手に一人で喋っていた。
――ジチ教では死んだら火葬が基本だよね。それは死者が邪神リーリナによって愛の国から連れ戻されないようにするためなんだ。魂を連れ戻しても肉体がなければどうしようもないからね。でも、ディドル大陸では土葬が一般的で、吸血鬼は墓場から蘇った死者。その吸血鬼が生者の生き血を吸って、吸われた者は吸血鬼になるんだ。吸血鬼は水を渡れないらしいから、クローナ大陸には来れないだろうけど。
冗談を言ったときだけはチラとわたしの表情をうかがい、子どもっぽい笑みを浮かべるのだった。
わたしはなんとなしに隣の男とアカツキとを比べていた。比べるのがバカらしくなるくらいすべてが違ったけれど、面倒見の良さだけは同じかもしれない。そんな無意味な比較をされているとは気づかないまま、男は街角にたむろしている少年を指さした。
「ディドル大陸では夜ふかしする子どもを『吸血鬼に噛まれるぞ』と叱るんだ。絵に描かれている吸血鬼は腐りかけた人間みたいなおどろおどろしい姿で、同じ不老不死でもイモゥトゥとはまったく違う。実は、ダーシャが吸血鬼じゃなくてちょっとホッとしてるんだ。あんたにしてみればバカバカしい心配だろうがな」
何にも動揺しなさそうな屈強な男は、あんがい繊細な心の持ち主なのかもしれなかった。そして、恋なのか愛なのかわからないけど、ダーシャへの気持ちにどうやって整理をつけるのか、その落とし所を見つけようとしている。
わたしのナータン語が下手くそで良かった。もし流暢に話していたら、男はわたしがダーシャだという期待を捨てきれなかったかもしれない。できればこの男にはあまり傷ついてほしくない。男はわたしがセラフィアだとわかってくれたし、わたしはそれに救われたから。
少年たちのそばを通り過ぎてすぐ、男はわたしを引き寄せ「もうじき五番通りだ」と囁いた。治安が悪いと聞いていたから身構えたけれど、街の風景はそれほど変わらない。ただ、祭りの浮かれ声に混じって時おり獣のような奇声が夜の街に響いた。
「一見普通の通りだが、ここらの店に出入りしてるのは危ない人間ばかりだ。表向きはただのパブでも、地下では違法な麻薬や武器が取引されてる。夜中に若い女が一人でうろついていたら、あっという間に攫われて売られるぞ」
男はそうやって脅したけれど、それほど怖く感じられないのが不思議だった。それどころか、ダーシャの体に染み付いた帰巣本能に導かれるように、『新月の黒豹倶楽部』の看板を最初に見つけたのは男ではなくわたしだった。看板の文字で読めたのは『月』と『の』だけだというのに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます