第二話 新生と魂の死
__イス皇国__555年7月20日夜
「夏でもさすがに風邪をひきそうだな」
男はそう言うと腰の組紐をほどき、おもむろに着ていた服を脱いだ。わたしは咄嗟に顔をそらしたが、一瞬だけ見えた素肌に頬が熱くなった。美術館に飾られた彫像のように均整のとれた肉体は、しかし体温のない彫像とは違って性的な生々しさがあった。
「あんた、男の裸を見たことがないのか?」
男はからかっているわけではなく、単に驚いているような口ぶりだった。
わたしにとって男性の裸といえば、真夏の暑さに耐えかねた使用人が水場で上半身を晒しているのを見かけたくらい。貴族令嬢らしからぬ奔放な生き方をしているとはいえ、それは学問に傾倒しているだけで、婚前に異性と体を重ねようなど一度も考えたことはなかった。ルーカスとも、その前の恋人とも清い交際だ。だいたい、安易に体を許してうっかり妊娠などしてしまえば、『これだから新貴族は』と陰口を叩かれるに決まっている。
頭の中は言い訳がぐるぐると渦巻いているのに、ナータン語で話そうとすると言葉はひとつも出てこなかった。
「貴族の令嬢ならそんなもんか」
男は勝手に納得しているようだが、なんとなく悔しくて聞こえないふりをした。パンと何かを叩くような音で顔をあげると、男は絞った上着の端を持ち、皺を伸ばすように勢いよく振っているのだった。
ディドリーの服は長方形の布を縫い合わせたような単純なもので、女性は下にペチコート、男性は裾を紐で縛れるゆったりしたズボンを履く。上着を何枚か重ね着して下地の色を見せるのがお洒落らしく、それを麻のベルトで締めるのだが、ベルト下に垂らす裾の長さは女性ならばふくらはぎから踝くらい、男性の場合は短めにして余った布の前端をベルトにたくし入れる。
目を引くのは大ぶりなベルトの留め具だ。わたしの腰にあるのは五百クラン硬貨大のターコイズがはめ込まれた銀細工で、双頭の天馬が刻まれている。男の留め具にも同じ様にターコイズがあるが、二羽の鷹があしらわれていた。彼は茶色っぽいズボンだけを身に付け、無造作にベルトを巻いて留めている。そして、水気を絞った二枚の上着をなぜかわたしに差し出してきた。
「濡れた服は脱いでこれを着ろ。男ものだから少し短いが、おまえの身長なら膝くらいにはなる」
「あなたは?」
「おれはいい。あそこの集落に行っておれの服とおまえの服も借りるつもりだ。その格好で行くのはあんたが嫌かと思ってさ」
男の言う通り、ずぶ濡れで服が肌に張りついた姿はあまり見られたものではなかった。しかし、夜更けに現れた見ず知らずの訪問者に服など貸してくれるだろうか。
「知り合い?」
わたしは集落を指さして聞いた。
「いや、だが心配しなくても大丈夫だ。あそこの家には夾竹桃が植えてあるようだし、夾竹桃祭りの夜にずぶ濡れの人間を邪険に扱うジチ教徒はいない」
たしかに手前に見えている小屋のそばには人の背丈くらいの夾竹桃が花をつけていた。十一月三十日の聖人の日と七月二十日の夾竹桃祭りの夜ほどジチ教徒が他者への愛を意識する日はない。その愛の対象はジチ教徒に限られたものではなく、相手が異教徒であっても同じだ。
不意に、集落の奥の方から笛の音と笑い声が聞こえてきた。
「納得したら着替えろ。おれは向こうを向いてる」
「わかった」
うなずいたものの、まずベルトの留め具が外せなかった。男は集落の方に目線を向け、その太い腕に上着をかけて待っている。
「ねえ、取れない」
声をかけると彼は躊躇いがちに振り返った。
「ああ、それか」
背中を窮屈そうに曲げてわたしのベルトの留め具に手をかけると、男の肩がちょうどわたしの目の高さにあった。潮と汗の匂いに混じって香木のような不思議な香りが鼻をかすめ、妙な緊張を覚える。男にとってわたしは見慣れたダーシャでも、わたしにとっては初対面の、半裸の大男だ。
「ねえ、あなたとダーシャは恋人?」
心臓の音まで聞かれそうで、わたしはそれを隠すように問いかけた。と同時にベルトが解けて男は屈めていた上半身をヌッと起こし、思わず後ずさる。石を踏んで転びかけたところを、男の丸太みたいな右腕が支えた。
「おっちょこちょいなのは同じだな」
耳元で聞こえた声はため息混じりだった。男は解いた麻ベルトを自分の肩にヒョイとかけると、「あんたにとって恋人ってなんだ?」
唐突にそんな質問をした。嫌な記憶が舞い戻りかけたところに「やったかどうかっていうことならやった」と彼が間をおかず言う。わたしの返答を求めたわけではないようだった。
「ヤッタ?」
ナータン語の意味がわからず首をかしげると、「男と女がベッドで」と、男は右手と左手の人差し指を絡める。クッと笑い声をもらしたのはわたしが変な顔をしたからだろう。
「だが、ダーシャには恋人にはなれないと断られた。自分はもうじきいなくなるから、さっさと別の女を探せっていつも言っていた。ベッドの中でもな。だから、あんたがその服を目の前で脱いだところでおれは一向にかまわないんだが」
「イヤ」
わたしが激しく首を振ると、「わかってるさ」と男は思いのほか優しい顔で言う。
「そういうふうに恥じらわれると、やっぱりダーシャじゃないと思い知らされる。男爵令嬢に怪しげな男の前で裸になれとは言わないさ。たとえその体がダーシャのものだったとしても」
男はくるりと背を向け、わたしは何とも言えない気持ちで三枚の上着をまとめて脱いだ。ペチコート一枚だけの姿になると、男の腕に引っ掛けてある絞った上着と交換し、頭からかぶる。
星あかりで自分の裸体をながめてみると、二の腕にはしなやかな筋肉がつき、腹筋も引き締まり、胸はいくぶん小ぶりだった。左肘の裏のホクロはユーフェミアと同じだ。
集落の方から流れてくる笛の音には、いつしか人々の歌声が加わっていた。歌詞はよく聞き取れないけれど、『ラァラ』という部分だけはわかる。ランタンパレードで演奏されていたあの曲だった。
「あの歌でディドリーも踊るんだ。いったい何の祭りだかわからないな」
男が言った。
この男の気持ちを考えると、ひどく申し訳ない気分になった。しかし、自分の置かれている状況を思うと男を憐れむ気持ちもすぐに萎み、祭りに浮かれる歌声がひどく暢気で薄情なものに感じられる。
やはりわたしは殺されたのだろうか。今わたしに起きていることが夢でないのなら、死後の行き先はセタの待つ愛の国ではなくこのユフィの肉体ということ。
これはリーリナの呪い? ――そんな考えが浮かんでうんざりした。あまりに非科学的過ぎる。
エイツ家には夾竹桃もサルビアもなかった。父の口癖は『祈っても飯の種にはならない』で、魔術的なものを嫌悪した父の影響をわたしは大いに受けた。ユーフェミアを目撃した時に芽生えた『イモゥトゥでは』という疑念も、その後ソトラッカ研究所がイモゥトゥの存在を公表しなければ無視していただろう。
わたしにとってイモゥトゥは研究対象ではあるけれど、彼らは神話のイモゥトゥとはまったくの別モノ。研究所が彼らを『イモゥトゥ』として公表したこと自体が間違いだと思っているくらいだ。
彼らを不老たらしめている因子は何か。それを科学的に明らかにすることがわたしの仕事だったが、不老だけが彼らの特質ではない。研究者たちを悩ませているのはむしろ神話ではまったく記述のない【記憶共有】だ。
どうして他人の記憶をのぞき見ることができるのか。研究員は仮説のひとつも導き出せないでいるのに、交霊状態のイモゥトゥは不意打ちのように貴族の秘密を暴露した。研究所では、彼らがどんなことを口走っても関係者や警察に知らせたりはしなかった。検証実験以外の発言内容は記録に残さず、見て見ぬふり、聞かぬふりに徹しているのは面倒事に巻き込まれないための予防策だ。
わたしがいまソトラッカ研究所に戻って『イモゥトゥに憑依してしまった』と訴えても、『新生前症状の所見あり。譫妄、記憶共有の可能性』と報告書に書かれるだけだろう。イモゥトゥの体に乗り移ったなんて誰も信じやしない。エイツ男爵令嬢であるセラフィア・エイツがすでに死んでいるのならなおさらだ。
ユフィの魂はセタの国へ行ったのだろうか、それとも消えてなくなったのだろうか。
かなり前のことだが、イモゥトゥの【新生】は【魂の死】だという記事がオカルト系の娯楽紙に載ったことがある。魂の死はセタの祝福で、その死をもって愛の国へ旅立ったのではないか。いや、すべての魂には死が訪れ、百年も生きられない普通の人々の魂はセタの元に行った後で死を迎えるのではないか。そんな詮のない議論が紙面上で戦わされていた。
「もういいだろう?」
待ちくたびれたのか、男は返事を待ちもせずこちらを振り返り、ベルトの留め具にまごついているわたしの手を払い除けた。
「どうせすぐまた着替える」と、縄でも縛るように適当に結び、「行くぞ」と当たり前のように手を握ぎる。その態度がユフィと彼の関係を物語っていて、また罪悪感がちらりと顔をのぞかせるのだった。
男が一番手前の家の扉を叩くと、お腹の大きな女性が顔を出し、奥からは子どものぐずる声が聞こえてきた。彼女は半裸の大男に驚いたようだけど、隣にいるびしょ濡れの少女を見つけて「あらあら」と母親らしい顔で中に招き入れる。男はどこに隠し持っていたのか、数枚の紙幣を女性の手に握らせた。
「逢びきの途中にうっかり海に落ちたんだ。服をもらえないか」
男が口にしたのはナータン語ではなく東クローナの多くの国で公用語とされているデセン語だった。ナータン語よりデセン語の方が多少はうまく話せるが、それでもディドリーの男の方がわたしより流暢だった。二人はわたしを無視して早口で喋り、じきに交渉は成立したようだ。
服を買い取ることにしたのは後腐れがないようにするためか、口止め料のつもりもあったのかもしれない。ダーシャを追っていたやつらが彼女の秘密を知っていたのなら、海に飛び込んだくらいで死んだとは思っていないはずだ。きっとまだ探している。
わたしたちは海水でベトベトになった体を拭き、女性の用意してくれた服に着替えると早々にその家を後にした。わたしは着古してくたくたになった半袖ブラウスとスカート、男のシャツはボタンが留められず前をはだけたままで、ズボンは大きさの合うものがなく絞って履いたようだった。
改めて集落を見回してみると、身を寄せ合うように建てられた十軒ほどの家はあまり裕福そうではなかった。潮風で錆びたバケツが転がり、割れた板塀はそのままになっている。けれど、小屋と小屋の合間に見えた、焚き木を囲んで談笑する光景はとても幸せそうだった。ここが愛の国だと言われたら、苦笑しつつ納得するくらいには。
「見つかったらあの輪に引っ張り込まれるぞ」
男に手を引かれて隠れるように集落を抜けると、林の向こうに建物が見えてきた。祭りの喧騒はどこかから聞こえてくるけれど人影は見当たらず、どうやら裏路地に出たようだ。白壁の、小洒落た出窓の家が立ち並び、石畳の坂道は左右ともカーブしてその先は見えなかった。下った先が海だろう。
「ねえ、わたし、前にここに来た」
「ここの港町には貴族向けのホテルがある。そこに泊まったんだろう。三年くらい前か?」
デセン語で話しかけると、男はわたしに合わせてデセン語で答えた。
「ダーシャに聞いたの? わたし、ダーシャを見たけれど、彼女は逃げてしまった」
足音が坂の上から近づいてきて、男は道端の雑草に片足を突っ込みグイとわたしの肩を抱き寄せた。警戒してるのが密着した体から伝わってきたが、現れたのはランタンを手にふざけ合う少年たち。彼らの姿が見えなくなると男の腕からはフッと力が抜けたが、足音が聞こえなくなるまでそのままでいたのは、きっとダーシャへの未練なのだろう。
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