第二章 ディドリーと新月の黒豹倶楽部
第一話 ディドリーの男
__イス皇国__555年7月20日夜
……パシャ……、パシャン……、パシャ……。
水音がどこかから聞こえてきた。
わたし、意識を失ってた? ――と思うのと同時に、意識が戻ったことが不思議だった。もう目覚めることはないと覚悟していたのに、ルーカスはわたしを殺しそこねたのだろうか。あの嫌な頭痛は消え、いつもよりスッキリしているくらいだった。
気になったのは体に纏わりつく濡れそぼった服。完全に息が止まったのを確認せず、わたしを海に投げ捨てたのかもしれない。鼻をかすめるのは潮の匂いだった。わざわざ海までロブに運ばせたのだとしたら、ルーカスが言っていた『準備』とはわたしを海に沈める準備のことで、出かけていった子どもは荷馬車を呼びに行ったのだろう。
ユラリ、ユラリとゆりかごのように波に揺られていた。櫂で水をかく音が左右から聞こえ、おそらく漕手は一人だろうと見当をつけた。ロブは最初わたしを海に流そうとしたけれどうまくいかず、すぐ見つかることを恐れて沖合に沈めることにした――と、わたしは考えを巡らせる。
もしかしたら泳いで陸地に戻れるかもしれない。まともに泳いだこともなく運動ができる方でもないくせに、体の調子が良いせいかそんな無謀な案が浮かんだ。わたしは理性でその計画を保留にし、いっそ隙をついてロブを海に突き落とそうと考える。そして舟を奪ってしまえばいい。ただし、櫂が流れてしまわないよう上手くやらないといけない。彼がナイフや銃を持っていなければいいけど。
幸運を祈りながら、わたしはそうっと薄目を開けた。しかし、そこにいたのはロブではなく、黒く長い髪を細かな三つ編みにした大柄な男性だった。獅子をひと捻りしてしまいそうな隆々たる筋肉。彫りが深くはっきりした目鼻立ちに、独特の文様のディドル綿を使った袖のない服を着ていた。どうやらディドリーのようだ。
クローナ大陸の北方にあるディドル大陸には、テントを担いで遊牧生活を送る民族がいる。その一部が曲芸や舞踊を見世物にする移動楽団になり、蒸気船が普及すると海を渡って活動範囲を広げた。そしてクローナ大陸にも上陸し、ディドリーと呼ばれるようになったのだった。
ディドリーは主に東クローナで増えているが、イス皇国ではディドル大陸との交易を進めるためモアクイツ市郊外の居住権をディドリーに与えていた。そしてできたのがディドリーのテント街だ。
ふと、ユーフェミア・アッシュフィールドのことを思い出した。昔エイツ家で働いていた使用人で、わたしがイモゥトゥ研究をするきっかけとなった人物だ。
彼女は十六歳でエイツ家に雇われ、そのときわたしは十一歳だった。使用人の中では年が近かったせいもあって「ユフィ」と呼んで姉のように慕っていたけれど、二年ほど経ったある日、彼女は突然いなくなってしまった。
彼女と再会したのはわたしが十九歳のとき。父の仕事についてイス皇国を訪れ、テント街でディドリーに混じって踊り子をしているユフィを見つけたのだった。彼女は初めて会った頃とまったく変わっておらず、そして、わたしと目が合うなり逃げ出した。
イモゥトゥかもしれない――そう疑うには十分だった。その出来事でイモゥトゥへの興味が芽生え、さらにこの年の五月にソトラッカ研究所がイモゥトゥの保護を公表したため、ヨスニル国立大学首都キャンパスから大学附属のソトラッカ研究所へ移籍を申請したのだ。
「気がついたのか?」
男の声で追憶から引き戻された。彼は櫂を動かす手を止め、身を乗り出してわたしの顔をのぞきこんでいた。
ルーカスはこのディドリーを運搬人に雇ったのだろうか。長身のわたしをロブ一人で運ぶのは難しくても、この男なら片腕でヒョイと担いでしまいそうだ。ヨスニル共和国で市民権を与えられていないディドリーの中には、犯罪に加担して生活費を稼いでいる者もいると聞く。しかし、ひとつ疑問が残った。
男が口にしたのはナータン教圏で話されているナータン語。ジチ教圏のクローナ大陸でナータン語を耳にするのは様々な宗教が入り乱れるイス皇国くらいだ。わたしは父の勧めで日常会話程度のことは学んでいたけれど、ヨスニルでナータン語のわかる人は少ない。わたしは気絶したふりをしたまま様子をうかがった。
ギッと軋む音がし、ごつごつした手が頬に触れた。張り付いた髪の束をよけ、「ダーシャ、気づいたのか?」と心配そうな声で囁く。
もしかしたら、この男はルーカスとは無関係かもしれない。海に流されていたわたしを見つけて助けてくれたという可能性もある。でも、ダーシャというのは――。
パッと、ある記憶が脳裏に蘇った。イス皇国でわたしを見て逃げたユフィ。その背中に別の踊り子が「ダーシャ」と呼びかけていた。
いったいどういうことなのか、考えても答えは出そうにない。だから、わたしは思い切って目を開けることにした。万が一のために薄目で男の急所の位置と、自分の右足が自由に動かせるかどうかを確認する。男はちょうどわたしに覆いかぶさるように身を乗り出しているから、このまま右足で蹴り上げればなんとかなるはずだった。
品のない計画だと自分でも呆れたが、これも修羅場を越えたせいかもしれない。昨日までのわたしだったら、男をなんとか説得して陸に戻ろうと考えたはずだ。実力行使で蹴り上げようなんて思いつきもしなかっただろう。
三、二、一、とわたしは数を数えてパッと瞼を持ち上げ、その瞬間、男が目を見開いた。
「ダーシャ!」
歓喜の声のあと男は長い安堵のため息をついた。どうやら右足の蹴りは出番がなさそうだ。
「わたしはダーシャじゃないわ。ここはどこ? あなたは誰?」
自分の声に違和感を覚え、その途端ゾクリとした。命は助かったようだけど、ルーカスに指を突っ込まれた両耳はおかしくなってしまったのかもしれない。いつもより高く、すこしハスキーな声だった。
わたしがヨスニル語で聞いたせいか、男は首をひねっている。
「ダーシャ、おれのことがわかるか?」
男は気遣うようにわたしの手を引いて起こしたが、やはりナータン語だった。仕方なく拙いナータン語で会話を試みることにした。
「わたしはダーシャではない。あなたのことは知らない」
途端に男の顔に困惑の色が浮かんだ。気持ちを落ち着かせようとしているのか、片膝に肘をついてその手で首元をかく。濡れて張りついたディドル綿が妙な色気を放っていた。
「ダーシャ、自分のことについて覚えていることを言ってみろ」
「わたしはダーシャではない。あなたは誰?」
男はひとつ深呼吸をする。
「聞き方が悪かったね。君は自分が誰なのかわかる?」
急に態度が変わり、まるで小さな子どもの相手でもするみたいに優しい声になった。だからといって警戒を解くわけにはいかず、むしろ何か企んでいるのではと疑いたくなった。わたしは恋人に騙されて殺されかけたばかりなのだ。
「あなたは誰? 名前は?」
なぜか男は悲しげに首を振った。
「ダーシャとの約束だから、おれの口から名乗ることはできない。ダーシャがおれのことを忘れているのなら、ダーシャを連れて行くところがある」
何を言いたいのかわからなかった。ただ、この男がディドリーだからか、その口から出る『ダーシャ』という名前の主がわたしの知っているユフィだという確信はあった。
「わたしはダーシャを知っている。赤毛の女。十六歳くらい。ディドリーの踊り子」
「良かった! 覚えてるのか。じゃあ、おれの名前は?」
なぜか男はわたしをダーシャ――つまりユフィと勘違いしているようだった。
顔はまったく似ていないし、わたしは肩までの長さの金髪、ユフィは赤毛のクセ毛を長く伸ばしているのになぜ――と、なにげなく手で梳いた髪が思いのほか長いことに気づいた。指に絡んでいるのは海水で濡れた、長い髪。闇夜でもそれが金髪でないことはわかり、ドクッと心臓が嫌な音をたてる。
「あなたを知らない。わたしは……、ダーシャではない。わたしはセラフィア・エイツ。ソトラッカの……」
ナータン語で『研究所』をなんと言うのか思い出せなかった。うつむいて目に入ったのは、花と鳥とが細かな文様で描かれたディドル綿。偽装するためにわざわざ服を脱がせて着替えさせたのだろうかと考えるわたしを、視界に入る長い髪が嘲笑っているようだった。カツラではないかと試しに髪をつかんでみると、頭皮がクッと引っ張られる。
「ダーシャ」
呼ばれて顔をあげると、男が「おまえはダーシャ。リスル座の踊り子」と言ってパチンと指を鳴らした。まるで催眠でも解くような仕草に、わたしは眉をしかめる。
「さっき言った。わたしは……ダーシャではない」
その言葉に自信がなくなっていた。すべすべの手は少し日焼けしているようだし、見れば見るほど自分の身体ではないように思えてくる。声も違う。
「これでも戻らないか」
男はため息をついた。本当に催眠を解くまじないだったのかもしれない。彼は諦めたように両手で櫂の柄をつかむと、慣れた所作で漕ぎはじめる。
右手方向は陸地に沿っていくつも明かりが灯り、深夜にも関わらず港町は賑わっているようだった。左手には薄っすらと水平線が見え、沖合に二隻の蒸気船が黒い煙を棚引かせて停泊していた。甲板の異様な明るさに、今夜が夾竹桃祭りだということを思い出す。きっと船員たちも祭り気分で酒を酌み交わしているのだろう。
一方、小舟の舳先は薄暗い林に覆われた岸辺へと向かっていた。どこに行くのか、と口を開きかけたとき、先に男が喋った。
「ルーシーのことは知っているか?」
わたしが首をかしげると、男はさらにいくつかの名前を口にした。その名前ひとつひとつに首を振った。その不可解な問答がようやく終わり、わたしは最初聞こうとしていた質問をすっかり忘れ、「誰の名前?」と尋ねた。
「ダーシャが使っていた偽名だが、あともうひとつ残ってる。その名前は」
「ユフィ。ユーフェミア・アッシュフィールド。わたしの使用人だった」
男は驚きもせず苦笑を浮かべた。
「わたしっていうのは、エイツ家のセラフィアお嬢さまのことか?」
「あなた、わたしを知ってる? わたしはダーシャではない。わたしはセラフィア・エイツ」
製紙業と出版業で成功したエイツ男爵家は国内外でもかなり名が広まっていたが、ひとり娘の名前まで知る者はそう多くなかった。社交より学業に時間を割いていたし、エイツ家で注目を浴びているのは後継者として養子に入ったケイ公爵家の五男クゥヤ――アカツキの年の離れた弟だ。男はユフィからわたしのことを聞いたに違いない。
男の微笑はどこか諦めたように頼りなかった。櫂を漕ぐ手を止めないまま、彼は「どうするべきなんだ、ダーシャ」と虚空に向かって話しかけた。
「あなたはわたしをどこに連れて行く?」
「なあ、その下手なナータン語はわざとじゃないよな?」
男のうんざりした口調にわたしは苛立った。男がヨスニル語を話せないからこっちが仕方なく合わせてあげているというのに。
「そっちこそ、ヨスニルで暮らしているんだったら少しくらいヨスニル語を勉強するべきじゃない。ランタンパレードのためにわざわざ来たわけじゃないでしょう? 言葉も話せないのに、いったい誰に雇われてこんなことしてるのよ。まったく、殺されそうになったと思ったらディドリーと小舟に揺られてるなんて。何がリーリナの呪いよ、クソッタレ」
わたしが勢いで口にしたのはヨスニル語だった。どうせ理解できないのだからと、好き勝手に喋ってやった。男は面食らった様子でわたしの顔をポカンとながめていたが、わたし自身も自分の口から出た悪態に驚いている。
「今のはロアナ語か?」
「違う。ヨスニル語」
「でも、最後のクソッタレはロアナ語だろう? ダーシャがセラフィアお嬢さまに教えたって言ってた、はしたない言葉だ」
ユフィが「内緒ですよ」と唇に人差し指をあてる姿を思い出した。あれはもう十年くらい前のことだ。
彼女がエイツ家からいなくなっても、わたしは何かしら苛立ったときにそのはしたない言葉を小声で口にした。ロアナ語の辞書にも載っていない俗語だから誰にも聞き咎められないだろうと思っていたら、わたしの小声を耳にしたアカツキがクッと笑った。ロアナ語は読めるだけで喋れないと言っていたくせに、余計な言葉は知っているらしかった。
「ダーシャもたまに言っていた。嫌な観客に向かって笑顔でクソッタレと言うんだ。相手はディドル語の挨拶か何かだと思っているようだった」
「あなたはユフィを知ってる。ユフィはダーシャ」
「ああ、そうだ。それで、あんたはセラフィア・エイツ?」
疑問形で問われたからうなずいた。やはり男は悲しげだった。
「あんたはソトラッカ研究所でイモゥトゥ研究をしている。ヨスニル共和国の、エイツ男爵家の娘――で、合っているか?」
「合っている。ユフィに聞いた?」
「ダーシャに聞いた」
頑なな返事だった。ユフィとダーシャが同一人物だと知っているくせに、それは認めたくないようだ。
「でも、ユフィは知らない。わたしが研究所にいること」
「新聞だか雑紙だかの寄稿文にセラフィア・エイツという名前があったと言っていた。二、三ヶ月前のことだ」
そういえば、半年ほど前に父に請われてイモゥトゥに関する一般人向けの文章を書いて送った。翻訳されて他国の新聞にも載ると言っていたが、ユフィはどこでその文章を読んだのだろう。
「ダーシャはどこに住んでいる?」
わたしの質問に男は肩をすくめ、「さあな」と投げやりに口にした。
少しずつ陸地が近づいていた。目指していたのは砂浜らしく、その右手に集落の明かりが見えはじめていた。林の奥に隠れていて沖からだと明かりが見えなかったようだ。
「セラフィア」と、男は初めてわたしをその名前で呼んだが顔は砂浜の方へ向けていた。
「首にかけてるペンダントを開けてみてくれないか? ダーシャに言われていたんだ。自分がおかしくなったらペンダントの中に書いてある場所に連れていけって」
即座に頭に浮かんだのは【新生】だった。
「彼女は最近おかしかった?」
「ああ。まるで新生前のイモゥトゥみたいに」
「ダーシャはイモゥトゥ?」
男がフイとこちらを向いてわたしの表情をうかがった。
「おれは異教徒だからわからん。あいつが言ってたのは、いつか自分は自分ではなくなるから、そのときが来たらお別れだと。実際、ダーシャは一ヶ月ほど前にリスル座を辞めてどこかに行ったんだ。それが今日、……もう昨日になるか、おれのテントにひょっこり顔を出した。調子がいいし、祭りだから顔を見に来たって」
男は喋るのを止めて、「開いたか?」とわたしの手元を見た。
首にかかっていたのは鎖のついた小さな懐中時計みたいなものだった。銀色をした円盤型のチャームには突起がついていて、試しに押してみたけれど固くてビクともしない。
「押すんじゃなくて回すんだ」
男の言う通りにしてみると熱した貝のようにあっさり蓋が開き、濡れた膝の上にポトリと紙片が落ちた。慌ててつまみ上げたけれど、どうやら蝋紙で包んであるらしい。広げてみると中からさらに小さな紙切れが現れ、ナータン語で何か書かれていたが半分も読めなかった。
「読めない」
わたしが差し出すと、男は待っていたように手を止めてその紙を受け取った。砂浜はもう目の前で、桟橋が二十メートルほど先に見え、乗っているのと同じような小舟が一艘もやってあった。
「買い出し、ナータン組紐十本、頬紅、化粧刷毛二本、綿糸赤、モアクイツ市ウェルミー五番通り新月の黒豹倶楽部」
文面を読み上げると男は「ふうん」と唸った。
「誰かに見られてもいいように、買い物のメモ書きに見せかけてあるようだ。行き先はウェルミー五番か。歩いて行けるには行けるが……」
男は眉間に皺を寄せた。
わたしは今聞いた住所に混乱しながら、改めてぐるりと周囲を見渡してみた。入江にある港町、沖に停泊する蒸気船。それはソトラッカ港の景色とは違っていた。そして男が口にした『モアクイツ市ウェルミー五番通り』はイス皇国の住所。旅行客に注意を促すくらい治安の悪い地区だった。男はそこに歩いていけると言う。
「ねえ。ここ、イス皇国?」
「ヨスニルだと思ってたのか?」
「わたしはヨスニルにいた」
「ああ。セラフィア・エイツはヨスニルにいるのかもしれないが、残念ながらここはイス皇国だ」
「どうして?」
「おれに聞かれても困る。ダーシャはおれに会いに来たくせに目を離した隙に突然いなくなったんだ。探し回っていたら変なやつらに追われてるのを見つけた。向こう岸に見えるあの林の中だ。その時おれは漁港のあの辺りにいた。それで、先回りすることにしたんだ」
「先回り?」
「ダーシャならあの崖から飛び降りるだろうと思った。そういうやつだ」
男はふと我に返ったようにペースを上げて舟を漕ぎ出した。じきに桟橋にたどり着き、砂浜に降り立ったわたしたちはふたりとも濡れねずみだった。服の裾からポタポタと滴る水が砂の上に暗い水玉模様を描いている。
「あなたがわたしを助けた?」
「おれはダーシャを海から引き上げただけだ。ダーシャでなければきっと死んでいた」
わたしはダーシャではない――そう否定する気にはもうなれなかった。胸元に垂れた長いクセ髪は、どうやら赤毛に間違いなさそうだったから。
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