第四話 セラフィア・エイツの死

 ルーカスにそっくりな五歳の子ども。研究所のイモゥトゥが交霊で見たその子がルーカスの弟でないのなら、やはり彼の実子としか考えられなかった。十九歳の彼に五歳の子。単純計算すればルーカスは十三か十四歳のときに誰かとそういう関係を持ったということだ。わたしの頭の中に居座っているのは、ルーカスが描いた十四歳くらいの目の大きな少女。


 ルーカスがイヴォンと?

 その考えが過るたび、研究者としてのわたしが「ありえない」と即座に否定した。


「セラフィア?」


 ルーカスは片手をテーブルの縁にかけ、不思議そうにわたしの顔をのぞきこんでいた。どうやら動揺を隠しきれていなかったらしく、わたしは慌てて「なんでもないわ」と微笑んだ。


「ねえ、ルーカス。二人兄弟ってことはないでしょう? もっと年の離れた小さな――」


 わずかな期待を込めて口にしたものの、ルーカスの瞳からスッと感情が消えて途中で喋るのをやめた。

 

「セラフィア、もしかして研究所のイモゥトゥに交霊させた? ぼくのことを調べたの?」


 ルーカスの異様に血色の良い唇はわたしの口紅が移ったものらしく、ワイングラスにもその色が残っていた。目の前の青年はわずかに微笑を浮かべ、捕まえた獲物をどうやって食べるか、舌舐めずりしながら思案している獣のようだった。その眼差しに愛情らしきものはひとかけらも見当たらない。


 わたしがこれまで見てきた、うぶで、無邪気で、悪戯っぽい笑みを浮かべ、たまにすべてを諦めたような大人びた顔をする病弱な青年。それらはぜんぶ演技だったのだ。そう悟った瞬間、ゾッと悪寒が走った。


 不安と恐怖に飲まれそうになり、わたしは慌ててワイングラスに手を伸ばした。指先が震え、カツンと軽い音がして視界の隅でグラスがぐらりと傾く。ガシャンとガラスの割れた音は聞いたはずだ。でも、連続性を保って思い出せる記憶はここまでだった。



 ルーカスが豹変してからわたしが死ぬまでの記憶は、まるで台本の各場面をシャッフルして演じたオペラみたいだ。細切れのシーンが頭に浮かんでは消え、時間の流れが前後し、この夜のことを思い出すたびイモゥトゥの新生前症状はあんな感じなのかもしれないと思う。


 ルーカスは蝋人形のように温度のない表情でわたしを見ていた。テーブルの皿をどかしてそこに腰掛け、わたしの頭を両手で掴んでいた。


「ねえ、セラフィア。君だって何か目的があって毎週ここに足を運んでいたんだろう?」


 冷えた眼差しには得体のしれない好奇と残虐さが滲んでおり、おそらくわたしを殺すことは彼にとって大したことではなかった。読み終わった本を「捨てといて」とロブに渡すくらいに。

  

「ぼくも同じだよ。ぼくには研究所に出入りしている人間が必要だったんだ。クリフが研究所に出入りしてるけどイモゥトゥに会えるわけじゃないし、あいつでは研究内容を知ることはできない。報告書を盗み見るくらいがせいぜいだ。だから君を紹介してもらった。

 君は優しいし、病弱で容姿端麗な青年にとても同情的だった。しかも女性だしね。うまくやればきっとぼくに協力してくれると思ってたのに、期待外れだったよ。生真面目な女の子より、ちょっと抜けてて秘密をぽろりと口にするくらい愛嬌のある子がぼくの好みだったんだけど。君がくれた情報と言えば去年研究所が一人イモゥトゥを収容したってことくらい。それも、わざわざ君の口から聞かなくても新聞に載ってる内容だ。

 ぼくが知りたいのはそういうことじゃない。研究所にいるイモゥトゥのこと。彼らはこれまでどこでどんなふうに過ごしてきたのか。彼らを虐待していたのは誰なのか。おそらく強制的に交霊させられていたはずだけど、いったいどんな情報を得たのか」


 ルーカスはわたしに向かって喋りながら、答えを求める様子はまったくなかった。


「研究所に新生したイモゥトゥはいるのか。新生後の性格は新生前と変わるのか、類似点は見られるか。普通の赤ん坊との精神的成長速度の違いは? さりげなく話題にしても君の答えはいつも同じだった。研究に関することだからこれ以上は話せない。馬鹿のひとつ覚えみたいにそればかりだ。まったく、何のために君に近づいたのかわからないよ。まあ、イヴォンが研究所にいないことがわかっただけでもひと安心だけどね」


 ご主人様、とロブの声がした。わたしはルーカスに後ろから羽交い締めにされて、扉の方を振り返ることすらできなかった。わたしとルーカスの体勢を考慮すると、ワイングラスが割れた直後の記憶かもしれない。


「準備は?」とルーカスが聞いた。

「問題ありません。すぐに向かう準備ができています」

「やはりロブは優秀だね。セラフィアも君を褒めていたよ。もう彼女の口から君への称賛の言葉が出ることはないだろうけど」

「では手筈通りに進めます」

「もって二時間だ。それまでに終わらせるように」

「承知しています」


 トントントンと、子どものように軽い足音が階段を下りていった。それを追って大人の、つまりロブの足音が遠ざかる。


 ルーカスでもロブでもない気配を、この家の中で感じたことがあったのを思い出した。イモゥトゥが交霊で見たあの子どもが、このローサンヌ広場裏にある借家でルーカスと一緒に暮らしていた――足音だけでそう考えるのは飛躍しすぎだろうか。ただひとつ間違いないのは、軽くかわいらしい足音の主は、ルーカスがロアナ王国でそうであったように、誰にも姿を見せずひっそりと隠れ暮らしていたこと。


「思ったより耐えてるね、セラフィア」


 後ろにいたはずのルーカスの顔がまた正面にあった。目も鼻も口もすべてが二重、三重になって見え、大きな手のひらで両側から押さえつけられた頭がドクドクと脈打っている。今にも血管が破裂してしまいそうだった。


「その苦痛はもうじき終わるから、もっと素直にぼくに身を委ねて。ぼくらは恋人なんだから」


 吐息がかかるくらいに顔を近づけ、ルーカスはわたしの両耳に指先を入れて動かす。ガサガサと不快な音がし、頭痛がいっそう酷くなった。「やめて」と言いたくても、まるで話し方を忘れてしまったみたいに犬のようなうめき声が出るばかりで、だらしなくよだれを垂らしているのが自分でもわかった。


「ああ、セラフィアが壊れていく」


 ルーカスは歓喜していた。


「思いもかけず君みたいな美しい恋人ができたのは嬉しいハプニングだったよ。もう少し恋人ごっこを続けていたかったのに。セラフィア、怖がらないで。言っただろう、ぼくは君を愛してる。目を閉じればきっとその苦しみは終わる。ああ、もう自分で瞼を閉じることもできなくなったのかな?」


 気を失ってしまいたいという気持ちと、ここで意識を失ったらすべてが終わりだという気持ちがせめぎ合っていた。


「あーあ、もう今夜で終わりにするしかなくなっちゃった」

「……ルーカス、それ……」

「酔っ払いすぎだよ、セラフィア。これは君のせいだからね」


 いつの間にかロブが隣にいて、ウォーターピッチャーをひっくり返していた。水飛沫が足元を濡らし、ルーカスは背後から片腕でわたしの動きを封じている。ふくらはぎにチリッと鋭い痛みがあったのは、グラスの破片で切れたのかもしれなかった。


「行ってくる」

「お気をつけて」


 階下から子どもとロブの声がした後、扉が閉まる音がする。半分だけ開いた窓から、ローサンヌ広場の喧騒がかすかに聞こえていた。


「さよならのキス」


 ルーカスがわたしの頭を両手で挟んだまま唇を重ねた。口も目も手足も指も、どこもかしこも麻痺したように自分の意思で動かすことができず、わたしは頭痛に耐えながらされるがままになっていた。


「ねえ、セラフィア。アカツキ・ケイはリーリナ神教についてどれくらい知ってる? 面倒だから彼も君と一緒にセタのもとに送ってあげようか。君たちジチ教徒にとって死は祝福だろう?」


 体がガクガクと痙攣しはじめ、恐怖がわたしを包み込んだ。アカツキの顔が頭を過り、瞼の裏がじわっと熱くなる。こんなことなら第六研究棟を出る前にひとこと声をかければよかった。


 ――セラフィアにはもう少し遊び心ってものが必要だよ。おれとセラフィアを足して二で割ったらちょうどいいかもしれない。


 去年はそんなふうに言ってわたしをランタンパレードに連れ出した。

 彼はまだ研究棟にいるのだろうか、それとも祭りに出かけただろうか。たとえこのまま死んでしまうにしても、彼がせめてローサンヌ広場にいればいいと思った。


 そばで見ると印象的な灰色の瞳。いつも目を細めて笑っているか、伏し目がちに文献を読んでいるから彼の瞳が灰色だと気づいてる人は少なかった。あの瞳にわたしはどんなふうに映っていたのだろう。


 ふいに夜風が頬をなで、広場の方からかすかに歌声が聞こえてきた。


 ――ヘイ、ラァラ♪ あなたの愛をわたしのもとに。わたしの愛はあなたのもとに♪ あなたのその手でこの盃を、邪神の口におやりなさい♪ 邪神の奪ったあまたの愛を、さあラァラ♪ あなたのその手で邪神の口に♪


「リーリナ神を油断させて毒入り酒を飲ませるなんて、ジチ教徒はどうしてそんな男を崇めるのか理解に苦しむよ。そこに関しては君も同じ意見だったみたいだけど……ああ、もう喋れないよね。セラフィアがイモゥトゥだったら死ななくて済んだのに、残念だよ」


 ルーカスの目はもうこっちを見ていなかった。


 窓の方に顔を向けてひとり言を喋る彼の喉仏が上下していた。喉が弱いからといつも巻いていたスカーフを外し、喉仏の横にあるふたつのホクロが見えている。視界がかすんでいるから、もしかしたら本当はホクロはひとつだったのかもしれない。


「やっぱりウチヒスルから一人か二人こっちに連れてくるべきだったか。まあ、悔やんでも仕方ない。イヴォンの件は別の方法で進めるしかなさそうだ」


 コツン、コツン、と穏やかな足音。視界はすでに真っ暗で、鼓膜が捩れてしまったように、音はどこから聞こえているのかよくわからなかった。


「セラフィア、セラフィア。……まだ意識がある? セラフィ……」


 途中で途切れたその声は、思い出そうとするだけでゾッとする、ひどく優しく甘い声だった。この夜、わたしはいったい何を見て、ルーカスはわたしを殺すことに決めたのか。


『あーあ、もう今夜で終わりにするしかなくなっちゃった』


 ルーカスにそう言わしめた何かを、わたしは目にしたはずだった。『これは君のせいだからね』と彼が言った、『これ』が未だに思い出せない。


 いつだったか、一人のイモゥトゥがこんなふうに言っていた。


 ――体の傷は簡単に消えるのに、イモゥトゥでも心の傷はなかなか消えない。でも、経験したことをすべて覚えてるわけじゃないんだ。本当にキツイことは脳が勝手に消去するみたいで、虐待を受けてた時間のことは、じつはあまり覚えていないんだ。


 もしかしたら、わたしも苦痛に耐えかねて記憶を消してしまったのかもしれない。それなのに、〈セラフィア・エイツ〉としての生を終えた後もあの夜の戦慄するような恐怖が魂にこびりついている。ワインボトルの赤い封蝋のように。

 

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