第二話 二人だけのディナー

__ソトラッカ市郊外ルーカスの借家__7月20日20時過ぎ



 ルーカスの家の庭先に植わった夾竹桃は、彼が家を借りる以前からあったそうだ。人の背丈をゆうに超える立派な樹には、淡桃色の花が今夜の祭りに合わせたように咲き乱れていた。根元に置かれているのは素人目にも高価なものとわかるふたつのカットグラス。邪神リーリナよりも泥棒がおびき寄せられそうだった。


「ロアナ王国ではワイングラスをふたつ置くの?」


「ラァラ派だけだよ。ロアナはほとんどラァラ派だけど王家はジチ正派だから、王城の夾竹桃に供えてあるグラスはひとつじゃないかな」


 そんなふうに言いながらルーカスはワインボトルを受け取り、もう片方の手でわたしの手をとって玄関へとエスコートした。


「ロブ」


 彼が奥に声をかけると使用人が顔を出し、ボトルを預かって先に階段をあがっていく。ルーカスよりも小柄で幼い顔つきをして、そのわりにいつも疲れ果てた老人のように無表情だった。ロブ以外にも実家からの遣いがたまに出入りしていると聞いたけど、この家の使用人はロブだけらしい。


「ロブさんは優秀ね。料理も掃除も、その他の雑務も全部一人でできるなんて」


「絵を描くだけが趣味の病人の世話も完璧だよ」


 自虐的な冗談を口にし、ルーカスはちろりと舌を出した。ロブは聞こえているのかいないのか、主人の部屋の扉を開けるとスッと脇に控える。テーブルには燭台を挟んで二人分の皿が用意され、サラミとハムの乗ったスライスパンが二枚、上品に盛り付けられていた。


 古風な家具はヨスニルの没落貴族の競売で買い揃えたものだと以前聞いた。品があって不足はないが、どこか生活感がない部屋に彩りを添えているのはルーカス自身が描いた絵。彩色にはさほど興味がないのか色はサッと入れた程度だが、そのラフさがデッサンの上手さを際立たせているようだった。何枚かの風景画の中にひとつだけある人物画のモデルはわたし、セラフィア・エイツ。ニコリとも笑わず挑むようにこっちを見ている姿が、わたしの性格をよく表していた。


 なぜ、ルーカスはこんな無愛想な女に告白したのか?

 その答えはすでに出ている。彼にも、わたしにも、お互いに近づくだけの理由があったのだ。


「ご主人様、ワインはこちらにされますか? それとも準備していたものを?」


 ロブはわたしのあげたワインのエチケットを主人に見せる。すると、ルーカスはその絵がお気に召したのか歯を見せて笑った。


「これにしよう。せっかくセラフィアが持って来てくれたんだから」


 ルーカスは椅子を引いてわたしを座らせると、自分は向かいの席に腰かけた。ガス灯と違って暖かな色をした蝋燭の炎はいつもより病人の顔色を良く見せ、ゆらめく影が常にはない色気を纏わせていた。


 グラスはわたしの前とルーカスの前、それぞれふたつずつ。これが普通の恋人同士なら当たり前の光景だけれど、わたしとルーカスの食事風景ではありえないことだ。食事制限が多くその時刻まできっちり決められている彼が、たとえクッキーひとかけでも何か食べ物を口にしたところを今まで見たことがなかったのだ。


「ねえ、ルーカス。今夜は一緒に食べられるの? お酒は止められてるんでしょう?」


「今夜は夾竹桃祭りだから特別――、と言いたいところだけど、これは気分だけ。セラフィアがロアナ料理に興味があると言っていたからロブに用意させたんだ。でも、ぼくの前に何もないと食べづらいだろう? ぼくは君の顔をながめながらワインと料理の匂いを楽しめるだけで幸せだよ」


 ポン、とかすかな音がした。隅にある小さなテーブルで、ロブが開栓したボトルの口を拭っている。邪神リーリナの好んでいたのが白ワインではなく赤ワインだったなら、杭で刺されて吹き出した血のようだ。瘡蓋のようにこびりついたままの赤い封蝋を見てそんなことを考えた。


 ロブはワインを注ぎ終えると、窓を半分ほど開けた。そして「料理をお持ちします」と扉を開け放ったまま階段を降りていった。夜風が首をなで、蝋燭の炎が踊り子のように震える。


「急いで来ることなかったのに。いくら夏だといっても汗が冷えると風邪をひいてしまうよ」


 椅子から立ち上がったルーカスは、隣に来るとわたしの首に滲んだ汗をハンカチで拭った。どうして彼がうぶだなんて思い込んでいたのか、不思議でならなかった。


「ねえ、セラフィア。またイモゥトゥを保護したの? それで遅くなった?」


 冗談めかしているけれど、これこそルーカスがわたしに近づいた理由。


「違うわ。ちょっと調子のよくないイモゥトゥがいて」


「ふうん、新生前症状かな?」


 イモゥトゥ研究者か新聞記者みたいなことを言う彼に、「研究に関わることだから、これ以上話せないわ」といつも通りに返した。「残念」と肩をすくめるルーカスは、以前と違ってイモゥトゥへの関心を隠そうとしない。


 わたしをルーカスに紹介したのはクリフ・オールソンだった。彼が通うのは首都キャンパスだったけれど、いずれイモゥトゥ研究に携わりたいとソトラッカ研究所をニ、三度訪れていた。そして、一年ほど前に「友人の話し相手になってもらえませんか」とわたしに頼んできたのだった。連れて来られたのがローサンヌ広場裏にあるこの家。


 オールソン卿自身は首都に住んでいるからこの家を滅多に訪ねられない。わたしはルーカスから直に請われて何度か一人で訪問し、そして十一月末の聖人の日に告白されて「いつでも会いに来る」という曖昧な返事とともに頬へのキスを返したのだった。なんとなく成立した関係は、病弱な美青年への同情を、ロアナ王国への興味が後押しした結果だった。邪神リーリナを崇めるリーリナ神教が、ロアナ王国にしかなかったとアカツキに聞いていたから。


 恋人になったあとローサンヌ広場裏の家を訪れる頻度は増えたものの、わたしたちの関係が変化したかと言えばそんなことはない。手を握るだけで満足げに微笑む彼を見ていると、リーリナ神教への興味で近づいたことに罪悪感を覚え、結局は『リーリナ』のリの字も口にできなかった。そのうち、このまま通っていればルーカスを男性として愛する日も来るかもしれないとぼんやり思い始めていた。そんな淡い期待がスッと引っ込んだのは今年五月のこと。


 その日はたまたま鞄にサルビアの種が入っていた。数日前に礼拝殿の前を通りかかったとき、白い祭服を着た人たちが無料で配っていたものだった。


 土いじりが好きなわけではなかったけれど、ルーカスの家の庭は夾竹桃が植わっている以外は殺風景だし、信仰心の篤い彼ならきっと喜んでくれると思っていた。


 ジチ教では、セタ神が死をもって人々を愛の国に迎える。セタ神は聖人ジチが埋葬された場所にサルビアの花を咲かせたが、そこがクローナ大聖会本部のある聖地トゥカだ。クローナ神話における具体的なセタ神の逸話はそれくらいだけれど、サルビアはセタ神の象徴でもあり、愛の象徴。


 でも、結局その日サルビアの種は撒かなかった。


 ――セタはラァラを苦しめた。誰よりも愛に生きたのに、彼女は死を求めて世界を彷徨い歩かなければならなかった。ラァラ派では彼女が死を迎えるまでには長い長い時間がかかったとされているし、研究者のセラフィアなら知ってると思うけど、ラァラがまだ死を迎えていないという説もある。だから、ぼくはあまりサルビアの花が好きじゃない。

 ジチ教では愛は神から与えられるものではなく自分で見出すことが大事で、それが愛の国に行く唯一の方法だとされているよね。だから、セタの世界に行けるのは他人を愛することができる者だけで、それが愛の国と呼ばれている理由。

 でも、ずるいと思わない? 

 セタは自分が愛されたいから、そういう人間しか自分の国に迎えないんだ。セタ自らが愛を教えようとは決してしない。


 ルーカスはそんなふうに言ったのだった。いつになく感情的で、少し苛立っているようにも見えた。そして、ふと思い出したように胸ポケットから一枚の紙を取り出し、わたしに広げて見せたのだった。十五センチ四方くらいの小さな紙に素描されているのは十四、五歳くらいの少女で、その絵は間違いなくルーカス自身が描いたものだ。


 彼は「この人見たことない?」と口にし、わたしがしげしげと目の大きな少女をながめると、「たぶんイモゥトゥだと思うんだけど」と自信なさげに言い足した。そのわりに、顔をあげて見た彼の表情はずいぶん確信に満ちたものだった。


「ねえ、ルーカス。前に絵を見せてもらったイモゥトゥのことなんだけど、どういう関係だったか聞いてもいい?」


 さり気なく聞いたつもりが、語尾がわずかに震えた。緊張に耐えきれずワイングラスを手にとると、ルーカスはわたしに合わせてワインの匂いを嗅ぐ。赤ら顔の店主の言葉通り、五年ものの白ワインは庭先に撒くには惜しいくらい深い香りと味わいがあった。


「そういえば、あのときは姿絵を見せただけだった?」


 その声に行方知れずのイモゥトゥを心配している雰囲気はない。でも、あの丁寧に描き込まれた素描からは少女に対する執着が滲んでいた。だからこそ、あの時は追求するのを我慢したのだ。


「ええ。名前も聞いてないわ」


「別に秘密にしてるわけじゃないよ。彼女の名前は」


 ルーカスが話し始めたとき、ロブが皿を手に部屋に入ってきた。ひとつは色鮮やかな野菜のマリネ、もうひとつはキツネ色のパイに包まれた何か。ロブがそれを切って小皿につける間、ルーカスはわたしの隣に立ったまま喋り続けていた。


「彼女の名前はイヴォン。小さい頃にサザラン伯爵邸に来ていたのを見かけたことがあるんだ。セラフィアに見せたあの絵そのままの顔だったよ。彼女がイモゥトゥじゃないかと疑うことになったのは去年の春。ロアナ王国の王都ハサで彼女に会ったんだ。小さい頃に見た時とまったく変わらない姿だった」


王都邸宅タウンハウスで会ったの?」


 わたしの胸にあったのは猜疑心だった。たしか、病弱な彼はずっと領地に引きこもっていたはずだ。それが何のために王都へ?


「ほら、ぼくはそのころ監獄脱出計画を遂行中だったから、ここに引っ越す前はほんの十日間ほどだけどタウンハウスに住んでたんだ。でも、彼女に会ったのはハサ郊外の商店街。評判の占い師がいるっていう噂を聞いて、興味本位で出かけたんだ。〝監獄脱出計画〟がうまくいくかどうかも知りたかったしね」


 ルーカスはいつも穏やかでどちらかといえば口数は少ないほうだけど、時々こんなふうに饒舌になる。それは大抵イモゥトゥの話をしているときだった。 


「彼女が商売しているテントは商店街の奥まったところにあって、そこに行くまででもぼくには大冒険だった。こっそり屋敷を抜け出して、一人で出かけるなんて初めてだったから。ようやく見つけたのは占い屋じゃなくて霊媒相談と書かれた紙。ぼくの前の客が出て行って、入れ替わりに中に入ったら霊媒師はぼくを見るなり狼狽して逃げ出したんだ。天井に吊られたランタンに彼女の顔を覆っていたヴェールが引っかかって、隠していた顔が晒されたとき、ぼくもアッと思った。彼女がヴェールをとらず普通に商売していたら、ぼくは何も気づかなかったはずだ。でも彼女は逃げた。ぼくにイモゥトゥであることがバレるのを恐れて」


 イモゥトゥが正体を知られて逃げるのは不思議ではない。身分を偽っていたことがバレるし、何より虐待されることへの恐怖が植え付けられている。研究所では現在八人のイモゥトゥを保護しているけれど、研究所に身を委ねることも彼らにとっては一大決心なのだ。自由を奪われ、実験体にされて痛めつけられるのではと考えている。覚悟を決めて保護を求めてきたのは、新生で記憶を失った後のことを心配するイモゥトゥたちだった。


 それにしても、気になるのはルーカスが口にした『霊媒相談』という言葉だ。


「もしかしたら新生が近づいているのかもしれないわね」


「やっぱり、専門家のセラフィアならそう思うよね。あのあと商店街の人たちから少し話を聞いてみたんだ。それで名前がイヴォンだとわかった。百発百中の占い師だと評判で、最近流行りの骨相学や、ディドリーの石占なんかとは比べ物にならないって言ってた。客の相談は妻や夫の浮気みたいな下世話な内容らしいんだけど、まるで目の前で見てるみたいに詳細な話をするらしいんだ。浮気相手が誰それで、どこそこのカフェーで会ったとか、どんな会話をしていたとか。これって、どう考えても新生前症状の〝記憶共有〟だよね」


 わたしは呆然と彼の話を聞いていた。


 いつの間にかロブはいなくなり、ルーカスはワイングラスではなく隣に置かれたグラスの水を一口飲んだ。それは唇を湿らせる程度で水はほとんど減っておらず、ウォーターピッチャーが置かれている意味はあまりない。いつどこで何を口にして生き長らえているのか、いっそディドル大陸に伝わる吸血鬼のように、隠れて人の生き血でも啜っているのではないだろうか。


「わたし、記憶共有のことまで話したかしら。まだ検証中で公表されていないはずだけど」


 混乱した感情を押し殺すと、平坦な声になった。


 記憶共有とはトランス状態で他者の記憶をのぞき見ること。最初、研究者たちは単なる幻視や幻聴だと考えていたのだが、イモゥトゥの『交霊させられていた』という証言を元に検証した結果、信じられないことだが本当に他者の記憶をのぞいている可能性があった。


 記憶共有(交霊)は主に視覚と聴覚の刺激で喚起される。つまり、Aという人物の顔を見たイモゥトゥがのぞき見るのはAの記憶ではなく、Aを見た誰かの記憶だ。Aの交友関係が広ければ広いほど、あらゆる人間の記憶からAの人となりを暴くことができる。とはいえ、交霊はそう簡単にコントロールできるものでもないようだった。


 ソトラッカ研究所では全部で八人のイモゥトゥのうち新生前症状を発症しているのは四人、未発症が二人、すでに新生して赤ん坊もしくは幼児の状態にあるのが二人。記憶共有のことが明らかになってから、研究員が新生前症状のあるイモゥトゥと接触する際には布で口元を覆うようになった。いつ交霊状態に入るかわからず、目の前の研究員の風貌に刺激を受けてその人の個人的な秘密を暴露してしまう可能性があるからだ。研究所で保護したイモゥトゥたちには交霊を強制的にさせられていた過去があり、見たものを口述する癖がある。


 この能力は犯罪に利用されるかもしれず、研究所では厳重に情報管理しているはずだった。それなのに、なぜ部外者のルーカスが知っていたのか。


「クリフだよ」とルーカスは言った。


「クリフにもあの絵を見せて事情を説明したんだ。そうしたら、新生前症状かもしれないから、早めに保護したほうがいいって」


 思わず深いため息が漏れた。正式な研究員でもないクリフ・オールソンに情報を漏らしたのが誰か、なるべく早く突き止めて再発を防止しないといけない。


「ルーカス、記憶共有の話は絶対誰にもしないで。まだ検証中だし、イモゥトゥに危険が及ぶことになるわ。オールソン卿が誰から話を聞いたのかわからないけど、彼にはわたしから口止めしておく」


「ごめん、セラフィア。ぼくは誰にも言わないよ。話し相手はセラフィアくらいしかいないから。それと、クリフは誰かから聞いたわけじゃない。研究所を見学していたとき、机に置かれていた書きかけの報告書がチラッと目に入ったって言ってた。それが誰の机かまではわからないけどね」


 ルーカスはわたしの手からフォークを奪い、ロブが切り分けたパイ包みをわたしの口に運んだ。嗅いだことのないスパイスの匂いがし、あまり好みではないその味を白ワインで胃に流し込む。


「ルーカス、その……イヴォンとは特別な関係ではなかったのよね?」


 わたしの言葉が意外だったのか、ルーカスはわずかに目を見開くと嬉しそうに口角をあげた。そして頬にキスをする。ひやりと冷たい感触は、ワインで火照っているからだろう。いつの間にかわたしは一人でボトルの半分を空けていて、それに気づいた途端急に酔いが回ってきた。


「セラフィア、お願いがあるんだけど」


 左の耳にルーカスの吐息がかかった。


「何?」


「研究所のイモゥトゥに、イヴォンの絵を見せてくれない? 彼女はきっともうじき新生する。その前に見つけて保護しないと」


「保護してどうするの? 彼女を愛してるの?」


 恋人に縋り付く哀れな女みたいな台詞が自分の口から出てきて、我ながら苦笑した。ルーカスは片手をテーブルに置いて口づけ、蝋燭の炎がボッと消えそうな音をたてる。実際に五本ある蝋燭のうちニ本が消えた。彼は蝋マッチをポケットから取り出したけれど、この薄暗さが気に入ったのか点けることなく再びポケットにしまう。


「ごめん、さっきのお願いは忘れて。この話はもうやめよう。ぼくが愛してるのはセラフィアだよ」


 本当に? と尋ねる気にもならなかった。別にルーカスがわたしを愛しているかどうかなんてどうでもいい。蝋燭の明かりに照らされて浮かび上がる青年の仮面を引き剥がしたい衝動を必死で抑えていた。

 

 このうぶそうな美青年には、子どもがいるかもしれないのだ。その母親がイヴォンである可能性は低いけれど、それならば別の女性がいるはず。彼の口から出る言葉すべてが虚構に聞こえ、めまいを覚えた。

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