第一章 深窓の令息
第一話 夾竹桃祭り
__クローナ歴555年7月20日20時頃__ヨスニル共和国ソトラッカ郡ソトラッカ市
第六研究棟を出たとき空はまだ明るかった。この時間帯にしては構内を歩く人の姿はまばらで、職員も研究員も早々に仕事を切り上げてチェレスタ五番通りに向かったのだろうと思った。
七月二十日の夜はジチ教最大の祭りとされる夾竹桃祭り。ソトラッカ市の目抜き通りであるチェレスタ七番通りは夕方から馬車の乗り入れが制限され、露天や楽器演奏、見世物などで賑わっている。そんな中、綺羅びやかに装飾された聖馬車を先頭にランタンを手にした人々が白い祭服を纏って通りを歩く。ヨスニル共和国各地から見物客が訪れる、ソトラッカ名物のランタンパレードだ。
ヨスニルではジチ教徒の人口に占める割合は七割ほどだから、ほぼ国をあげてのお祭り。とはいえ、毎週欠かさず聖殿を訪れ礼拝に参加するような敬虔な信徒は珍しく、むしろ冠婚葬祭のときだけジチ教徒であることを思い出す程度の軽い信仰心の持ち主がほとんどだった。その軽さゆえ、夜店の前で異教徒のディドリーが民族衣装で踊っていても何の問題もない。
ルーカスにこの話をすると、「信じられないな」と本当に嫌そうに眉をしかめていた。彼の祖国であるロアナ王国はクローナ大陸の最西端。西に行くほど敬虔なジチ教徒が多く、ロアナの夾竹桃祭りでは各地の聖殿や礼拝殿で厳かな儀式が行われるということだ。
――セラフィアがパレードに行きたいなら遠慮せずに行っていいよ。ぼくのことは気にしないで。
祭りの前の週に彼の家を訪ねたとき言われた言葉だった。
彼がパレードに行かないことはわかっていたし、去年のように同僚のアカツキに誘われたら一緒にぶらぶらしてもいいかと考えていたけれど、敢えて「行ってきてもいいよ」と言われると他の男性と出かけるのは申し訳なかった。それで、祭りの日に彼の家を訪ねると約束したのだ。いちおうルーカスとわたしは恋人だから。
わたしに三歳年下の恋人がいると知ると、研究所の同僚たちはみな驚いた顔をした。ルーカスの顔を知っていたらもっと驚いただろう。
十九歳だというけれど見た目はせいぜい十七歳。陶器のような白い肌に目鼻立ちのすっきりした美青年で、穏やかな風貌にいつも悪戯っぽい笑みを浮かべている。通りを歩けば若い令嬢がこぞって振り返りそうなものだが、いかんせんルーカスは外に出ることがままならない。生まれつき病弱らしく、外出制限に食事制限、水分の摂取量まで決められている。
深窓の令息――故郷では皮肉を込めてそんなふうに言われることもあったらしい。だからなのか、ルーカスは数少ない同郷の友人クリフ・オールソンがソトラッカ大学に入学したのをきっかけにロアナ王国を出ることを決め、ソトラッカ市郊外に家を借りるとはるばるヨスニル共和国に引っ越してきたのだった。
『監獄からの脱出計画を立てるのは楽しかったよ』
彼は言っていたけれど、監獄というのはもちろん比喩。ルーカスはサザラン伯爵家という由緒正しい家門の出で、爵位と領地とが結びついたロアナ王国の話を彼の口から聞くたび時代錯誤な感じがして返答に困ることがあった。
かつてはロアナ王国と同じように王政を敷いていたヨスニルだが、共和制へと移行したのは中央クローナ革命期の真っただ中。クローナ歴五〇三年の無血革命により、王家は自ら城と政治から身を退きいち公爵家となった。新政府は貴族の領地をすべて没収し、爵位は名誉ばかりのものへと変わり、今ではお金を出して議会に承認さえしてもらえれば爵位を得られる。
わたしの家は革命後に爵位授与を承認されたいわゆる〝新貴族〟だ。貴族学校では『商売人の家は違うわね』などとチクチク皮肉を言われ、おかげで男爵令嬢として生まれながら貴族のことが嫌いになった。なぜ爵位など買ったのかと父を呪ったこともあるが、商売に必要だから買ったに過ぎない。
令嬢たちとの面倒な心理戦から解放されたのはソトラッカ研究所に移籍してからのこと。二十二歳で嫁ぎもせず研究員などしている変人のまわりにいるのは、イモゥトゥを研究しようという変人ばかり。身分差に気を使う必要はない。そのせいか、ルーカスから貴族令嬢として扱われることには気恥ずかしさを覚えていた。たぶん、今夜もわたしの手をとって彼の部屋まで自らエスコートするのだろう。想像してため息が漏れた。
いつまでルーカスに恋しているフリができるのか。情はあるけれど情しかなく、それは愛情とは別もの。病弱なうら若き青年に対する同情に過ぎなかった。
「へい、あんた一緒に乗ってくかい! 五番通りだろう? 今日は祭りのせいで七番手前までしか行けないがな!」
研究所の門のそばで、いつもいる髭のもっさりした御者が大きく手を振っていた。停まっているのは二頭立ての乗合馬車で、三人ほどしか客はいなかった。
「今日は予定があるの! 反対方向だからいいわ」
「へえ、そうかい。楽しいデートを!」
男は髭の奥でニヤリと笑った。そのあと彼が懐中時計を開いたのにつられ、わたしは総合中央棟の年季の入った時計塔を仰ぎ見たのだった。
「えっ、もうこんな時間?」
約束の午後八時にはまだ早いと思っていたのに、三十分くらい勘違いしていた。もう七時四十分だ。
研究所からルーカスの家までは一キロと少し。普段なら少しの遅刻で済むけれど、彼の家はランタンパレードの終着点であるローサンヌ広場の先にあった。混雑を避けて裏通りを行っても、約束の時刻には間に合わない。チェレスタ通りの夜店をのぞく時間はなさそうだった。
夏場の快晴を甘く見ていた自分を呪いつつ、慌てて門を出た。普段なら二輪一頭立ての軽装馬車がニ、三台客待ちしているのに、今は一台も見当たらない。おそらく祭り目的の観光客を見越して駅近くで商売しているのだろう。
わたしは馬車を諦め徒歩で向かうことにしたのだった。ルーカスには申し訳ないけれど、正直なところ彼に会うまでの猶予ができてホッとしていた。仕事で遅くなったと言い訳すればいいと頭を切り替え、混雑を避けて九番通りをローサンヌ広場方面へ歩く。
ランタンパレードのある七番通りには小洒落たブティックや老舗の商店が立ち並んでいるけれど、九番通りにあるのは労働者向けの集合住宅と庶民向けの雑貨屋や飲食店。祭りだからか、軒先には夾竹桃の植木鉢が置かれていた。どれもこれもヒョロッと細長く伸びた幹に葉っぱと花が一、ニ輪ついた申し訳程度のもので、祭りに合わせて購入したものに違いなかった。根元には小さなガラスコップがあり、透明な液体が注がれている。中身は確かめるまでもなく白ワイン。
「バカバカしい」
足早に道を行きながら思わずひとり言がこぼれた。
あれは邪神リーリナを祓うためのまじないだ。七月二十日は邪神リーリナが聖人ジチの娘ラァラを呪って不老不死にした日とされている。だから、リーリナ神が好んだ白ワインでおびき寄せ、酔った邪神を夾竹桃の毒でやっつけるという主旨らしい。以前はそこに夾竹桃の枝を挿していたが、毒の滲み出た酒を誤って飲む事故が多発したため酒だけ供えるようになったのだとか。供えた酒は明日の朝には家の前に撒くから、夾竹桃祭りの翌日はどこの街も酒臭い。信仰心の厚い土地では夾竹桃をひと枝切って紙に包んで前日から家の前に飾り、翌日に土に埋めたりするそうだ。
いずれにせよ、わたしはそんなおまじないに何の意味があるのか理解できなかった。ジチへの信仰心などひとかけらもない父の影響に違いない。ただ、邪神リーリナを騙して殺した聖人ジチのやり方は嫌いではなかった。邪神によってイモゥトゥになった娘ラァラと邪神リーリナとの婚儀が開かれた十一月三十日のこと。祝いの酒だと偽って夾竹桃の毒が溶け出した白ワインを飲ませ、弱ったところで夾竹桃の杭で胸を貫いたのだ。その日は聖人の日と定められているが、聖人というにはいかにも人間臭く卑怯なやり方ではないか。
――ヘイ、ラァラ♪ あなたの愛をわたしのもとに。わたしの愛はあなたのもとに♪
細い路地の奥から人々の歌声が聞こえてきた。
――あなたのその手でこの盃を、邪神の口におやりなさい♪ 邪神の奪ったあまたの愛を、さあラァラ♪ あなたのその手で邪神の口に♪
太鼓の音とトランペットの音色、手拍子、指笛にシャラシャラと何かを打ち鳴らす音。たまに見える八番通りの様子はずいぶん慌ただしかった。子どもたちが「パレードはあっちだ」「そこまで来てる」と転ばんばかりの勢いで駆けていく。
わたしは軒先でワインを売っている酒屋を見つけて足を止めた。夾竹桃祭り用の限定品らしく、エチケットには夾竹桃の杭を邪神の胸に突き刺す聖人ジチが描かれていた。赤い封蝋が邪神の血のようだった。
「あたりまえだがぁ、毒は入っちゃおらん。五五〇年産でねぇ、リーリナのやろうに供えるにゃあもったいない出来なんだ」
「だから自分で飲んでるんですね」
店主はすでに酔っ払っているらしく赤い顔をしていた。
「そういうこった。あんたは別嬪さんだから、白ワイン持ってるとリーリナに目ぇつけられるかもしれねえ。だがそんときはこれを投げつけりゃあいい。今夜は腐るほどあっちこっちに置いてあらぁ」
そう言って店主が指さしたのは夾竹桃の鉢植えだった。ガハハと豪快に笑い、「うまい酒だよ」とズイッと差し出してくる。手ぶらで行くよりもと考えわたしは白ワインを一本買った。
そばを通りかかった警察官がチラとこちらを見たようだった。裏通りまで巡廻しているのは、酔っぱらいが夾竹桃を折ったり燃やしたりして市民に被害が出ないようにだ。
わたしはワインを手に歩きながら、同僚のアカツキが去年教えてくれた邪神とラァラの恋物語を思い出していた。
夾竹桃祭りはジチ教においてラァラが呪われた悔恨の日だが、邪神リーリナを崇める宗教では愛の祝日とされていたのだそうだ。わたしはそのときの話で初めてリーリナ神教の存在を知った。もう何百年も前に禁教とされ、今ではクローナ大聖会本部に資料があるだけだという。
同じイモゥトゥ研究者でも、わたしはイモゥトゥの体を直に調べる生体学が専門。宗教学・民俗学的観点からイモゥトゥを調査している彼はこんなふうに言っていた。
――リーリナ神教では七月二十日は愛の日なんだ。まだ普通の人間だったラァラが誤って夾竹桃の花びらを口にしてしまい、瀕死の状態になった。ラァラの美しさに心を奪われたリーリナ神は、彼女をセタ神に連れ去られないように不老不死の術でイモゥトゥに変えた。ジチは娘の回復を心から喜んだが、後にリーリナ神がラァラを娶りにやってきて、そこで初めて娘がイモゥトゥになったと知ったんだ。
ジチ教ではイモゥトゥになった者は愛を奪われるとされてるが、正確には少し違う。リーリナだけに愛を注ぎ、他への愛が疎かになるんだ。だから、少なくともリーリナとラァラは両思いだった。リーリナ神が滅ぼされた後もラァラが不老不死のままなのは、ラァラが心からリーリナ神を愛していたからで、その愛ゆえにリーリナ神と同じ神の領域に達したと記されてる。もちろんリーリナ神教ではってことだよ。なんにせよ、リーリナ神教の視点からみれば、不老不死術はラァラへの祝福だったんだ。
アカツキはその『祝福』という言葉を妙に皮肉めいた口調で言っていた。
そういえば、第六研究棟を出たとき彼の研究室にはまだ在室の札がかかっていたけれど、今年は祭りに行かないつもりだろうか。貴族らしく品はあるが、さほど特徴のないアカツキ・ケイの顔を思い浮かべたところでわたしはようやく九番通りを抜けた。
腰までの高さの生け垣に囲まれたローサンヌ広場は、いつもなら広場の中央にある噴水まで見通せる。けれど、今夜ばかりは露店と群衆で埋め尽くされていた。広場の外には地べたに座り込んで酒と煙草でパレードの到着を待つ人たちの姿。
「まだ到着しねえのか?」
「今八時を過ぎたばっかりだ。もうちっとかかるだろうよ」
そんな会話が聞こえ、自然と足が早まる。
流れる汗で髪が頬に張り付いている上、研究所帰りのディバイデッドスカート姿。合理服に慣れてしまうと馬車に乗ってドレス姿で訪問するのがずいぶん仰々しく感じられ、首都チェサでバッスルスタイル(スカートの後ろを膨らませたドレス)が再流行していると聞いて何着か購入したものの、ルーカスにお披露目する機会はなさそうだった。
広場の裏側に出ると街の景色はガラリと変わり、庭付きのこぢんまりした屋敷が街路沿いにポツン、ポツンと建っていた。ローサンヌ広場の賑わいが違う世界の出来事のように人影はひとつもなく、ガス灯の青白い光が黄昏の陽に埋もれるようにぼんやり浮かび、見上げた半分の夜空には星が瞬いていた。
ほとんどの住人が祭りに出かけてしまったのだろう。街路の左、手前から数えて三番目の家にだけ窓明かりが灯っていた。カーテンは引かれておらず、出窓に腰掛けた青年の顔を、そばに置いたランタンが照らしている。青年はわたしに気づいたらしくそのランタンを手に窓辺から姿を消した。
足が重かった。恋人の家はもう目の前にあり、ルーカスは今わたしを迎えるために階段を降りている。一人しかいない使用人に「食事の用意を」と伝え、ランタンを手渡し、自分は玄関のドアを開けてわたしに呼びかける。想像したのとまったく同じタイミングで扉が開いた。
「セラフィア!」
無邪気な笑顔、けれどどこか大人びて落ち着いた声。その声音と表情が演技かもしれない――今日、研究所で保護している一人のイモゥトゥと面会してからそんな疑惑に囚われている。
――ヘイ、ラァラ♪ あなたの愛をわたしのもとに。わたしの愛はあなたのもとに♪
ローサンヌ広場にパレードが到着したのか、歌声がいっそう大きく聞こえてきた。
――あなたのその手でこの盃を、邪神の口におやりなさい♪ 邪神の奪ったあまたの愛を、さあラァラ♪ あなたのその手で邪神の口に♪
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