第31話 亀兎、黙っていられない。


 俺が慌てて食堂のドアを開けると、何故か皇太子殿下が壁際まで追い詰められていた。



「皇太子殿下! 如何なさいましたか?」



 俺の後ろにいたミズキは、俺を自分の背中に隠して皇太子殿下に近づいた。食堂にいるはずの侍女長さんの姿はない。けれど皇太子殿下の声が聞えたらしくキッチンから顔を覗かせた。


 三人分の視線を浴びた皇太子殿下は怯えた様子で壁際で小さく縮こまったまま。皇太子殿下が逃げた方と反対側を辿るように視線をずらしていくと、そこには水溜まりができていた。



「殿下、まさか……」



 俺が言おうとした言葉はミズキが俺の口を手で塞いだことで遮られた。もごもごしながらも水溜まりの辺りを観察していると、隣にコップが倒れていることに気が付いた。



「なんだ、も、ふがっ……」



 手が離れた隙に呼吸をしてから話そうとしたら、また口を塞がれた。不服だけど、ミズキがそうして欲しいなら黙る。



「侍女長、すぐに拭いて差し上げて」


「かしこまりました」



 侍女長さんはキッチンからタオルを持ってくると、濡れた床を綺麗に拭いてコップを片付ける。それでようやくホッとしたらしい皇太子殿下は少し恥ずかしそうにしながら前髪を手で払った。


 その袖が濡れていることに気が付いて、ポケットに入っていたハンカチを差し出した。皇太子殿下はおずおずとそれを受け取って袖を拭った。



「騒いで申し訳ない。如何せん濡れることが苦手なんだ。ハンカチは洗って返そう」


「うさぎ族には多いですから、お気になさる必要はありません」


「ああ。風呂に入る個体も珍しいからな」


「えっ、き、ふがっ……」



 また口を塞がれた。今のは塞いでくれて助かった。思わず言いかけたけど、風呂に入るかどうかは国柄とか文化によるのかもしれないし。



「宰相は風呂好きだったね」


「そうですね。昔から水を被ることには慣れていますから」


「その言葉には闇を感じるが。まあ良い。カメト殿は風呂は好きか?」



 聞かれて答える前に、ミズキを窺う。口を塞がれることはなさそうだ。



「好きな方だと思います。獣人化を解いていても水は好きですし」


「そうなんだな」



 皇太子殿下は興味深そうに笑うと、椅子に座り直した。俺もミズキに促されて食卓につく。侍女長さんがスープやサラダを運び込んでくれた。けれど主食がない。明らかに底がぽっかり空いている。



「あの、侍女長さん」



 声を掛けると、侍女長さんは小さく微笑みながら飲み物を用意し始めた。そしてその時、玄関の方から声が聞えた。



「俺が行ってきます」


「いや、私が行きましょう」


「わざわざ宰相に行かせるわけにはいきません」



 立ち上がろうとしたミズキを押し留めると、不満そうな顔をされた。けれど皇太子殿下の方を見ると諦めたように頷いてくれた。皇太子殿下の相手を自分がするべきだと考えたのか、俺と皇太子殿下を二人で話させたくないのか。それは分からないけど。


 食堂を出て玄関に向かうと、深紅の瞳のパン屋の少年が立っていた。その手には今日も籠があって、布からフランスパンらしきものが顔を覗かせている。



「補佐さん!」


「こんにちは」



 初めて会った時はあんなにも嫌悪に満ちた視線を向けられたのに、今日は輝く瞳を見せてくれて凄く嬉しい。



「注文してくれたパンを届けに来ました」


「ありがとうございます」



 そういえば、何かと忙しくて少年の家にパンを買いに行けていなかった。こうやって配達してもらえるとあの美味しいパンを忙しくても食べられて嬉しいけれど、あのパン屋に入った瞬間の小麦の香りに包まれる感覚を味わいたいと思った。



「あの、補佐さんって外国の言葉を話せますか?」


「え?」



 突然の質問に驚いて聞き返す。少年は困ったように、そして恥ずかしそうに瞳を伏せてしまった。



「話せますよ。何かあったのですか?」


「その、去年他国の使節がお店に来たときに接客に困ったみたいなんです。だから今年は困らないように、勉強したいんです」



 少年はもじもじしながらも、きちんと話してくれた。とはいえ俺に教えるなんてことはできない。言語が分かるだけの俺は、彼に何ができるんだろう。


 そう思ったとき、ふとさっきの話を思い出した。通訳の育成機関。もしもそこが民にも広く開放されたら。自由な交易や商売が行える未来があるかもしれない。



「俺が教えるのは難しいですけど、一つ手があるかもしれません」


「本当?」


「はい。あなたが学べるように、手を尽くしてみます」


「ありがとうございます!」



 顔を上げた少年の顔は輝いている。彼の笑顔が続いていくように、俺が頑張らないと。大きく手を振って帰っていく背中を見送って、たくさんパンが詰まった籠を持って食堂に戻った。



「お待たせしました。侍女長さん、これ、お願いします」


「はい、いただきますね」



 籠を侍女長さんに手渡す俺に、皇太子殿下の視線が突き刺さる。



「カメト殿の知り合いを通訳にしたいのですか?」



 話が聞えていたのか。睨むような疑いの籠った視線。俺は皇太子殿下に首を振って返した。


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