第30話 亀兎、振り回す。


 翌日、ミズキは森の見回りの後に国王陛下へ奏上に向かった。俺は今日も書斎で他国の書物を読み漁っていた。



「カメト」



 ミズキの声に意識が現実に戻された。思いの外早く帰ってきたなと思って窓の外を見ると、いつの間にか太陽がてっぺんまで昇っていた。朝からずっと書物に熱中していたせいか全く気が付いていなかった。けれど気が付いてみればお腹が空いた。



「おかえりなさい。だいぶお疲れみたいだね」



 ミズキは朝食を取っていたときと比べてげんなりした顔をしていた。



「ああ、正直疲れたな。だが国王陛下からは交易の必要性と通訳育成について良い返事をいただけた。勅命として自由交易の解禁に向けた委員会の設立と、通訳の育成機関の設立を許可していただいた」


「ありがとうございます」



 これまでの統計によれば、勅命を発布されたことは一年以内に土台固めがされている例が多い。これは洪水被害を早く抑えるための大きな一歩だ。



「元はと言えばカメトのおかげだ。それとそのことで一つ。その委員会と設立の実行委員に任じられた」


「え?」



 皇太子殿下と聞いて、背筋が凍った。国王陛下は威厳と威圧感こそあれど懸命な方に思える。けれど皇太子殿下といえばあのうさぎだ。嫌な印象しかない。



「しかもそれを盾にして、この屋敷に皇太子殿下がいらっしゃっている。昼食を召し上がりたいらしくてな。今は食堂にご案内して侍女長に相手をしてもらっているが、カメトも着替えて来てもらいたい」



 ミズキはそう言いながら顔を歪めている。一番疲れたのは皇太子殿下の相手だったのだろうな。その仕事を宰相であるミズキがやらなければいけないなら、俺はそれを支えるのが仕事だ。


 俺は頷いて、着替えるために一度自分の寝室に向かおうとした。けれどミズキとすれ違う瞬間、グッと腕を掴まれて止められた。ミズキの顔を見上げると、ミズキは怒ったような拗ねたような微妙な顔をしていた。



「とはいえ、だ」



 言葉を切って言うべきか迷っているようなミズキ。その若草色の瞳をジッと見つめると、ミズキははぁっと小さく息を吐いた。



「皇太子殿下のお相手は私がする。カメトはなるべく距離をとっておいてくれ」



 あんなことがあったから心配してくれているのだろう。でも、俺は宰相補佐だ。



「俺も話すよ。そもそも今回の提案をしたのは俺だし、それに」


「嫌だ」



 ミズキは俺の話を遮った。そして情けない顔で耳を垂らして力強く首を振った。どこか子どもっぽいその仕草が可愛らしいけれど、その真意が分からなくて首を傾げた。



「宰相は私だ。私が話す」


「それは、俺が頼りないってこと?」



 ミズキは俺の質問にグッと唇を噛んだ。悲し気に伏せられた瞳に、悲しいのは俺の方だと思ってしまう。だけどそんなことを言ってはいけないと理性が働いた。


 お互いに何も言わない時間が続く。侍女長さんに皇太子殿下のお相手を任せていることを考えると、早く着替えて食堂に向かうべきだろう。



「ミズキ、とりあえず俺は着替えてくる。ミズキが嫌ならなるべく皇太子殿下とは話さないようにするから」



 俺はそれだけ言って書斎を出た。ミズキの顔は見られない。傷ついた顔をしているかもしれないと思うと、見られなかった。


 寝室で手早く着替えを済ませて食堂に向かおうとすると、寝室を出たところにミズキが立っていた。そのまま寝室に押し戻されて、ドアを後ろ手に閉められた。



「侍女長さん一人に皇太子殿下のお相手を任せても良いの?」



 言ってしまってから、少し責めるような言い方になってしまったことを後悔した。けれど硬い表情をしているミズキは何か言ってくれそうもない。時間だけが過ぎていくのは侍女長さんに申し訳ないけれど、ミズキが何か言いたいことがあるなら聞くべきかと思い直した。



「カメト」


「うん」


「私は、カメトを信頼している。決して、カメトが皇太子殿下に何かしてしまうとは思っていない。ただ、皇太子殿下とカメトが話すところを見たくない」


「ん?」



 どういうことだろうと首を傾げると、ミズキは珍しく荒々しく頭を掻いた。



「私が、嫌なんだ。私は皇太子殿下に勝てる力がない。だけど婚姻関係にあるわけでもないならとカメトを奪われることは、耐えられない。前のように引いてくれる確証がないのに、不用意に近づかせたくない」



 子どものわがままのような口ぶり。そこには明らかな嫉妬と焦りが見えた。


 俺がはっきりしないせいでミズキを不安にさせている申し訳なさと、ミズキにこれほどまでに愛されている喜び。沸き上がってきたそれをグッと心の奥に押し込めて、力強く握りしめられたミズキの手を取った。



「分かった。話してくれてありがとう」


「カメト。なんというか、すまない」



 シュンと肩を竦めたミズキの手を開かせると、俺は自分の指をミズキの長い指に絡めた。指がペンだこに触れた。ミズキの努力の証。



「その気持ちが嬉しいって言ったら?」


「え?」



 ポカンと口を開けているミズキから一歩離れて、ニッと笑ってみせた。



「カメト、それはどういう……」


「ああ、そろそろ行かないとー」



 棒読みで言いながら、困惑した顔のミズキの隣をすり抜けて食堂に向かう。しばらくして追いかけてきたミズキをはぐらかしながら歩くと、食堂から男の叫び声が聞こえた。



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