第28話 亀兎、気が付いてしまう。
帰宅したミズキがノートを読む間も着々と書物を読み進める。学生時代は丸一日ずっと本を読むこともあったけれど、社会人になってからはそんなことをしていられる余裕はなかった。そのブランクのせいか、年のせいか。夕方には頭と腰が悲鳴を上げた。
「失礼します。坊ちゃま、カメト様、お夕食の準備ができました」
「待ってました!」
フルーティな香りを纏った侍女長さんが書斎にやってきた。思わずガタンッと音を立てて立ち上がると、侍女長さんに笑われてしまった。ちょっと恥ずかしい。
「ふふっ、カメト様、食堂へどうぞ。お坊ちゃまはいかがいたしますか?」
「うーん、どうしようか」
ミズキはノートをジッと見つめたまま考える顔になる。だけどこの顔はご飯を食べるか悩んでいるというより、ノートの内容に悩んでいる。多分話はほとんど頭に入っていない。ミズキは賢いけれど、案外不器用だから。
集中したいタイミングを邪魔したら悪いけど、ご飯を食べないと頭も働かなくなる。せっかくなら温かくて新鮮な美味しいご飯を食べて欲しい。
「ミズキ」
悪いとはほんのちょっと、気持ちばかり、スズメの涙くらい思いながらノートの上に手を置いた。ミズキは俺の声も認識できていなかったのか、肩をビクリと跳ねさせた。
「ご飯、一緒に食べよう?」
「カメト……分かった。行こう」
ミズキは一瞬目を見開くと柔らかく微笑んで、ノートを閉じた。すぐに立ち上がって、侍女長さんが促すままに食堂に向かう。
思いの外素直に行く気になってくれて良かった。そもそも食べないという選択肢を与えないために誘うような言い方をしたわけだけど。とはいえ少し、強引だったかもしれない。
「ミズキ、ごめん」
「何がだ?」
背中に声を掛けると、ミズキは振り向いて立ち止まってくれた。やっぱりちょっと申し訳なくて、ミズキの顔を見上げることができない。視線の先に見えるのはミズキの宰相の衣装についているエメラルドの装飾だ
「集中してるときに声を掛けちゃって。そのまま続けたいタイミングだったかもしれないなと思って」
「そうだな。続けてやりたい気持ちがなかったわけではない」
「うっ」
自分でやっておきながら、今更後悔に襲われているなんて馬鹿な話だ。視線が地面に落ちる。ミズキの身体が心配だったわけだけど、余計なお世話とか、有難迷惑とか。日本にはそういう言葉があるわけで。そう思われていてもおかしくない。
「でも、仕事とカメトとの食事。それは比べるまでもなくカメトとの食事を大切にしたいと思った」
ミズキの言葉にパッと顔を上げると、ミズキは困ったように笑っていた。俺の言葉とか仕草がミズキを困らせて、思ってもいないことを言わせてしまったのかもしれない。
「民の平和を守る仕事ももちろん大事だ。だが、カメトとの時間も大切にしたいと思ってしまった。カメトと出会うまでは誰かとの時間なんて考えたこともなかったんだがな。こんなことでは宰相失格かもしれないな」
ミズキは困り顔のままそう言うと、肩を竦めた。ミズキは本当に困っていることをいっただけ。それは顔を見れば分かる。だけどミズキが俺をどれだけ大切に思ってくれているのかに聞こえて仕方がない。
恥ずかしいけど、自惚れても良いくらい大切にされている。それを感じただけで胸が温かくて、俺も大切にしたいと思う。
「自分が大切にしたいものを大切にできない人の方が、民の心が分からなくて民を真の意味では守れないんじゃない?」
「そういう考え方もあるんだな」
「少なくとも、俺はミズキが俺との時間を大切にしたいと思ってくれていることが分かって、幸せだと思ったよ」
ミズキは一瞬目を見開いたけれど、すぐにはにかむように笑った。そしておもむろに俺の手を取る。驚きすぎて声が出ない。
「カメトが幸せだと思ってくれるなら、これからもカメトとの時間を大切にしよう。もっと、言葉を尽くそう」
蕩けたはちみつのような瞳と視線がぶつかる。その視線に絡めとられたみたいに視線を逸らせない。身動きも取れない。ただ手を繋がれているだけ。だけどその手を離したくない。
ああ、俺はミズキの身体を心配するふりをしていただけなのかもしれない。
逸らそうと思えば逸らせる視線。振り払おうと思えば振り払える手。その答えは、俺が視線を逸らしたくなくて、手を繋いでいたいから。俺がミズキと食事をしたいから。一緒にいたいから。
ずっとミズキの気持ちに対して自分の答えが出せないなんて言ってはぐらかしていたのに。気が付いてしまえば全ての答えは単純なものだ。
ミズキに愛されることが嬉しくて、欲してしまう。だけど俺の中の愛されたい気持ちが露になったとき、ミズキが俺から興味を失くす未来が怖い。ミズキが俺を心の底から大切に思ってくれていることを知っている分、失いたくない。それなら追いかけ続けていて欲しい。
我ながら強欲で、我儘で、必死だ。これを恋と名付けてしまうのなら、恋とは危ういものだ。だけどこれはもう、恋なんだと思う。
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