第26話 亀兎、自分と向き合う。


 俺は獣人化してミズキと皇太子殿下の間に立った。足が震えているけれど、ミズキが俺を守ろうとしてくれたんだ。俺もミズキを守りたい。



「この国では婚姻にまつわる何においても双方の合意が必要である。それが法です。私は先ほど、あなたを受け入れたいとは思いませんでした。皇太子殿下が直々に法を犯すおつもりですか?」


「ほう?」



 皇太子殿下は口元を緩めると、ニッと弧を描いて微笑んだ。



「我にはカメト殿が拒んだようには思えなかったのですがね」


「それは、怖くて動けなかっただけです」


「なるほどね」



 俺の返答に、皇太子殿下はただただ愉快そうに笑う。何を考えているのか読めなくて身体に力が入る。けれど背中に温かい手が触れて、力がフッと抜けた。



「皇太子殿下、お戯れもほどほどにお願いいたします」


「そうだね」



 二人の会話の意味が分からなくてミズキを振り向くと、ミズキは小さく肩を竦めてみせた。



「カメト殿。宰相が来た時点で我は其方に手を出すつもりなど失せた。其方らがお互いのために必死になる姿が面白くてな。つい揶揄ってしまった」



 つまりミズキが来なければ食べられていたということか。



「皇太子殿下は揶揄うときに笑いが抑えられませんから。すぐに気が付きましたよ」


「その割には宰相も必死だったではないか」


「当然です。たとえ相手が皇太子殿下であっても、カメトを譲る気はありませんので」



 ミズキの言葉に、皇太子殿下はまた笑い出す。何が可笑しいのかと突っ込みたくもなるけれど、それ以上にミズキの言葉を真正面から浴びて心臓がうるさい。さっき一瞬でもミズキの気持ちを疑った自分が恥ずかしい。



「此度は良いものを見させてもらった。カメト殿、もしも宰相に飽きて我の元に来たくなったらいつでも言うが良い」



 皇太子殿下はそう言うと、衣装の裾を翻して図書館を出て行った。まだ愉快そうに笑っている声が聞えなくなると、ようやく一息つくことができた。ミズキも肩の力が抜けたようで、長く息を吐いた。



「ミズキ、助けに来てくれてありがとう」


「いや、遅くなって申し訳なかった。なあ、抱き締めて良いか?」


「お、お願いします……」


「なんで敬語なんだ」



 ミズキは笑いながらゆったりと俺に近づいてくると、腕を広げて俺を抱きすくめた。その温かさにホッとする。その息に身体がゾクゾクと心地良く震える。



「カメト、もしかしてここ、舐められた?」


「うわっ」



 さっき皇太子殿下に舐められたところを的確にミズキの爪が滑る。それがくすぐったくて驚いてしまった。聞かれたことは正しいわけだから頷くと、ミズキは小さく舌打ちをした。


 そして爪でなぞったそこを、上書きでもするかのように舌でなぞる。それを快感として拾った俺の身体は、抜き取られたかのように力が入らなくなった。



「おっと」



 ミズキに抱き留められて、その身体に身を預ける。森と太陽の香りに似たミズキ自身の香りが鼻先を掠める。その香りに誘発されたのか、涙が溜まる。必死に堪えようとしたのに、ミズキの手が促すように俺の背中を上下する。



「カメト、ごめん。怖かったよな。そんなときに、ごめん」


「こわ、かった」



 気持ちを口に出すと、心の中にあった感情が心の奥の方から押し出されてきた。さっき感じた恐怖。暴かれる恐怖よりも、ミズキが自分を見放すことを想像して怖かった。それが俺の妄想であったことが分かったから、涙が出た。



「ミズキが、来てくれて、ホッとした」



 涙に邪魔されたけれど、その涙が溢れたのはその感情が原因。ミズキの言葉に嘘がないこと、ミズキは俺を大切にしてくれること。それが分かって、安心した。


 涙を拭って、呼吸を整える。伝えたい。俺の気持ちを。そして、俺の覚悟を。


 俺は足を踏ん張ってどうにか一人で立つ。ミズキはそれを心配そうな顔で支えてくれた。本当は身を委ねていたい。だけどこれは目を見て伝えたい。



「ミズキ、俺はミズキに大切にされることが嬉しい。安心する」



 ミズキは戸惑ったようにぺを瞬かせたけれど、すぐに頷いてくれた。



「皇太子殿下に触れられたら怖かったし、気持ち悪かった。でも、ミズキはそうじゃない。むしろ、嬉しい」


「それは……」


「ミズキが俺を大切にしてくれることが嬉しくて、俺も返したい気持ちもある」



 ミズキの言葉を遮って俺は続ける。伝えきらないといけない。



「それが、ミズキと同じ気持ちだって言って良いのかは、まだ自信がない。だってこんな感情、初めてだから」



 分からないものを断言はできない。ミズキは俺の言葉に少し残念そうな、困ったような顔をした。



「そんな顔を見ると、俺も苦しくなる。こういう感情に恋とか愛とか、そういう名前を付けたい。そう思ってる。ミズキじゃないと嫌だって、思ってる」


「カメト……」



 ミズキの嬉しそうな顔。その顔を見ると、胸が温かくなる。



「曖昧なことしか言えなくてごめん。でも、その分この間の話については、はっきりさせる。俺はミズキが宰相でなくなってもこの国のために生きる。この命ある限り、ミズキが大切にしているこの国をより良いものにするために力を尽くす。そう誓う」



 俺は跪いて、ミズキの手の甲にキスを落とした。



「だから、俺をこれからもミズキの傍に置いてください」



 若草色の瞳と視線が絡む。俺の前に屈んだミズキは、泣きそうな顔で笑うと、深く頷いた。そして俺の手を引いて抱き寄せると、俺の頬に、喉に、そして鼻の先にキスを落とした。


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