第25話 亀兎、震える。


 皇太子殿下は椅子に腰かけると、長い足を組んで机に頬杖をついた。その前でどうしたら良いか分からずに立ちすくむ俺。


 俺も座った方が良いのかと思ったけれど、皇太子殿下の品定めするような意地の悪い視線に捕らわれた。動くなとは言われていないし、物理的には捕まっていない。だけど動きにくい。



「あ、あの」


「ん?」


「視線が、その」


「ああ、すまないね」



 皇太子殿下はジロジロと舐め回すように動かしていた視線を俺の目の方に向けた。謝ってくれたけど、そんな顔はしていない。



「烏のような毛並みと小さな顔に大きく輝くオニキスのような黒い瞳。幼い顔立ちに見えるが、カメト殿はおいくつで?」


「えっと、二十五歳です」


「我より年上であったか。それにしても、二十五歳とは長生きなものだね」


「ありがとうございます?」



 どう反応したら良いのか分からない。品定めされている気もするけれど、その言葉に何か意味があるようにも思えない。不思議で、背筋がぞわぞわする。



「しかし、これだけ可愛らしければ良いよね」


「はい?」



 また訳が分からない、何の脈絡もない話。皇太子殿下はまた上から下まで舐め回すように俺を見てくる。本当に、ミズキはいつ帰ってきてくれるんだろう。居心地の悪さに耐え難い。



「うむ、気に入ったよ」



 皇太子殿下はそう言うと、パッと椅子から立ち上がった。そして俺の方に歩いてくる。何やら嫌な笑みを浮かべている皇太子殿下。どこかの誰かに似たようなことをされた記憶があるな。


 なんて現実逃避している間に、あっという間に机と皇太子殿下の間に挟まれた。机に手をついて、どうにかバランスを取る。すっごいピンチな気がする。でもこれ、逃げたら不敬罪とかない? ミズキに迷惑掛けたりとか、ない?



「カメト殿」



 キャラメルのような声がまとわりつくように耳に落とされる。思わず腕に鳥肌が立って逃げ腰になってしまう。亀にも鳥肌ってあるのかな。



「ふふっ、その反応も可愛らしいね。ますます気に入ったよ。カメト殿、我の後宮へ来ると良い」


「こうきゅう……」



 高い給料、硬いボール、光の球、公的な休み。さて、皇太子殿下がおっしゃった〝こうきゅう〟はどれでしょう。



「なに、カメト殿はそこで健やかに生きていてくれさえすれば良いんだよ。仕事はそれだけだからね」



 その感じ、考えたくもないけど後宮だったりするのかな。しかも管理職じゃないやつ。いやいや、まさかそんな。男の俺が、ねえ。



「たくさん可愛がってあげるからね」



 あー、はい。そうなんですね。分かった、とりあえず、言いたいことは分かった。


 皇太子殿下の手が俺の頬に触れる。状況としては凄くデジャブ。だけど今の状況は受け入れ難い。本能が逃げろと警鐘を鳴らしている。



「いや、あの、宰相補佐の仕事がありますので」


「これまで現宰相は一人で職務をこなしていた。問題はないだろう」



 少しだけ保たれていた距離を詰められる。身体を密着されて、足の間に膝を差し込まれる。皇太子殿下の荒くなった息が耳にかかる。本格的な悪寒に身体が震える。突き飛ばして逃げ出したい。でも、相手は皇太子殿下だ。


 俺のせいでミズキに迷惑が掛かることだけは避けなければいけない。そう思うだけで身体が動かない。怖い。気持ち悪い。嫌だ。


 他の誰でもない、ミズキに助けて欲しい。でもミズキが助けてくれても、皇太子殿下に対する不敬を責められるかもしれない。それとも、この状況を見たミズキが目を逸らすかもしれない。それが保身のためなら我慢する。


 でも、ミズキに心根ではどうでも良いと思われていたなら。考えるだけで怖い。見放されることが怖い。思わせぶりに、真剣な瞳で告げられた言葉が全て嘘だったときが怖い。


 このまま流されてしまおうか。その方が良い気がしてくる。ダメな気もするけど、もう分からない。首筋を這う生温い感触に震える。鳥肌が立つ。


 肘の力が抜けた瞬間、支えがなくなった身体は机に打ち付けられた。静かな図書館に鈍い音が響いた。逃げたい。ここから逃げるには、この状況から逃げるには。



「カメト!」



 俺が獣人化を解いた瞬間、焦ったように名前を呼ばれた。低く響く落ち着く声。ウミガメの姿になった俺の目から涙が零れて床に落ちた。


 俺の元に駆けつけてくれたミズキは、俺の甲羅に触れると慈しむようにそっと撫でてくれた。そして床にできた小さな水溜まりに目を留めると、その若草色の瞳で冷ややかに皇太子殿下を睨みつけた。


 当の皇太子殿下は俺の変身に驚いたのか、飛び退いて目を見開いたまま固まっていた。けれどミズキからの視線に気が付くと、両手を挙げてヘラリと笑った。



「宰相、その目は何かな?」


「失礼ながら皇太子殿下。私の部下に何をしたのですか?」


「何って、後宮に誘っていただけだよ」


「彼の意志ではなく既成事実を作った上で、でしょうか?」



 皇太子殿下はそう指摘されると、荒くなっていた息を整えた。それでもなお余裕そうに笑う皇太子殿下にミズキは立ち塞がった。



「彼は私の大切な相手です。皇太子殿下といえど、手出ししないでいただきたい」


「そのようだね。常に冷静沈着な宰相が取り乱すほど、だものね。でもまだ婚姻はしていないはずだ。そんな報告は聞いていない。それなら我にもカメト殿を伴侶とする権利はあると思うが?」



 皇太子殿下の言葉に、ミズキは言葉に詰まって俯いた。悔しそうに歪んだ表情をしたから見上げる。この表情が俺のためだと思うと、胸が温かくなって勇気が湧いてきた。俺も戦わないと。


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