第17話 亀兎、のぼせる。


 目を覚ますと、ミズキの寝顔のドアップが視界に飛び込んできた。思わず叫びそうになって、慌てて口を手で塞ごいで声を押し殺した。


 つもりだった。


 現実には声なんて出なくて、口を押えようと動かした左ヒレがミズキの頭に直撃した。ミズキは驚くよりも先に呻き声を上げて後ろに倒れ込んだ。俺は慌てて助け起こすために獣人化して、手を差し出した。頭がまだ少しクラクラするけれど、そんなことは言っていられない。



「ミズキ、ごめん! 俺、びっくりして」


「いや、まあ。元気そうで何よ、り、だ」



 目を開けて俺を見上げたミズキはピシッと固まった。何かあったかと思って自分の身体を見ると、何も着ていない。慌てて布団に潜り込んで考えを巡らせる。


 そうだ、獣人化を解いたときに何も着ていなかったから。俺は顔だけ覗かせて辺りを見回す。宰相補佐の衣装は見当たらなくて、壁にスーツが掛けられているのを見つけた。下着がないのが痛いけど、背に腹は代えられない。



「ごめん、ちょっと目を閉じててもらって良い? 服、着るから」


「え、ああ……いや、私の部屋着を貸そう。ちょっと、あー、布団に潜ったまま、待っていてくれ」



 俺がスーツを指差すと、一瞬納得してくれたミズキが首を振った。確かにスーツだと横にはなれないし、部屋着を貸してもらえるなら有難い。


 素直に布団に潜って待っていると、自分の寝室に消えて行ったミズキが服を手に戻ってきた。



「一応下着は未使用のものを持ってきたから使ってくれ。私は隣で待っているから、着替え終わったら呼んでくれ」


「ありがとう」



 ミズキが部屋を出て行ったのを確認して、俺は布団から抜け出した。とりあえず下着だけ着て、ベッドから足を降ろす。立ち上がってズボンを履こうとした瞬間、クラリと視界が揺れて地面と友達になった。


 この間も友達になったけれど、アスファルトよりもカーペットの方が当然のように俺を受け止めてくれた。これはもっと仲良くなれそう、なんて考えている場合じゃない。ベッドに手をついて身体を持ち上げようともがく。腕に力が入らない。



「おい、凄い音がしたが大丈夫か?」



 ノック音がして、隣の部屋からミズキのくぐもった声が聞える。今はもう恥ずかしいとか言っていられない状況。俺はベッドの上からトレーナーだけ取り上げて、何とか頭から被った。ミズキの方が身体が大きいのか、悔しいくらいぶかぶか。


 下着の裾まで完全に隠してもらえるくらいのぶかぶか。でもだけど。悔しいけど今はこのぶかぶか感に助けられている。それがさらに悔しくなる。



「ごめん、助けてもらって良い?」


「分かった。入るぞ」



 部屋に入ってきたミズキは俺の姿を見て息を飲んだ。こんな姿で申し訳ない。俺は今、トレーナーで彼シャツ状態を生み出しているわけで。好意がある相手とはいえ、男のこの姿にはロマンも何もないだろう。



「足にも腕にも力が入らなくて。ベッドに腰かける体勢になるように支えてもらって良いかな?」


「あ、ああ」



 挙動不審なミズキがそろそろと俺の方に近づいてくる。不自然な動きだと思いながらも、ミズキに脇に手を入れられて抱え上げられた。赤ちゃんに高い高いするときの体勢。恥ずかしさは丸めて投げ捨てる他ない。


 それに何より、ミズキの耳が目の前に来るような体勢になったおかげでその耳が赤らんでいることに気が付いてしまった。そこでようやく自分の考えの甘さに気づかされる。



「ミズキ、ありがとうね」



 ベッドに腰かける体勢になると、俺は何も気が付かなかったふりをしてお礼を言う。ミズキは俺の方を見ない。それに寂しさを感じつつもホッとした。ズボンを手に取って、片足ずつ足を入れる。


 衣装は中華風なのに、部屋着はスウェットなことに今更ながら驚きながらも黙々と履く。最後、腰を上げてズボンを上まで上げようとしたことに気が付いてくれたミズキに支えられながらズボンをしっかり履いた。



「ありがとう、助かったよ」


「ああ、私は死にかけたよ」


「え?」


「え? いや、何でもない」



 ふぅっと深く息を吐いたミズキは、俺の頭に手を乗せる。どうかしたのかと見上げると、目が合った瞬間に目を逸らされた。照れているのかもしれないけど、これは気分が悪い。



「ミズキ、どうしたの?」



 目を覗き込める位置までわざわざ身体を傾ける。目が合うと、また目を逸らされる。こうなると追いかけっこの始まりだ。目が合っては逸らされる。つまりは鬼ごっこ、追いかけっこ、いたちごっこってことだ。どういうことだ?



「なあ、ミズキ……っと」



 うっかりバランスを崩すと、パッとミズキが支えてくれた。



「ご、ごめん」


「いや、大丈夫だ。それより少し休め」


「うん」



 ミズキが手を貸してくれて、ベッドに横になる。ミズキは布団を掛けてくれて、それが済むと俺の頭を撫でた。



「私は隣の部屋にいるから、何かあれば呼んでくれ」



 そう言って去ろうとする。けれどすぐに足が止まった。俺が腕を掴んでしまったから。



「ご、ごめん。なんでもない」



 なんとなく寂しくなっただけ。忙しいミズキの手をこれ以上煩わせてはいけない。動いたときには考えなかったこと。だけどミズキの驚いた顔を見た瞬間にミズキが書き記した大量の日誌を思い出した。


 慌てて手を離すと、ミズキは天を仰いで大きく、深く息を吐いた。呆れられてしまっただろうかと不安になる。何を不安になっているのか分からない。ただのぼせただけ。風邪を引いたわけでもないのに。弱気になるなんて俺らしくない。



「カメトには敵わないな」



 ミズキは小さく呟くと、さっきまで座っていた椅子に座り直した。



「寝付くまではいてやる。だからそんな泣きそうな顔をするな」



 目元をなぞられて、そのまま温かい手で視界を塞がれる。もう片方の手は繋いでくれて、一気に安心感に包まれる。俺はそのまま暖かな夢に身を投じた。


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