第16話 亀兎、入浴する。


 俺が頭を洗って、身体を洗って。それを終えて湯船に肩まで浸かる。白濁色のお湯からは金木犀の香りがした。静かになるのを待っていた侍女長さんがゆらりと動いた。



「私は獣人化の能力を持たない両親の間に能力を持って生まれ、孤児院に預けられました。そこで一年間生活し成人を迎えました。その後はその孤児院で教師をしていましたが、三年前、その孤児院にお坊ちゃまがいらっしゃいました」



 侍女長さんの話を聞きながら、個人の呼び分けをどうしていたのか気になった。時事長さんはミズキのことをお坊ちゃまと、さっきの深紅の瞳の少年はパン屋の子と呼ばれていた。


 街の人たちの共通認識だったみたいだけど、誰が決めているのか。分からないことだらけだけど、今聞くことではないか。



「桃色のお耳としっぽ、緑色の瞳。真っ白な毛並みと紅い瞳が多いこの国では忌避されるものです。お坊ちゃまはそれをものともせず、お勉強に励まれました。私はお坊ちゃまの担当教師として一番傍におりました」



 街中で見かけるうさぎたちには真っ白なうさぎが多い。他の色のうさぎもいることにはいるけれど、本当にちらほらと見かける程度だ。



「お坊ちゃまは教師を目指しておられましたが、ご両親が狩猟で亡くなったと連絡を受けてからは復讐のために宰相を目指すようになりました。宰相の試験に合格してからも復讐心に燃えるお坊ちゃまを心配して、私は教師を辞してお坊ちゃまの侍女となりました」



 声を聞くだけでも侍女長さんがどれだけミズキの身を案じているか分かる。それに、ミズキも狩猟で両親を失っていたとは思わなかった。もしかすると、狩猟で家族を失ったうさぎたちを気に掛けていたのはそれが理由なのかもしれない。



「お坊ちゃまは友もおらず、家族もおらず。迫害の経験から他者を信用することもできず、私以外の侍女を置こうとはしませんでした。ですから私は、これまで一人でお坊ちゃまのお世話をして参りました。侍女長の任に就いてはおりますが、他の侍女がおりませんから長も何も、ありませんね」



 侍女長さんはあっけらかんと笑った。もはや自分の名をネタにしてすらいるようだ。



「カメト様には感謝しているのです。カメト様と一緒にいらっしゃる坊ちゃんはそれはもう楽しそうで。私以外の者と笑い合っていらっしゃることも、少々子どもっぽいお姿を見られることも。私はとても嬉しいのです」



 顔は見えない。だけど声の震えに気が付いた。俺はそれに気が付かないふりをして、鼻先までお湯に浸かった。


 しばらくぼんやりとお湯に浸かっていると、侍女長さんが静かに浴室を後にした。俺は鼻先をお湯から出すと、長く息を吐いた。腕もお湯から出してグイッと伸びをすると、後ろでガラガラとドアが開く音がした。侍女長さんが戻ってきたのかな。


 ぴょこぴょこと軽い足音が近づいてくる。おかしい。侍女長さんならこっちに入ってくるはずがない。ミズキならもっとどっしりした足音なはず。


 獣人化を解除して、息を大きく吸い込んでから静かにお湯に沈む。さっきウミガメになったから初めからウミガメに変身できた。この姿の方が長く呼吸を持たせることができる。


 そろりと視線を足音の方に向ける。小さな影。長い耳。うさぎではあるらしい。


 ジッと息を殺していると、うさぎはふわふわの泡で身体を洗い始めた。泡はどんどん泡立って、すっかりうさぎを覆いつくしてしまった。湯気と相まって全く姿が見えない。


 頭からしっぽの先、足の先まで一種類のボディソープで洗いつくしてしまうと、蛇口をひねって水で洗い流した。シャワーを使わなくても全身を流せてしまうから小さな身体は羨ましい。


 すっかりさっぱりしたうさぎ。その足は浴槽、つまり俺がいる方にやってくる。湯気が薄れてはっきりと姿が見えてくる。薄桃色の耳、若草色の瞳、お腹の真っ白なふさふさな毛並み。人型ではないとはいえ、覚えのある姿にお湯から顔を覗かせた。



「キーッ!」



 ミズキらしきうさぎは甲高く叫びながら飛び上った。俺だと知らせようと口を開くと、コポッという音と共に口にお湯が入ってきた。慌てて湯船から這い上がって口の中に入ったお湯を排水溝に流した。喉、痛い。



「ケホッ」


「おい、大丈夫か?」



 咳き込むように空気とお湯が抜けていくと、いつの間にか獣人化していたミズキが背中を擦ってくれる。甲羅だから全く意味はないけど、その気持ちが嬉しい。


 お礼を言いたくて俺も獣人化しようかと思った瞬間、変身が始まる。けれど振り向きざまに見えてしまったミズキの均整の取れた腹筋に、慌てて獣人化を解除した。



「ん? どうした?」



 ミズキは俺の顔を覗き込んで来るけれど、その分大好物が近づいてきて心拍数が上がる。俺好みの二の腕。がっしりしているというより、むっちりした感じでしなやかなライン。


 めちゃくちゃ触りたい。堪能したい。


 マズい、変態的な煩悩をどうにかしなければ。そう、こういうときは素数か円周率を唱えると良いと聞く。


 えっと、素数は二、三、五、七、九? あれ、九って素数?


 ダメだ。円周率にしよう。三・一四一五九二六五三五八、えーっと、九、七、九三二三八……ダメだ。限界。文系かつ中学三年生で数学と縁を切った男の末路がこれだ。暗記は得意だったけど、興味がなければこんなもの。


 あれ、なんか頭クラクラしてないか?


 長湯をして普段は使わない頭を使ったからか、頭がクラクラする。亀ものぼせるなんて初めて知った。


 ぼんやり考え事をしていたら、急に視界がブラックアウトした。


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