第9話 亀兎、初めての感覚を知る。


 屋敷を案内してもらい終わると、ミズキの書斎に戻った。ミズキが作業の続きを始めたから、俺は本を読ませてもらった。タイトルは『子うさぎでも分かるラビアスの話』。国の仕組みや歴史、気候条件を学ぶにはこれが一番読みやすいらしい。


 国の仕組みは王政。さっきの人が現国王陛下で、皇太子が三人いる。結婚については婚姻届けのような書類を提出するわけではなくて、表札を貼りだすことで成立するらしい。反対に離婚は表札を外すだけ。面白いシステムだ。


 歴史はタートランドの跡地にこの国があること以外は難しくて理解が追い付かなかった。そもそも寿命が短すぎて国王がコロコロ変わるし、獣人化の能力を持って生まれる確率が低いから何人目の子どもが皇太子か考えるだけでもう頭がパンクする。


 気候条件は比較的穏やかだ。だけど数年に一度のペースで俺が目を覚ました森、みんなの森に流れる川で洪水が発生している。その度に街の住人と森の獣人化できないうさぎたちや他の動物たちが被害にあっているらしい。



「洪水か」


「洪水について気になるなら、本棚の上から三段目の本を読むと良い。全て洪水の記録だ。それ以前のものは書庫にあるが、とりあえずそれをどうぞ」



 俺の呟きを聞き逃さなかったミズキは、顔を上げて本棚を指差した。こっちに来ないでくれただけでもホッとする。ミズキがこっちに来たら俺が本棚とミズキにサンドイッチされる気しかしない。



「ありがとうございます」



 試しに一番新しそうな本を開いてみると、去年の洪水の被害規模がびっしりと書き込まれていた。水が襲った範囲や流された家があった場所だけじゃない。気候が分かるグラフや直前に報告された周囲の異変についても記されていた。



「こんなに細かく……」


「細かく調べた上で次の洪水の予兆を報告したり、対策を講じることも宰相の務めだからな」


「ということは、この本って」


「ああ、私たち宰相が代々書き溜めたものだ。今のところ分かっていることと言えばちょうど今のような暑い時期に近づく頃の発生が多いことと、被害が出やすい範囲くらいなものだ。予兆については未だに分からないことばかりだ」



 ミズキはため息を吐いてまた作業に戻る。俺は宰相補佐になるなら知っておきたいと、パラパラとページを捲った。雲がそびえ立っていた、鳥が森の奥へ飛び立った、なんて普段から注視していなければ気にも留めないようなことも記されている。


 歴代の宰相さんたちもその内容の濃さに差はあるけれど、毎日国の様子をよく観察していたらしい。森にもよく出向いていたようで少し驚いた。



「今日もこの調査のために森へ?」


「ああ。特に変化はなさそうだったが、明日も森に行くことになる。そのときはカメトも同行してくれ」


「分かった」



 ミズキは俺の返事を聞くとまた作業に戻った。俺も次の本を読もうと手をかけた。



「宴じゃー!」


「うわっ!」



 外から聞こえた大声に驚いた、ミズキの大声の方に俺は驚いた。ペンを持ったまま耳を塞いだせいで、真っ白な毛並みに真っ黒な線が付いている。



「ミズキ、大丈夫?」


「大丈夫じゃない。心臓が飛び出るくらいびっくりした」



 項垂れた頭を手で支える体勢になったミズキは、恨めしそうに窓の外を睨みつけた。よく見えなくてミズキがいる机の方まで近づく。ミズキの視線の先には大きなカラスのような鳥が空を旋回していた。



「あれは?」


「バーズ、鳥の国出身の者だな。能力持ちかまでは分からないが、他国まで聞こえるほどの大声を上げるとはなかなかなものだ。って、カメト!」



 不貞腐れたような声で教えてくれたミズキは俺の方を向いた瞬間に肩を跳ねさせて顔を赤くした。相手がミズキじゃなければ目の前に顔があったくらいで何を、と思ったかもしれない。けれどあれだけ迫られた後だから俺も意識せずにはいられない。


 すぐに離れよう。そう思ったのは嘘じゃない。だけど俺の行動一つで表情をコロコロと変えてくれるミズキの顔を見ていると、ほんの少しだけ悪戯心が湧いてくる。



「ミズキ、どうした?」



 平静を装って聞くと、ミズキは口を真一文字に結んで俺を睨みつけた。



「分かってるだろ。あ、自分から近づいて来たってことはもしかして。私とキスでもしたくなったか?」



 急にゆるりと口の端を持ち上げたミズキの表情には余裕が見える。だけど赤くなった耳は俺の目の前にあるんだ。気が付くなと言われる方が難しい。



「そうかもしれないな」



 ミズキは俺の返事に目を丸くして、そのまま固まって動かなくなってしまった。ちょっと揶揄い過ぎたかもしれないと思うけれど、俺に振り回されているミズキを見て気分が良くなった。


 支配欲が満たされたのか、それとも恋なのか。それは全く分からないけれど、堪らない愛おしさが込み上げてくる。



「何を笑っている」



 突然動いたミズキは、ムッとした顔を俺に近づけてくる。突然のことに身体が動かなかった俺の唇に、ミズキの柔らかい唇が短く触れた。小さなリップ音と共にそれが離れると、ミズキは恍惚とした目で俺を覗き込んできた。



「お望みのものだ」



 初めての感覚。ニヤリとしたり顔をしているミズキ。世界がキラキラして見える。



「キスって、こんなに柔らかいんだ」



 思わず呟くと、目の前でミズキが崩れ落ちた。



「かっわ」



 短くそう言って、ミズキは耳を抱えて蹲る。俺も初めてのキスでキャパオーバー。お互いに何も言えないまま時間が過ぎていった。


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