第2話

江戸では喧嘩が多くこんな人だかりは珍しいことではない。野次馬たちは、にやにやして「いいぞ!」「もっとやれ!」なんて言葉を飛ばす者もいる。

喜一は近くにいた野次馬の一人に聞いた。

「ちょいといいかい。ここら辺で“不老不死の男”がいるって聞いたんだが」

 痴話喧嘩の女は、張り手の後、地面に尻餅をついた男だけを残して、走り去っていった。喜一に話しかけられた男は、にやにや笑いをやめ、喜一の質問に目を瞬かせ、一人取り残されている男を指差して言った。

「あんたフーさんの客かい。ほら、すぐそこにいるじゃないか。おーい! フーさん客だよ!」

 野次馬の男は、地面に座りこんで呆然と走り去った女の方を見ている男に気軽に声をかけた。

「江戸で不老不死の男なんて、そこのフーさんしか知らないよ。数日前に戻ってきたのさ。ほら、話しかけてみな」

 野次馬の男がそう言いきるので、喜一は「どうも」と言って、その男に近づいていくが、男の雰囲気は、とても不老不死だなんて特別な存在には見えなかった。


年齢は喜一の少し上に見える三十前後。不潔感はそれほど感じないが、短い黒髪はところどころはねているし、よくある紺色の着物は、合わせが開きぎみでしわがよっている。たった今、女と揉めていてしわになったのかもしれないが、顔の無精髭を見るに普段からだらしない性格な印象を受ける。

(ただの不精男に見えるが、本当にこの男が不老不死の知恵者なのか?)

「取り込み中かい。ちょいとすまんね。“不老不死の男”を探しているんだがあんたで合ってるか」

 男は、ようやく喜一の方を見た。その男の瞳は、傷ついてるというよりは、疲れきって全ての光を呑みこんでしまう、黒い沼のように見えた。喜一はその瞳に一瞬ぞっとしたが、男はすぐに視線をそらし、「なんだ男か……」と呟いたあと、左頬を抑えていた手を離し、喜一に、見てみろと言わんばかりにその下を指差す。

男の左頬にはさっき女につけられた赤い手形がくっきり残っていた。それがすうっと消えていき、瞬きを二つする頃には普通の肌色になっていた。

 思わず見入った喜一に、男は何かを求めるように左手を差し出した。

「はい。見物料」

「は……はぁ?」

 別に喜一が見せてくれと頼んだものじゃない。突然の男の物言いに喜一は頭を後ろに引いた。男は気だるそうな目のまま、強気に言う。

「物珍しいもん見たでしょ。はい。俺が不老不死ですよ。どんな状況でも死にきらないし、傷の治りが人の四倍ほど速いんです。見物料。二両でいいよ。早く」

「あんた、不老不死なんていい力持ってるのに、一般人から金せびろうとすんのかい」

「痛みも苦しみもあるし、飢えもするんで。タダで見せ物にされるのもうっとおしいんでね。金を取ることに決めてるんですよ。まぁ女性ならタダでもいいですけど」

(おいおい、怪我の治りは確かに本物だが、いきなり感じの悪いやつだな)

仕方なく喜一が二両を支払うと、男はそれを懐にしまった。

そっけない男の態度に、喜一は心晴れしないが、まだ会ったばかりだ。喜一はできるだけ明るく会話を続ける。

「不老不死ってぇと、もっと長老とか仙人みてぇなのを想像したんだが、案外普通の男なんだな。さっきのは女房かい?」

「いえ、十年前にこの町にいた時に、入籍の約束をしたらしいんですけど、忘れてました。女の十年をなんだと思ってるのさ! ってね。いやぁ俺には一瞬なんですけどねぇ」

「最低だなあんた……」

 つい口にしてしまったが、この男に聞きたいことがあってきたのだと喜一は背を正して今日の本題に入る。

「俺は江戸で大工をやっている、喜一ってんだ。あんたのことはどう呼んだらいい」

「本名は忘れました。この辺の人にはフーさんとか、不死郎さんって呼ばれてますよ」

 喜一は今日会ったばかりで、いちおう特別な存在であろうこの男に、フーさんと呼ぶのも馴れ馴れしいかと思い、「不死郎さん」と呼ぶことにした。

「俺は大工で、今年で二年目。基礎はなれてきたもんだから、何か仕事に役立つ最新の技とか、いい道具屋でもいいから、教わりてぇと思って来た」

「なるほどね。いいですよ。はい」

「ん?」

「二十両。今最高に栄えてる江戸で大工やってんなら、儲かってるでしょう?」

「もちろん金は払うが……今度は前払いかい」

「こっちも商売でやってますから。情報を聞いた後で逃げられても面倒ですからね」

 やはり納得がいかない気分で、喜一が二十両を渡すと、男は満足したのか、二十両きっちり数えたあと、口笛のように息をひゅうっとはいてから、口元をにやりと曲げ、上機嫌そうになった。

「よし、じゃあまずは、最近京の町で流行っている柱の組み方から……。都の歴史は京の方が長いですから。先月仕入れた新鮮な情報があります」

 

不死郎の情報網は広く、遠く離れた九州のものから、江戸に最近できた道具屋の親子の話まであって、確かにこれは立派な情報屋だという他なかった。江戸ではまつりごとと、大きな事件以外はただの市民には知る機会がないから、町の職人たちにとっては他所の技術力が知るこの男はこの町にとってありがたい存在であろうことは、江戸二年目の喜一にもわかった。


「不死郎さん、あんたのことをただの芸人かもしれないと思ったが、いい話ばかりだったよ。すっかり感心した。次の仕事で今日の話を仲間にするのが楽しみだ」

 不死郎も知識の話は好きなのか、褒められるのは悪い気しないようで、満足げに鼻を鳴らす。それから意外にも謙虚に手を振った。

「いやあ職人さんがたのような、一途な仕事は性格上、俺にはできませんから。ぜひ頑張ってほしい思いもあるんですよ。大工なんて特に身を削るもんでしょうけど、あんたらが代を重ねて技術を高め続けてくれるから、人の暮らしは豊かになり続ける。あんたらは町の柱ですから」

 三百年の歴史を見てきた男にこんなふうに仕事を奨励されたら、喜一も心が弾む。

 (なんだ。長生きのしすぎで、すれちまってるのかと思ったが、案外いいところもあるんじゃねぇか)

 話が終わったころ、不死郎は懐から小銭袋を取り出すと、軽く振ってちゃんちゃんと中身を鳴らす。その中には、先ほど喜一が支払った二十二両が入っている。

「さてと、大金も手に入ったし、行きますか。あんたも来るかい?」

 突然の誘いに喜一は見当がつかず、小首を傾げる。

「どこに行くってんだい?」

「江戸で男が大金を手にしたら、行き先は決まってるでしょう」

 不死郎は今日一番の笑みを浮かべた。それは喜一のよくする快活なものではなく、黒く乾き気味の瞳をきらりと底光りさせた、たちの悪そうな笑みだった。


「賭博場ですよ」

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