Part.5 『轍を辿って』

『とある騎士の旅立ち』・上

 誓いの夜から三か月近くが経ち、事件の話題も風化すると、ベラングラーシェにはもとの安穏とした空気が戻ったが、人々の暮らしにはちょっとした変化もあった。


 とりあえず大きな変化として、リネー・アールベックが去ったあと、事件の裏で起きていた企ての責任を問われたイルジア・ザウアーが差配人の任を解かれ、新たにクライヴ・メルキンがその役に任命されたことがあげられる。

 クライヴは相変わらず農場の跡継ぎ問題に悩まされていたけれど、息子を一人失いかけた経験が彼の考えを変え、隣人や家族を悪事から守るために、村の運営に関わる決意をしたようだった。とはいえ本業は畑仕事だと言い張って、彼はたびたび畑に籠り、差配人の仕事があるときはわざわざ農場から領主館に通っている。


 それから、レムバン・メルキンとマーシャ・リオッカが結婚した。二人の新居は村と農場を結ぶ一本道の途中にある林道の脇に建てられて、それぞれが家業を続けている。約ひと月前にマーシャの月経が止まり、すでに親ばかのレムバンは生まれてくる子供が男女のどちらでもいいようにと、大量の名前を考えては酒場でそれを披露して、客にしつこく絡んでいた。


 酒場と言えば、コーバス・リストがよく顔を出すようになった。彼の人嫌いが治ったわけではなかったが、ケント・リオッカが彼を“終身名誉宴会長”という謎めいた役に任命し、酒場の客たちのあいだでは、コーバスの仏頂面を肴に酒を飲むのが流行っていた。なお、「嫌だったら無理しなくていいからね」というマーシャの言葉に、コーバスは「まぁ……」とまんざらでもない様子で答えている。


 イルジアは差配人の任を解かれた晩に失踪し、妻のサラ・ザウアーは王都に居る両親のもとに返された。領主館の使用人で古株のマリアンヌ・ソーヤーも同時期に姿を消したが、巷ではイルジアに着いて行ったのではないかと噂になった。


 ベラングラーシェの問題児、フロー・フェルダルとヴィクター・ドールは、友人だったラミロ・ザウアーの処刑と葬儀のあとすっかり大人しくなり、フローは鍛冶屋を、ヴィクターは靴屋の家業を継ぐために親への反発をやめ、言うことをよく聞いて、仕事に励んでいる。


 しかしいま、人々の注目をもっとも集めているのは、ラウダ・メルキンに関する変化であった。彼は事件のあと、ドニシエラ・モロー男爵に従者として選抜され、日々城砦に通って様々な教えを受けていた。


「常にフェイントを意識しろ! ほら、反応が遅いっ!」

「剣の動きだけに集中するなと何度も言った! 足運びが疎かになれば出遅れる!」

「どうしてそこで決め切らない! 慎重と臆病は違う! 死にたいのか!」


 この日、城砦の外郭門をくぐった先にある練兵場では、ドミニク・ボランとラウダ・メルキンの決闘試合が朝から行われていた。彼らはギャンベゾンのうえに鎖帷子を身に着けて、武器は刃を潰した鉄製の剣が使われた。


 会場には多くの兵士が集まっていたが、白熱する試合内容と、ラウダを叱咤激励するドニシエラ・モローの迫力に圧倒されて、口を開く者は一人もいなかった。


「強みを生かせ! その片手半剣バスタードソードのリーチはなんのためにある!」


 モローの声が耳から入って頭の中で鳴り、ラウダはドミニクから距離をとった。ドミニクは片手剣と盾を用いた守りの固いスタイルで、やや重たい片手半剣を何度打ち込んでも崩れないほど頑丈だった。


「焦るなよ、ラウダ! 無意味に思えるかもしれないが、盾うえからの一撃一撃は確実に効いている! お前の膂力は大したものだ、自信を持て!」


 ラウダは返事をする代わりに右上段に構えた剣を素早く引いて中段に構え、袈裟切りと見せかけた突きを放った。大型の剣はどうしても予備動作が大きくなるが、間合いが広いおかげで先手をとりに行きやすい。

 対するドミニクは初め、ラウダの上段の構えに合わせて盾をやや上目に構えていたが、剣の軌道を見て瞬時に正面をガードした。二人の剣と盾が衝突し、鈍い音が練兵場に響き渡った。


「相手の体勢が崩れたぞ!」と、モローが叫んだ。


 フェイントの甲斐あって、ドミニクは重たい突きの一撃を盾の芯でとらえることに失敗し、湾曲した盾の表面に沿って軌道を変えた片手半剣の威力で、左脇をわずかに開いた。そうなると盾が持ち上がり、対角線からの攻撃――つまりラウダから見て左下からの攻撃に対処が遅れる。


 ラウダは歯を食いしばり、重たい片手半剣の切っ先で半円を描くようにして左下段の構えを作りつつ、右足を滑らせて前に踏み込み、下半身を沈みこませて剣を振るった。

 ドミニクもその一撃を予想して守りを捨てると、右手に持った直剣を前に突き出した。彼の狙いは剣を握るラウダの手だったが、ラウダはぎりぎりで上体を逸らし、さらに深く身体を落として捻るようにこれを躱した。結果、ドミニクの剣はラウダの右肩すれすれを掠めて止まり、ラウダの剣はドミニクの右腰を打った。


「――そこまで!」


 モローが試合終了を宣言すると、会場がどっと沸いた。

 ドミニクは直剣を逆手に持ち替えて地面に突き刺すと、腰の痛みに顔を歪めながらも、地面に這いつくばって肩で息をしているラウダに手を差し伸べた。

 ラウダはぜいぜいと喘ぎながら聞き取れない感謝をして彼の手を握り返し、剣を地面に放置したままふらふらと立ち上がる。するとドミニクがラウダの腕を高々と掲げ、より盛大に観衆を沸かせた。


「二人とも、いい戦いだった」


 闘技場の柵を軽々と飛び越えて駆け付けたモローは、二人の肩を叩いて開口一番そう言った。


「特にラウダ、この数か月で見違えたな」

「モロー様のアドバイスには、明らかな偏りがありましたよね」と、ドミニクが冗談っぽく嫌味を言うと、兵の中から笑いが起こった。

「必要があればしたさ」


 モローは悪びれる様子もなくそう言ったが、賞賛も兼ねるその一言はドミニクを微かに赤面させた。


「そう、ですよ……」と、ようやくラウダが声をあげた。「鎧なし、アドバイスなしでやっと一本……なんですから」


 ドミニクは頷いたが、目には納得していないような表情が浮かんでいる。


「確かに、鎧の有無で変わることもあるにはある。だが、それでも私はこの試合に負けるつもりはなかった。きみは本当に強くなったよ」

「あ、ありがとうございます。お二方に色々と教えていただいたおかげです」


 事件のあと、文字や礼儀作法、剣術の指導に至るまで、ラウダは多くのことをモローとドミニクから学んだ。いまや彼らはラウダの上司というだけでなく、尊敬する師でもあった。


「これで、きみの旅立ちに必要な手引きはすべて終わった」と、モローは言った。「私も胸を張って送り出すことが出来る。よく頑張ったな」

「いよいよ、なんですね……」


 長いようで短い数か月を思い返し、ラウダは手のひらを見つめた。不安と別れを想う寂しさ、しかし待ちに待ったときが目の前に迫っていた。今日までのすべてが、無駄ではないと思えた。


「モロー様」と、彼は拳を握った。「俺がいまこうして前向きでいられるのは、あなたが変わる機会を与えてくださったからです。本当に……感謝してもしきれません」

「いや、感謝したいのはこちらだよ。きみのおかげで私も一歩、大願に近付ける」


 ありがとう、とモローは手を差し出した。ラウダはその手を握り返して微笑んだ。


「必ずお役に立ちます。出来ることなら、モロー様のように真偽を見抜く力を自在に操れるようになりたかったですが……。あれほどコツを教えていただいたのに、俺はまだ……」

「洞察のことだな」と、モローは頷いた。「あれは便利な技能だが、こだわるようなものでもない。きみにはもっと別の戦い方もあるしな」

「いえ、ですがその力があったからこそ、多くの命が救われました」

「まぁ、半数はそうだが……」

「……?」


 ラウダが首を傾げると、モローはドミニクと顔を見合わせた。


「やはりそうか。きみが旅立つ前に、一つ勘違いを正しておくよ」と、モローが声を潜めた。「私はだ。獣はさすがに専門外でね、きみがあの姿になってから、洞察力まったく機能していない」

「ぇ……えぇっ!」


 ラウダは素っ頓狂な声をあげると、慌てて口を塞いだ。


「そ、それじゃあ……」と、彼は囁くように言った。「スザンヌとクレアの話や、そのあとにした俺の呪いについての話は……」

「確証はなかった。でも、他人のため馬鹿正直にあんな姿を晒すきみだ。信じる根拠ならそれで十分だろ?」


 飄々と言ってのけられて、ラウダは致し方なしに乾いた声で笑った。


「失礼を承知で言いますが、どうかしてますよ……。無謀だとか、中央がどうだとか、全部あなたの言葉じゃなかったですか?」

「私は常識の枠に囚われない」

「そうやってすぐ屁理屈を……」

「慣れたほうが早い」と、ドミニクが諦めたように言った。「それより、彼女の成人式は正午からではなかったか? 準備の手伝いは良いのか」

「関わらせてくれないんですよ」


 ラウダは不満そうに答えた。


「喧嘩中か?」と、モローが食い気味に訊いた。

「なんで面白そうに言うんです。違いますよ。叔父さんたちが言うには『お前にはほかにやるべきことがある』って……主役でもないのに、なんだか落ち着かなくて」


 モローが朗らかに笑った。


「婚約者殿へのささやかな気遣いだろう。親の公認なんだ、堂々としていればいいじゃないか」

「ああ」と、ドミニクも腕を組んだ。「ここの片付けもこちらでやっておく、装備を外して、早く行ってやれ」

「だから……、落ち着かないって言ってるのに……」ラウダは唇を尖らせた。


 彼の肩に手を置いて、モローが少し堅苦しく言った。


「時間になったら迎えに行く。後腐れのないようにな」

「……はい」と、ラウダは俯き加減に頷いた。


◇◆◇


 しかしラウダはまっすぐ農場に戻らなかった。城砦内の馬繋場で大人しく干し草を食んでいたスリスリに、城砦で借りていた装備を脱いで身軽になった身体で跨ると、彼は小教会方面へと馬を走らせた。


 道中にすれ違う人々が彼を見る目は、事件以前と明らかに変わっていた。彼らのなかにはラウダを“従者様”と呼ぶ者もいて、彼はそれが妙に気恥ずかしかった。


 彼は小教会の敷地を迂回して、名無し通りに面した墓地の入り口で馬を降りると歩きでなかに入って行った。彼は迷いのない足取りで整然と並ぶ墓石のなかを抜け、ラミロ・ザウアーの墓前で足を止めた。そこには彼の思った通り、先客がいた。

 クレア・マギスンは傍らに立ったラウダを振り向きもせず、墓前に膝をついたまま低い声で言った。


「ここには来ないで下さいと、何回も言いましたよね」


 彼らはいわば、ベラングラーシェの光と影だった。この数か月で幸福を掴んだ者がいる一方で、不幸のどん底に沈んでしまった者もいる。ラウダは、そんな不幸な人間を生み出した責任の一端を背負っていた。


「帰ってください。そしてもう、ここには来ないでください」


 クレアは魂を凍り付かせた者の声色でラウダを突き放した。

 けれども彼は風の噂で知っていた。彼女はラミロが弔われてから毎日一人でここへ来て、生者と交わす言葉を失くした代わりに、死者と語らうようになったのだと。彼女が生きている者のためにその繊細な喉を使うのは、いまや凍り付いた魂が融けるほどの憎しみの炎が燃えたときだけだということを。


「俺は今日村を出るんだ。だから、もうしばらく来ないよ」

「そうですか。それはよかったです」

「でも今日は、きみに話があって来た」


 クレアは音もなく振り向いて、ほつれた黒髪の隙間から剣呑な瞳で彼を睨んだ。


「……あなたは、気を遣うこともできないのですか。それとも、人殺しには死者を悼む権利もないと、そういうことでしょうか」

「違う、俺はただ……」と、ラウダは唇を噛んだ。


 そして決然と言った。


「きみが、ラミロをどう思っていたのか聞きたくてここへ来たんだ」


 クレアは驚いた顔をして小さく口を開くと、また最初のように墓に向かって俯いて、長い髪で顔を隠した。


「……わかりません。ですが、ずっと心に残っていることがあります」


 彼女は、そう言ってからしばらくのあいだ無言だった。自分が明確に聞き手を意識した声の出し方をしたことで、相手を憎む気持ちより、誰かに話を聞いてもらいたいと思う気持ちのほうが優先されたことがわかって、彼女は狼狽えた。


「聞いてもいいかな」と、遠慮がちにラウダが尋ねた。


 晴天に不似合いの、息苦しい静寂が二人を包んだ。

 どこからともなく一頭の蝶がひらひらと飛んできて、墓前に供えられた花束に留まった。


「オゼイ・ラドヴィンが死んだ日――」


 やがて彼女はぽつりと言って、話し始めた。


「私は坊ちゃんから一枚の絵をいただきました。邪悪な、黒い森で……黒い獣たちに抗う、淡く光る白い衣をまとった美しい祈りの乙女の絵です。坊ちゃんは、その強く気高い少女のことを指して、『これはきみだ』と仰いました。

 ……私は、戸惑いました。描かれていた少女は確かに孤独でしたけれど、誰かに手を差し伸べられずとも、理不尽な暴力と恐怖に立ち向かう強い心と、生き抜く覚悟を持っていました。彼女は一人でも、逞しい少女だった」


 彼女の語気は、ますます強くなる一方だった。


「でも、私は違います。私は、あの絵にあった闇の包囲を知っているような気がしますが、立ち向かう勇気なんてありません。あの夜も、母と、坊ちゃんに守られていただけです。私は一番安全な場所に居て、二人の帰りを待っていただけ……。私はいつもそうなのです。どんな不幸に見舞われようと、一番ひどい目に合うのは私ではない。いつも誰かに守られている……! それが……私です……」と、彼女は目頭から熱い雫をこぼした。「私には、坊ちゃんの気持ちがわかりません。どうしてあの絵の少女を私だと言ったのか。弱くて、なにもできない私への当てつけだったのではないかと、毎夜、毎夜考えて……怖くて……! 胸が……、心の奥が痛むのです……!」


 彼女は自らの心臓を抉り出そうとするかのように、胸元に爪を立てた。


「坊ちゃんは、こんな私に優しくしてくれました。なにもない私に……! 私は、その理由がが知りたい……っ、でも、もうあの人は……!」


 彼女はその場に蹲り、声をあげて泣き始めた。

 ラウダの脳裏を、死と愛の罪深い一面に関する持論がよぎった。命あるものはいつか死ぬのに、愛はなぜ存在するのだろうか?


「だけど、ラミロがきみに生きてほしいと願った想いは本物だった」

「私だって……っ、彼に生きていてほしかった!」


 クレアは詰まった声で、髪を振り乱して叫んだ。ラウダはその叫びに秘められた強い想いに心を打たれ、衝き動かされた。


「じゃあ、もしも――」と、彼は言った。


 彼女は、赤くなった両の目を限界まで見開いた。


◇◆◇


 人生にはいくつかの節目があるが、産声を上げるという自分史的快挙を成し遂げた日を除くとすれば、16歳の誕生日には、その記念すべき一回目が訪れる。

 もともとこれはユグンを発祥とする慣習だったが、海外からの侵略以後も生き残り、いまとなっては大陸の東西に共通する数少ない文化のひとつでもあった。


 イムカ・メルキンの成人を祝う式典は、メルキン家の中庭で、親類と農場関係者、懇意にしている行商人などを集めてささやかに行われる予定だった。会場で振舞われる料理はカルラが作ったものと、ケントが作ったものが半々で、一部材料の提供にコーバスが、酒の用意は全面的に酒場の支援を受けており、ラウダが到着するころには主役の登場を待たずしてそれなりに盛り上がっていた。


「おう、みんな! 噂をすれば王子様の登場だ!」


 レムバンは従弟の姿に気が付くと、人混みの中で声をあげた。

 なるべく目立たないようにスリスリから降りて家畜小屋に向かっていたラウダは、注目の的になって恥ずかしい思いをしながら、適当に手を振って小屋のなかへ逃げ込んだ。


「レムバンのやつ、もう酔ってるな……」


 それにしたって“王子様”はひどすぎる。


「俺がそうなら、お前は白馬か。ちょっと黄色っぽいけど……」と、彼はスリスリの身体から馬具を取り外してやりながら、恨めしく独り言を呟いた。「……そういえば、お前とも今日でお別れなんだよな」


 ラウダがそう言うと、スリスリは鼻を鳴らした。


「そんなことより飯をくれって? まったく、お前は良い馬だよ」


 彼は軽く笑ってスリスリを馬房に入れ、飼い葉桶に餌を足した。城砦でも少しもらっていたので、いつもより量は少なめに調整する。


 ラウダが家畜小屋から出ると、人混みからマーシャが抜け出てきて手を振った。見た目にはあまり変化のない彼女だが、お腹にはレムバンとの間に出来た新しい命が宿っている。そう考えると、不思議と心が豊かになった。


「こんにちは、いい日になったわね」と、彼女は額に手で庇を作って言った。

「こんにちは、マーシャ。でもは酒のペースが速すぎないかな」


 彼女は離れたところにいるレムバンを振り向いて、楽しそうに小さく笑った。


「いいえ、あれでもほとんど飲んでないのよ。酔ってるふりがうまいの。恥ずかしいからやめてほしいんだけど、盛り上げ役は必要よね」

「演技のだしにされちゃ堪ったもんじゃないけどね」

「まぁ」と、口を押えてマーシャは笑う。


 そして彼女は温かいまなざしでラウダを見つめた。


「あなた、変わったわね」

「そうかな」

「ええ、とっても……なんていうか、話しやすくなったわ」

「前は話しにくかった?」

「もう、褒めてるのに」

「冗談だよ。自覚はあるんだ、物事がシンプルに見えるようになったっていうか。まだ全然慣れないんだけどね」

「いい傾向じゃないかしら」マーシャは少し考えた。「だけど、前のあなたが悪いってわけでもないのよ。バランスだと思うわ」

「ありがとう」と、ラウダは言って、マーシャの後ろから歩いて来たケント・リオッカに会釈した。「こんにちは、とても豪勢ですね」


 ケントは面食らって目をぱちぱちした。


「おお、ラウダか! 誰かと思ったよ、見ないうちに逞しくなって……なぁ!」と、彼はマーシャを振り向いた。

「いまちょうどその話をしてたのよ。それで、なにか用なの? お父さん」

「ああ、コーバスのやつを見なかったかと思ってな」

「リストさん? いいえ、見てないわ。私も新鮮なお肉のお礼をしなくちゃと思っているのよ。出席するように声はかけたのよね?」

「ああ勿論。『お嬢さんの晴れの日に、俺みたいのは似つかわしくない』と抜かしていやがったんだが、いいから来いと言ってやった。俺もそろそろ店に戻らんとならんのに……」

「来ないつもりかしら」

「わからんな」ケントはため息を吐いた。「もう少し待ってみるよ」


 そのとき、母屋のほうから歓声が上がった。


「どうやら主役の登場ね」


 マーシャが歓声に混じって拍手をしながら言ったが、ラウダの耳には届かなかった。彼の視線は、カルラに手を引かれて母屋から出てきた可憐な少女に釘付けで、その他のあらゆることが頭に入ってこなかった。

 彼女は落ち着いたモスグリーンを基調とした、鮮やかさと素朴さを兼ね備えた美しいドレスを着て、鎖骨のあたりまで伸びた胡桃色のくせ毛を自然で品の良い感じがするシニヨンにしていた。


「ほら、迎えに行ってあげて」と、マーシャがラウダの背中を軽く押した。


 彼がつんのめって前に出ると、人混みが割れて自分と少女のあいだに道が出来た。

 可憐な少女も彼を見ていた。彼女は恥じらって、差し色にブルーの入ったスカートを揺らしていた。ラウダは胃がぎゅっとなるような感覚を覚え、その感覚にすべてを支配された。一歩踏み出すごとに、これ以上近づくと煙のように彼女が消えてしまうのではないかという恐れを感じたが、触れることのできる距離まで寄っても彼女が実際に消えてしまうことはなかった。


「……びっくりした」と、彼は声をかけた。「きみがあまりにも綺麗だから……」

「本当?」

「本当だよ、瞬きももったいないくらい……」


 彼は改めて少女の姿を目に焼き付けた。彼女は薄く化粧をしていて、一段と大人びて見えた。彼女の瞳も素晴らしかった。覗き込むと彼女への想いが純化した。


「とても綺麗だ、イムカ」

「ありがとう……」と、彼女は耳たぶまで赤くして俯いた。

「さぁ、続きは料理を楽しみながらにしましょう!」カルラは明るく言って手を叩いた。「みなさん今日は娘のために集まってくださってありがとう! 楽しんで!」

「それでは、我が娘イムカ・メルキンの成人を祝って!」


 クライヴが酒杯を高々と掲げた。


「――乾杯!」


 併せて大勢が音頭に続くと、ラウダとイムカは目を輝かせて、どちらからともなく手を繋いだ。

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