『本当みたいな嘘、嘘みたいな本当』・下
「……本物か?」
モローは長い沈黙のあとで苦労してその一言を喉から絞り出すと、ラウダの声で話す大きな狼を視界に入れたまま、慎重に立ち上がった。
「どうなっている、これは現実か。ドミニク、お前にもあれが……」
「見えています……。が、しかし……これは……」
絶句する二人の様子を、ラウダはじっとして窺った。彼も人前でこの姿をとることに慣れていなかった。昨日の晩のように狼化した彼を見た人間の反応は、怯えて逃げ出すか、腰を抜かすか、襲いかかってくるかの三つのパターンに大別されたが、モローとドミニクの反応はどれでもなかった。
「ラウダ、その……いま我々の目の前にいるのは、きみなんだな?」
「はい」と、ラウダは狼の頭を人間くさい仕草で縦に振ってアピールした。「心配されずとも、噛みついたりしませんよ。俺の意思はこの体の全体に行き渡っていますから」
モローは、後ろ手に椅子のひじ掛けを探り当て、考えごとをしながら腰を下ろした。
「そういうことか……」と、彼はドミニクを振り向いた。
「そのようですね。一目でピンときましたよ。数時間前に報告にあった、事件現場に現れた大きな狼。野生の獣が血の匂いを嗅ぎつけて出たものだと、たいして気に留めていませんでしたが……きみだったんだな、ラウダ・メルキン」
ドミニクの確信に満ちた声を聞いて、ラウダは口角を吊り上げた。
「オゼイの死体から様々な匂いを感じました。そのなかで気になったのは、遺体の傷口に残っていた絵具の匂いでした。俺はその匂いを追跡して、領主館に辿り着いたのです」
モローが呆れ混じりのため息を吐いた。
「人には出来ん芸当だな。我々も言葉だけでは受け入れられなかっただろうし、きみはきみで、辿り着くはずのない答えに辿り着くわけだ」
「ラミロ・ザウアーはこのことを?」と、ドミニクが微かに首を傾げた。
「知りません」
ラウダはきっぱりと答えた。ドミニクがモローを窺った。嘘を見破るという彼は、ラウダの偽りのない発言に微動だにしなかった。
「それにしても信じられん……」と、モローは言って、失笑した。「は、はは……! なぁドミニク、お前は妖精や竜の存在をいくつまで信じていた?」
「どう、だったでしょうか……。父は厳格でしたが、私には優しい兄と姉が多くいましたから……8つくらいまでは信じていたかと……」
「そうか、私は11歳までは信じていたよ。そのころレイヒエット様にお会いして、彼女の前で大恥をかいたんだ。お父様とお母様を初めて恨んだのはそのときだった。幽霊や動く死体はもう何年かあとまで怖がったが……どうだ、これは!」
彼はひじ掛けに両肘を乗せたまま、両手を広げた。
「狼人間だと……? とんでもないことだ。妖精は? 竜は? 天馬は? 幽霊や動く死体も、なにもかも現実に存在しているのか? それとも私は……、私の頭がどうかしたのか?」
「その場合、私の頭もおかしいということになりますね」と、ドミニクが分析した。
「お二人とも正常ですよ」と、ラウダが断言した。「そしてとても落ち着いている」
モローが緩やかに首を振った。
「我々が問答無用で斬りかかる可能性もあっただろうに」
「そうですね。でも、そうならない可能性に賭けるしかなかった」
「無謀だな、きみは。死にたがりなのかね」
「あなたは嘘が見抜けると言った。俺に敵意がないことはわかっていたはずです。そのうえで斬られるのなら、もう俺にはどうしようもない状況でした」
「確かに、追い詰めたのは私だ。しかし、私がタリ・エスヌ教典を手放さない人間であったなら、きみの一家を丸ごと異端として罰するところだよ」
ラウダとて、そんな展開を予想していなかったわけではないが、頭に思い浮かべるのと、改めて他人に言われる不快感の度合いには雲泥の差があった。彼は四本のしなやかな脚で立ち上がり、鼻面に皺を寄せて獰猛な唸り声をあげた。
「俺のこの姿と叔父一家にはなんの関係もありません。俺の両親も普通の人間でした。俺も元はそうだった。全部、あの戦争のせいなんだ」
「中央の頑固者が相手なら、そんな理屈は通用しない」
「わかってもらえるまで話しますよ」
「やはり見通しが甘いな」と、モローは厳しく言った。「きみが辺境の生まれだからかもしれないが、中央の人間はそんなに甘くない。浮浪者であっても“異端”という言葉には敏感だよ。告発すれば報奨金が出るからね」
ラウダは耳を絞った。一瞬、自分は判断を誤ったのだという絶望が首筋を這いあがってきて総毛立ったが、ふと現状に立ち返ってみると恐怖は自然となくなった。
「でも、あなたは俺とこうして話をしている。お二人は剣ではなく、言葉を使って俺を試そうとしている。違いますか?」
「そう振舞うことで、きみを油断させようとしているかもしれない」
「どちらにせよ時間の無駄です。あなたはずっと仮定の話をしている」ラウダは座り、興奮して上昇した体温を舌から逃がした。「俺が恐ろしいのはわかります。だけど、互いにもっと有意義な時間の使い道があるでしょう」
今度はモローが選択を迫られる番だった。彼は机の端に手を伸ばし、丸いのだけが取り柄の石ころを一つつまみ上げると、それを手のひらのうえで転がした。
「……獣に諭されるというのも面白い経験だな」と、彼は呟いて、石ころを人差し指と親指でつまみなおし、目の高さに持ち上げた。「私は面白いことが好きだ。きみにも興味がある。アールベックの泣きっ面も見たい。つまり、きみの発言は半分正しい。我々は、協力できる立場にある」
ただ、と彼は石ころをもとの位置に戻し、腹の上で五指を組んだ。
「個人的な事情に目を瞑れば、私はきみときみの一家を告発することになんの躊躇もない。それがエルタンシア貴族の正しい振る舞いでもある。きみのおかげでラミロ・ザウアーを殺人犯として裁く手札はすでに揃っているし、この毒酒のおかげでアールベックを一時的に従わせることもできる」
「それがあなたの望むやり方なんですか?」
「望むと望まざると、私は目的のために必要なことをするまでだ」
「冷血だ」と、ラウダは冷ややかに言った。「より多くの幸福ために、捨てなくちゃならない目的もあるでしょう」
「そんなものはない。つくづく甘い人間だな、きみは。自分のために生きずして何のための生だと言うんだ」
ラウダはその強烈な価値観に衝撃を受けたが、意地でも認められなかった。彼は目が眩みそうな憧れに、達観と卑屈の澱みをかけて覆い隠した。
「理解できません」
「仕方がない。考え方は人それぞれだ。それより、今度こそ私はきみを脅しているわけだが、意味もなくこんなことをしていると思われては困るから、理由を話そうか」
完全にモローのペースだった。ラウダは家族たちを人質にとられて、足踏みをすることしかできない。
モローはゆったりと足を組み、ひじ掛けに頬杖をついて言った。
「私のものになれ、ラウダ。私はきみのその“才能”を高く買うぞ」
ラウダは耳をピンと立て、目を瞠った。ドミニクが眉をひそめた。
「それは……、どういう意味でしょうか」と、ラウダは恐る恐る尋ね、小さな声で呟いた。「この忌まわしい身体が、才能……?」
「そのままの意味だよ。私はきみの能力が欲しい」
「お言葉ですがモロー様、私は同意しかねます。由来もわからぬ力ですよ」と、ドミニクが苦言を呈した。
「ようするに、使いようだろう」
モローは泰然と応じた。
ラウダは見知った世界が壊れていくような危機感を覚えて、首を竦めた。
「見世物にでもするつもりですか」
「そんなことをさせてなんになる。私には宝を腐らせる趣味はない」
「では、なにを……?」
「密使だよ」と、モローは笑みを浮かべた。「人の頭脳、心、言葉を操る獣にはぴったりだ。誰が対策を講じ得る?」
「しかし……」
ドミニクがなにごとか言いかけたが、モローが片手を挙げて制した。
「おっと、彼の答えを聞いてからにしようじゃないか」
ラウダは自分の身体を見下ろして考えていた。毛深い胸、腹、前足、鋭い爪――自分は普通の人間じゃないと、嫌でもわからされるこの身体が憎かった。間違っても才能なんていうキラキラした言葉と結びつかないものだった。
それが、そんなものを必要とする場所があるなんて信じられなかったけれど、自分が縦に首を振るだけで大切なものが守れるのなら、彼に迷う理由はなかった。
「家族の安全を保障してください」
「もちろんだとも」
「裏切れば、俺はあなたを噛み殺しますよ」
「肝に銘じよう」と、モローは力強く頷いて、立ち上がった。「ふふ、契約成立だな。安心したまえ、私は身内には優しいぞ。なぁ、ドミニク」
「ええ……まぁ……そうですね」と、彼は眉間をつまんだ。
「そういうことだ」
モローは机に手をついて、わずかに身を乗り出した。
「例えば、きみとラミロが隠したがっていることについても、私のほうでなんとかしてやれるかもしれない。きみが正直に話してくれるなら、だけどね」
ラウダは反射的に立ち上がったが、落ち着いて座りなおした。こんなにうまい話があるわけがない。長年抱えていたコンプレックスを評価されたことで、彼のなかでモローへの疑念が膨らみ、決心が揺らぎ始めていた。
「どうした?」と、モローが言った。
「……いえ、あなたはさっき言いましたよね。目的のために必要なことをする、と」
それは恐ろしい想像だった。モローは「ああ」と頷いた。
「もし」と、ラウダは口を開いたが、その先を言ったのは彼ではなかった。
「もし、きみたちの秘密が私の意にそぐわないものであるならば、そのときは後悔することになるだろうね。しかしその秘密はアールベックに有利に働くものなのか?」
ラウダは少し考えて、首を横に振った。
「ならば問題はあるまい。私の邪魔にならない限り、私はきみたちの事情を優先するよ。話してみたまえ、絶対に悪いようにはしないと約束しよう」
そのとき、ラウダの頭のなかに沸き上がったイメージにおいて、モローの声は暖かい太陽の光そのものだった。だが一匹の狼は鬱蒼とした森の、冷たい土のうえに佇んでいた。彼はそこで自分が十年間も蹲っていたことを知った。ここは寒いが、慣れてしまえばどうということもない。それが常套句だった。
鼻先を光がかすめて、彼は顔を上げる。地上と空のあいだにあって、何層にも重なった陰気な枝葉が、暖かい光を遮っている。あの光に触れたいが、火傷するかもしれないし、枝の壁は分厚いし、高い枝には手が届かない。彼は蹲って諦める。ここは寒いが、慣れてしまえばどうということもない。
彼の頭上で、小鳥たちが騒ぎ始める。長いこと無視したが、小鳥たちのさえずりはどんどん大きく、やかましくなってくる。彼が苛立って顔を上げると、二羽の小鳥が一心不乱に分厚い枝の壁を取り払っている。
二羽の小鳥は兄妹で、妹鳥は健気で頼もしく、作業が丁寧で黙々としている。兄鳥は『ずるいぞ』が口癖の頑張り屋だが、作業が荒っぽくて取り払った枝がたまに狼の身体にぶつかった。
象徴的なイメージは、ラウダに疑う余地のない道を示した。
「……ありがとう、二人とも」
彼は無自覚に尻尾を揺らして、息を長く吐き出すと顔を上げた。
「モロー様、あなたを信じます」
彼は清々しい気持ちでラミロと交わした約束を破った。そしてラミロの願いが守られるように熱を込めて、スザンヌとクレアの壮絶な体験を語った。すべてを話し終えるころには、太陽が西の空に傾いていた。
「……なるほど」
一通り話を聞いて、モローは一言そう述べた。
ラウダが話をしているあいだ彼はじっとしておらず、いまは暖炉のうえに飾られた折れた剣を見つめていて、鈍い鉄の輝きが仮面のなかにも映り込んだ。
「愛する者のための殺人か……。救いのない話だな」
「はい。ラミロは共犯の二人を庇い、一人で罪を背負うために自首を申し出ました」
「……そのようだな」と、モローは折れた剣を台座から外し、大事そうに手に取ってその重みを確かめた。「人を想う気持ちというのは、ときに恐ろしいものだ。きみも、ラミロも、他人のために平気で命を捨てようとする。マスケニスの死を恐れぬ兵たちもまた、そのような者たちだったのだろうか……」
彼の背中は憐れに見えた。ラウダはなぜか悲しくなって、声をかけることもできなかった。
「あなたのご両親も、兄君もそうでしたよ、モロー様。あのお方々も、あなたと、エルタンシアの未来を想って亡くなられたのですから」
「そうだったな……」と、モローは折れた剣を台座に戻した。「でも、私は生きていてほしかったよ」
その声を聞いた途端、ラウダは強い共感を覚えた。まるでこの空間に超常的な力が及ぶ場が降りて、三人の精神の深いところを連結させたようだった。
「愛する者には、生きていてほしい。そう願わん人間はいない……。話は分かったよ、ラウダ。アールベックには私がうまく対処しよう。スザンヌとクレアのことは安心してくれていい。しかし、そうだな……」と、モローは顎先に手を添えた。
「どうされたのですか」
ドミニクが尋ねると、彼は不敵な笑みを浮かべた。
「いや、この話はあとにしよう。それより――」と、彼はラウダを振り向いた。「私の密使となるきみに、話しておかなければならないことがある」
◇◆◇
向こう岸に建っている粉ひき小屋の屋根を飛び越えて、酒場の騒ぎが聞こえていた。彼らは今夜眠らないつもりだろうか、それとも酔いつぶれたあとの始末のことなんて考えてもいないのだろうか。たぶんどちらも正解だ。
「それからモロー様はなんと仰ったの?」と、イムカは不安がって聞いた。
ラウダは疲れた笑顔で頭を振った。
「ごめん。ここから先は口外禁止だと言われてる」
「そう……。ところで、あなたはその、密使とかいうのに選ばれたのね?」
「うん」と、彼は頷いて、ウタシの川面が月光に煌めく様子を遠い目で見守った。「モロー様の命を受けて、大陸中を巡るんだ」
「へぇ、大陸中を……」
興味深そうに頷いていたイムカは、何気なく繰り返した言葉の意味に茫然としてラウダを見た。
「あれ、私の聞き間違いかしら……。あなたいま……」
「たぶん聞き間違いではないよ」
「でも大陸中を巡るって」
「言ったよ。だけどいますぐじゃない。城砦で文字の読み書きや雑学、剣術なんかを叩きこまれて、一人旅ができるようになったら任務をもらうことになる」
ベラングラーシェのさっぱりとした夜風が、二人の沈黙のあいだを流れていった。
「……村を出るの?」イムカが神経質に言った。
「うん……、そういうことになる」
イムカは河原に手をついて、ラウダに迫った。
「そんなのだめよ、お父さんには話したの? お母さんには? きっと二人も止めるに決まってるわ」
「叔父さんたちに詳しいことは話せないよ。きみならわかるはずだ。俺がモロー様の密使になったのは、叔父さんたちを守るためでもあるんだから」
「領主様に脅されてるのね!」
彼女は憤怒に駆られて大きな声をあげた。放っておけばいますぐにでも城砦へ殴り込みに行きかねないと思うくらいに興奮する彼女の両腕をつかまえて、ラウダは言った。
「待って、落ち着いてイムカ! 違うよ!」
「違わないでしょ! 強要されてるんだわ!」
「違わないけど、違うんだよ! これは俺の意思でもあるんだ!」
彼がそう叫ぶと彼女は抵抗をやめ、瞳に裏切られたという色を浮かべた。喪失と悲しみは少しずつ声にならない叫びに変わり、彼女は幼い子供の癇癪のように、ラウダを力任せに押し倒した。
「ひどい……」と、彼女は言って、嗚咽が喉をつき、泣きじゃくった。「なんで……そんな大事なこと、急に……!」
彼女はラウダの上に馬乗りになって、彼の胸を何度も叩いた。彼女の力は初めから弱々しく、次第に気力が尽きて突っ伏したところを、彼が抱きしめた。
「……嫌い、嫌いよ」
「俺は、きみのことが好きだよ」と、彼は息をするように言った。「きみを愛してる。だから、行くんだ」
彼はしゃくりあげるイムカの背中を優しく撫でた。服の胸のあたりがじんわりと濡れて、温かかった。心のなかが彼女への想いで満たされた。
「モロー様は仰ったんだ。俺の呪いが後天的なものなら、密使として各地を旅するなかで、それを解く方法が見つかるかもしれないって。どうしたって、あのお方から与えられた任務とか、目的を達成することが最優先にはなるけれど、道すがら呪いについて調べたり、解呪の方法を探して寄り道するのは自由だって。そのためにモロー様の名前を使う許可もくださった」
「行っちゃやだ……!」
イムカがラウダの服を巻き込んで拳を握った。彼は切ない顔になって、そっと彼女の頭を撫でた。
「うん。俺も寂しい……、でも行かなきゃ」
「いやぁ……」
「イムカ、きみに許してほしいんだ。見送ってほしい。そして……」と、彼は口ごもった。後悔するかもしれないと思ったが、後悔のない選択など存在しない。「できることなら、俺の帰りを待っていてほしい」
彼は、視界中に散らばった星々に向かって言った。
「我がままだってわかってる。でも、我がままを言わせてほしい。俺はきみと結ばれたい。きみと夫婦になって、家庭を持って……幸せな暮らしを夢に見てる。
いままではそんなの無理だって思ってたから、幸せになることを……きみを、諦めるつもりでいた。だけどそれこそ無理だった。俺はきみが好きだ。諦めたくないんだ。呪いを解くなんて考えもしなかったこと、いまはその可能性を追いたいんだ」
イムカは啜り泣きをしながら、彼の言葉を静かに聞いていた。
「特訓の期間は数か月ある。俺が村を出るのはまだ先だ、だから……。少しずつでいい。そのときに向けて、二人で話し合っていこう」
「……手こずらせてやるんだから」と、彼女は恨み言を吐いた。
「望むところだよ」と、ラウダはさらに強く彼女を抱きしめた。「もう離さないって決めたんだ」
その夜の決心を、彼は生涯忘れないと固く誓った。
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