『檻のなか』・下

「スザンヌはサスキアの北にあるゾラっていう漁村の生まれだった。でもサスキアの海岸線はどこも断崖絶壁になっていて大きな港はないし、漁業に適しているとは言えない。ゾラの近くにも小さな浜しかなかったから、漁師たちは自分たちが生きていくのに必要なだけの漁をして生活していたんだと。

 だから、裕福な家庭なんか一つもなかったって話だったけど、スザンヌや村の人間にしてみればそれで当たり前だった。なかにはそんな暮らしが嫌で村を出て行く若者もいたみたいだ。でもスザンヌは村の若い漁師と結婚して家庭を持った。子供も生まれてしばらくは幸せな生活が続いたらしい。だけど数年後にあの戦争があって、たった一年でグローヴァーやリーデンスの防衛線が崩壊すると、隣り合うサスキアやレンネバルにも国から出兵の命令が下された」


 ラウダが顔を顰めると、ラミロは頷いて続けた。


「そうだ。ゾラはサスキアの北、つまりグローヴァーとの国境に近いところにある村だ。出兵の命令が下されたのもいち早かった。スザンヌの夫も若くて健康な男だったから、強制的に。その頃にはグローヴァーもリーデンスも虫の息で、勝ち目なんてなかったけど、国のお偉いさんたちが行けと言えば行くしかなかった。結果は知っての通り、エルタンシアはそれから一年後に降伏した。マスケニスに領土を二つも奪われて、スザンヌの夫は帰らなかった」

「ひどい話だ」

「ああ……。でも彼女の不幸はさらに続いた。戦争があっという間に終わってしまうと困る人種がいたんだ。くそったれの傭兵どもさ。しかも敗戦となると稼ぎもないから、相当に不満が溜まっていたんだろう。終戦からエルタンシア国内のあちこちで傭兵崩れの野盗たちによる被害が続出した。とくにサスキアやレンネバルの国境が酷かったって話だ。ゾラは貧しい村だったけど、彼らには関係のないことだった」


 彼はそこまで話して紅茶を飲み干し、唇と喉を潤わせた。


「騎士は国と主君のために戦うが、傭兵は金のために戦う。両者の違いをこう説明する人がいるけど、本当はそうじゃないと俺は思う。騎士も傭兵も、結局は自分のために人を殺すんだ。……肩書で人の性質が決まるわけじゃない。

 ゾラを襲った傭兵集団は、その点潔いクズの集まりだった。罪のない人々が暮らす、平和な村を躊躇なく襲った。年寄りも子供も殺して、若い女は犯された。そのなかにはスザンヌもいた。沢山の女が犯され、その果てに殺されたり自ら死を選んだり、どこかに売り飛ばされたけど、彼女は傭兵団の頭目に気に入られて、そのとき10歳だった娘とともに生かされ、飼われ続けた」

「もしかして……」


 ラミロは深々と頷いた。


「その頭目っていうのがオゼイだった。オゼイはゾラを襲い、スザンヌを見つけたその日から、約一年間ものあいだサスキア中を転々と移動しつつ各地で略奪を続け、彼女を性欲と嗜虐的な性癖の捌け口として使い続けた。スザンヌが妊娠すると暴力を振るって流産させた。彼女の心は何度も死にかけたけど、娘の存在がずっと彼女の正気を支えていた。そしてある日、オゼイが11歳になる痩せた娘を性的な目で見るようになり始めていることに気がつくと、彼女は娘を守るために野獣どもの巣穴から逃亡を試みたんだ。八年前のことさ、彼女たちは追手から数日間、息を潜めて逃げ切ると、命からがらベラングラーシェに辿り着いた」


 壮絶で残酷な昔話にラウダはすっかり青ざめて、すぐに声が出なかった。彼も戦争で両親と故郷を失って悲嘆にくれ、それからというもの自分は世界中の悲劇を背負って生きているという考えが頭から離れなかったが、ラミロの口から語られたスザンヌという女性の半生は、彼の知らない別世界の出来事だった。


「……その、彼女たちは……」

「いまもここで使用人として働いてるよ。幸せかどうかはわからないけどね。スザンヌに関しては、飼い主がオゼイから父上に変わっただけだ。彼女はいまも自分と娘の暮らしを守るために身体を張って生きている」

「じゃあ、さっきの……彼女が、スザンヌさんの娘さん?」

「ああ。クレアだ」と、ラミロは膝の上で拳をつくった。「俺は最初、彼女の父親がオゼイなんだとばかり思っていたが、とんだ勘違いだった。彼女はやつに連れまわされていた一年間で何度か生死の境を彷徨って、故郷での思い出をほとんど失くしたばかりか、実の父親の顔も覚えちゃいない。あの娘は自由な生き方も知らない、他人に従うだけの人生を送って来た娘なんだ」


 彼は自分が泣き始めていることに気付いていなかった。


「幸せにならなきゃ嘘だろ。なのに、運命は再びオゼイを彼女たちに引き合わせた。ベラングラーシェに来て、ちゃんとした食事を与えられ健康に育ったクレアはきっと、やつの目に留まっただろうな。やつは昨日、他の使用人を通じてスザンヌを脅したんだ。背後にアールベック卿の影をちらつかせて。父上はアールベック卿には逆らえないし、知り合って間もないにもかかわらず、俺にはオゼイが自らの欲するものを諦める人間だとは思えなかった」


 彼は瞬きをした。落涙が、彼の握りこぶしを打って弾け散った。彼は驚いた顔をして、涙を拭いた。


「もう、殺すしかなかった」と、彼は呟いた。「死人はなにも望まない。スザンヌからそんな話を聞いて、彼女とクレアを見捨てることは出来なかった。彼女たちにとっても、俺が最後の頼みの綱だったんだ」

「でもオゼイは――さっきのきみの話が確かなら、手に負えない相手だったんじゃないのか? きみはどうやって……」

「それはそうだ。オゼイは強敵だった。彼自身もそう考えていたに違いないよ。自分が俺みたいなひょろっちい男や、そこらの女に負けるわけがないと思ってただろう。そこがつけ入る隙だった。こっちにはスザンヌがいた。オゼイは彼女のすべてを知り尽くしていたけど、それはスザンヌも同じだったよ。彼女がオゼイのもとで生き抜くために身につけた術や知識は、全部無駄じゃなかったんだ。

 そして、オゼイは運にも見放された。やつはアールベック卿と共にこの村へやって来た。モロー卿を陥れるためにを持参したアールベック卿と、一緒にね」

「毒……」と、ラウダは復唱した。


 手元のティーカップを見下ろしてしまったのは、紅茶を手渡されたときのラミロの台詞をうっかり思い出したからだった。

 ラミロはそんな彼を見て、濡れた頬を持ち上げた。


「入ってないよ。俺は本気できみが絵の依頼に来たと思っていたし、毒も昨日で品切れさ。少しばかり俺たちが拝借して、残りは父上がアールベックの指示で使っただろう。減った分を同色の顔料で補ったから、あの節穴じゃ食事に混ぜるまで気付かないとは思っていたけど、臆病な父は予想通り色味の濃い食事にアレを混ぜたらしい。毒の半分が顔料だったと、あの人はまだ知らない」

「きみはイルジアさんを、父親のことをよくわかってるんだね」


 ラウダがそう言うと、ラミロは複雑そうに笑った。


「良いところも知っているつもりさ。認めるのは癪だし、気に入らないけどね。肝心なときに悪い身内を、どうやったら完全に嫌いになれるかというのが血のつながりの憎いところで……」と、言いかけて彼は頭を振った。「ともかく、あの人はいつだって保身のことしか考えていない。アールベック男爵もだらしがないよ。父上に大事な計画を持ち掛けるなんて。おかげでスザンヌが毒の存在を知ったわけだけど、我が父ながらピロートークも趣味が悪い。毒のありか、性質から効果、使い方に至るまで、彼女はすべてを知っていた」


 部屋がどんどん暖かくなっていた。正午が近づいて、太陽が南向きの窓を正確にとらえ始めていた。ラウダは右目を眇めて、手で庇をつくった。


「オゼイに毒を飲ませる提案をしたのは彼女だった」と、ラミロは言った。「そうでもしないとやつを殺せないことを、彼女はわかっていた。誰も反対しなかったよ。その日の朝に彼の武勇伝を聞いたというのは本当でね。食欲の失せる話だったけれど、俺も万全のオゼイを相手に出来るとは思わなかった。そこで問題になったのが、どうやって毒を飲ませるか、どうやって毒殺だと疑われないようにするか、どうやってやつを領主館の外に連れ出すか、ということだった」


 彼は右手の指を三本立てて、反対の手の指で薬指から順に一本ずつ折りたたんでいった。要点を押さえ、適度に緩急のついた話し方は、聞き手の負担を減らし、理解を速めた。


「毒を飲ませる方法はすぐに思いついた。やつはアルコールに依存していた。革袋に酒を常備して、いつも腰にぶら下げて。革袋の中身がなくなると使用人に言って補充させた。家令一行が領主館に来た初日ですら、やつは昼にいっぱいにしてやった革袋を夕方までに空にしたんだ、これは使えると思った。毒の効果が出るまでに数時間かかるという話だったから急いだよ。会食の準備や後片付けで使用人たちが忙しくなることを理由に、酒が減っているならいまのうちに補充させてほしいと提案すると、やつは難なく乗って来た」

「そして、その間に誰かが毒を取りに行った」


 ラミロはわが意を得たりと頷いた。


「そうだ。オゼイには俺が会いに行った。父上の書斎にはスザンヌが、毒を入れる空の小瓶と、顔料の入った小瓶を持ってね。毒殺だと疑われないようにするには致命的な外傷があればいい。一番厄介な問題は、どうやってオゼイを領主館の外に連れ出すか……だと思っていた。やつはアールベック男爵の護衛騎士だったし、当然会食に出席するものだと思ってたからさ」

「違ったんだね」


 ラミロは肩を竦めた。


「そうなんだ。オゼイは想像以上に常識の通じない男だった。スザンヌが言うには、もともと人の下につくタイプではないし、彼は刹那主義者――数年も行方知れずだった獲物を前にして、重要な仕事を放棄できてしまう男だと。ゾラを襲う判断をしたときのように、稼ぎや名誉より一時の快楽を優先するのがやつの生き方だった。

 この辺のことはスザンヌに任せていたんだが、あとで聞いた話だと彼女がを求めて対峙すると、面白いように食いついたらしい。あの男のことだから、弱い相手が強気に出れば出るほど興味を持っただろうな。彼女にはよくわかってた」

「なるほど。それがきみの言うところのオゼイの隙か」

「そういうことだ。彼女は人目を憚って領主館の外で話がしたいと言った。ただし、自分には使用人としての仕事があるし、二人で同じ時間に行動しては目立つから、日が暮れたら名無し通りで落ち合おうと約束して。きみには悪いことだけど、酒場で日没までの時間を潰すようにやつに勧めたのは彼女なんだ」


 ラウダは思わず椅子から腰を浮かしかけて、思いとどまった。


「……誰も、あんなことになるなんて思わないよ」

「だめだ。言い訳にもならないな」と、ラミロは大まじめに首を振った。「言っただろう、スザンヌはオゼイのことをよくわかってた。マーシャのことも知ってたし、若い娘にやつを近づけたらどうなるか……彼女に予想できなかったはずはない。どんな答えが返ってくるか恐ろしくて訊いてないけど、たぶん哨戒兵をあの場に釘付けにすることまで含めて、彼女の計画だった。コーバスさんの登場を除いて。

 でも俺たちは人を一人殺すにあたって、とことん合理的に、どこまでも無駄な情を省いて行動する必要があった。だからラウダ、憎むなら俺を、オゼイを殺すと決断した俺を許さないでくれ」


 それでラウダの知りたかった話はおおむねお終いだった。酒場を離れたオゼイはそのあと名無し通りでスザンヌと合流し、彼女の望むという名の茶番を互いに演じた。そして、コーバスとの一戦が効いたのか予想よりも早く中毒症状を起こした彼を、物陰に隠れていたラミロが背後から襲った。


 逃走経路はラウダの指摘した通りだった。

 ラミロとスザンヌが領主館の敷地に入ると、クレアがこの部屋からロープではなく数枚のベッドシーツを繋いだものを吊り下げた。会食が始まると忙しいのは男の使用人たちだけになり、彼女たちはある程度自由に動くことが出来た。このときに使ったシーツと、毒酒の入ったオゼイの革袋は、血痕が付着したままの状態でラミロのクローゼットに詰め込まれていた。


「運がよかったんだ。都合のいいことが色々起こって、うまく行き過ぎた無茶な計画だった。そう思えばさ、オゼイをやれただけでも釣りがくる。きみに追い詰められるとは思わなかったけど、ここまで含めての幸運だと思うことにするよ」

「ラミロ……」


 彼らは見つめ合うごとに、ある種の妙な絆の増大を感じていた。


「……さぁ、これで話は終わりだ。名探偵」と、ラミロは芝居がかった声色で言った。「それで、この事件の犯人はいったい誰かな?」


 彼は答えを聞くまでもないという顔をした。

 ラウダの答えも決まっていた。


「動機は、どうすればいい」

「あぁ、そうだな……。シンプルにクレアに、好きな娘に手を出されそうだったから、というのでどうだろう。俺は情熱的な青年役だ」


 ラウダは別れを惜しむ気持ちに蓋をして、無理やりに微笑んだ。


「それなら、演じるまでもないんじゃないかな」


◇◆◇


 その事件の幕切れは、始まりを思えば呆気なかった。

 不条理に奪われるはずだったものが返ってきて、表層にあるあらゆることが因果応報に決着した。裁判が始まる時間を押して、ラウダと共にレムバンが農場に戻ってきたとき、クライヴもカルラもイムカも、幻を見ていると思った。かたく抱擁を交わすまでなにも信じられなかったが、その直前にはこれが幻でもいいと彼らは思った。だからどうか、この時間を永遠にしてください、神様。


「ああ、本物だな? 夢じゃないよな?」


 クライヴはそう言って、一時間前にレムバンがラウダにやったのと同じようにして息子の存在を確かめた。


「あぁ、親父。母さん、イムカ……帰って来た。俺、生きてるよ……」


 ラウダはどこか遠慮がちだった。無事の再会を祝福する家族から一歩引いたところに立って、この最高の結末を見届ける観客の複雑な顔で立っていた。イムカがこっそりそのわけを尋ねると、彼は「あとで話すよ」と言って、さきに事件の真相について家族に話した。

 その話を聞き終えるや否や、クライヴが腹を立てた。


「なんてことだ……! ザウアーの倅め、俺の息子まで殺す気だった!」

「悪魔のような子だわ……!」と、カルラまでが忌々しく言い放ち、両手を組んで祈りの言葉を口にした。

「ラミロの処刑は今日中に行われる」ラウダは淡々と言った。「いま、広場で絞首台が作られているところだよ」


 クライヴが力強く頷いた。


「こうしちゃいられん。いますぐ手伝いに行かなけりゃ。そして悪人に天罰がくだる様を見届けてやるさ」

「親父、俺も行くぜ」

「みんなで行きましょう」と、カルラが言うと、異口同音に賛同の声が上がった。


 イムカは一人だけ声をあげなかったラウダを振り向いて首を傾げた。

 彼らは馬車に乗って村の広場へ向かい、そこで兵士たちに申し出て絞首台の組み立てに参加した。絞首台の設計は土台からしっかりとしたつくりで、丈夫な骨組みを四方の壁が盤石に支えた。


「これなら悪魔も逃れられまい」と、クライヴが保証した。彼も、誰も、人を殺すための装置を作っているとは考えていなかった。


 ラミロ・ザウアーの処刑は夕暮れの空の下で、大勢の見物人に囲まれて行われた。イムカは途中からラウダの姿が見えないことに気付いていた。彼の姿を探す彼女に、兄は「目を逸らすなよ」と言った。彼女はもちろんそのつもりだったが、執行人が振り上げた斧が振り下ろされる瞬間、恐怖から目を瞑ってしまった。

 彼女は固く閉じた瞼の裏で、絞首台のからくりを始動させるロープが切られ、罪人の足場が開く音を聞いた。罪人の首に繋がれたロープがピンと張って、苦しみもがく呪われた声と、ロープが揺れ、梁が軋む音を聞いた。大勢の罵声と歓声を聞いた。平和を取り戻した村中が狂喜していた。

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