『檻のなか』・中

 それは、硬い刃と鋭い切っ先を持っただった。

 油絵具を混ぜ合わせたり、筆の代わりにしてキャンバスに絵具を塗ることにも使う画材で、ものによって刃の硬度などに違いはあるが、ラウダが見つけたそのパレットナイフは、人の肉を衣服ごと刺し貫くのに十分な性能を持っていた。

 ラミロ・ザウアーは後ろ手に、静かにドアを閉めた。


「いま、下で紅茶を用意してもらってるんだ」と、彼は言った。


 カチッという音が鳴った。ドアを施錠する音だった。ラミロは満面の笑みで、ラウダのほうへ歩みを進めた。


「きみの好みがわからないから、茶葉は俺の好みで選ばせてもらったけど……よかったかな?」

「あ、あぁ。うん……俺は、なんでも……」

「それならよかった」


 ラウダは無意識にパレットナイフを背中に隠した。


「それ、どうするつもり?」ラミロが鋭く睨みを利かせた。「絵を描くのに使う道具だよ、珍しかったかな」


 ラウダは一歩後退した。尻が台車にぶつかって、けたたましい音を立てた。


「倒さないでくれよ。片付けるの、面倒なんだ」その声は次第に、おぞましい響きを含んだ。

「きみが」と、ラウダは強張った唇を動かした。「……オゼイをやったのか」


 ラミロが足を止めた。室温が一気に下がった気がした。


「なんのことかな」

「……知らないはずはない」と、ラウダは顎を引いた。

「昨日の件だろ?」と、彼は微笑んだが、目は笑っていなかった。「もちろん知ってる。でも、俺がなんだって? 彼を殺した? 本気で言ってるのか?」


 冷や汗が、ラウダの額から頬を伝って流れ落ちた。二人の距離は三歩ほどしか離れていなかった。


「ラウダ、きみは知らないかもしれないけど、オゼイさんはとんでもなく強い人だったんだよ。昨日、朝食をご一緒してね。武勇伝をたくさん聞いたんだ。俺なんか、蟻んこみたいに踏みつぶされておしまいさ」


 ラウダは重圧を感じていた。ぞくぞくした寒気がして、鳥肌が立った。


「でも、俺は知ってる。このパレットナイフが凶器だってこと……。持ち主が君なら――」

」彼は苛立って舌打ちをした。「知らないって言ってるだろ。それに、聞こえなかったのか? 俺じゃ無理だって」

「でも――」

「ねぇ、絵の依頼に来たんだろ。いい加減、その話をしようじゃないか」


 二人の距離は変わらずに三歩のまま。体格も、体力も負けていないという自負がラウダにはあった。だというのに、刃物を喉元に添えられているように生きた心地がしなかった。彼は深呼吸をした。喉の筋肉が痙攣した。


「東側の塀――」と、彼は乾いた唇を舐めて続けた。「塀の上のところに、血痕が付いているのを見つけた」


 ラミロの肩がピクリと跳ねた。


「きみはオゼイを殺したあと、血のついた手で塀を登った。そして、人目を避けたかったきみは、正面玄関を使わなかった。ロープか何かを使って、二階か三階の窓から領主館に逃げ込んだんだ。凶器もきみの部屋から見つかって、死体の傷口と照らし合わせれば、刃型も一致するはずだ」

「……面白い想像だな」

「想像じゃない、事実だ」


 窓から陽の光がさしてきて、ラウダの背後から足元までを照らした。空気中の埃が活き活きときらめいた。


「ロープか……、ロープね……」と、ラミロは考え込んだ。「それは俺がオゼイを殺して戻ってくるまで、ずっと吊るしてあったのか? 誰かに見つかって、怪しまれたり、片付けられたりしたら大変だろうに」

「きみには共犯者がいた」と、ラウダは指摘した。「。彼らはきみの犯行をそれぞれでサポートした」


 ラミロは目を丸くしたが、すぐに険のある顔になった。


「馬鹿馬鹿しい。なんのために? 俺がどうしてオゼイを殺さなくちゃならないんだ? 彼と会ったのは一昨日が初めてだったのに?」

「それはわからない」

「話にならないな」彼は鼻で笑った。「もういいか? 謝れとは言わないが、きみは俺の名誉を傷つけた。絵の話はキャンセルだ。いますぐ出て行ってくれ」

「これは持っていくよ」


 ラウダは右手に持ったパレットナイフを顔の高さに掲げて言った。


「いいわけないだろ」と、ラミロが目を剥いた。「ぬ、盗みじゃないか……!」

「領主様のところへ持っていく。そこですべて話す。領主様が興味を持ってくだされば、きみはいまみたいに澄ましていられなくなるぞ」

「そう簡単に会えるわけないだろ。だが俺は違う。そんなことをしてみろ、俺が先にお前を盗人だと言って突き出してやる」

「会えさえすればそれでいい」

「イカレてるのか?」

「なんとでも思えばいいさ」ラウダはきっぱりと言った。「だけど、きみには言われたくないよ。人を殺したきみにはね」

「……本気か」ラミロの顔が曇った。

「ああ。しらばっくれようとしても無駄だぞ、この村に絵を描く道具を必要とする人間がどれほどいるか……」

「くく……」


 と、ラミロの忍び笑いが日当たりのいい部屋に反響した。


「そうだよな。おかしいよな。ああ、なんで気づかなかったかな……。甘えたんだろうな、同情しちまったんだよな。徹底すべきだったのに。でもさ、バレてるなんて思わないだろ、普通にさ。誰も気づかなかったんだ、父上も、アールベックも、モローも、その騎士も……当然だよな。わかるはずがないんだよ、それなのに……」


 彼は片手で目元を覆い、途中から苛立った笑みを口元に浮かべていた。笑みをこらえるためか震える息を吐き出すと、ゆっくりと彼の喉仏が上下した。


「――なんなんだよ、お前」


 ゾッとするような声でラミロは言った。


「……じゃあやっぱり、オゼイはきみが殺したのか」


 まだ半分信じられない気持ちでラウダは言ったが、もはや信じる信じないの話ではなかった。いま目の前に立っている青年は、とっくに彼の知るラミロ・ザウアーではなく、殺人犯だった。その証拠に、ラミロの瞳は狂気の光を宿して爛々と輝き、真実を知った者をとり殺さんときつく睨んだ。


「それがわかったからここに来たんだろ? なにをいまさら……」

「……そうか、そうだな」と、ラウダは悲しそうな顔をした。「俺は、非の打ちどころのない推理によってきみに辿り着いた……、だからここにいる。そうじゃないといけないんだ」

「わけのわからないことをぶつぶつと……」


 ラミロはこめかみを押さえ、ややあってその手を差し出した。


「……そいつをこっちによこせよ」

「……無理だ」と、ラウダはパレットナイフの柄を強く握った。

「それを持っていけば、俺は処刑されるだろうな。お前はわかってるのか?」


 その一言はラウダの胸に突き刺さった。心の準備はしてきたつもりだったが、自分の選択で人が死ぬということは、想像を絶する苦悩だった。


「だがきみは、レムバンとコーバスさんを生贄に捧げた」と、ラウダは辛うじて静かに言い返した。「罰は、罪を犯した者が受けるのが筋じゃないのか」

「……ごもっとも」


 ラミロは罪悪感に思い当たって剽軽に肩を竦めた。

 そして、ドアをノックする音がした。二人は互いに沈黙した。


「坊ちゃん、お飲み物をお持ちしました」


 ドアの向こうから涼し気で、若くハリのある高い声が聞こえた。だが、その声はどこか虚しくもあった。

 二人は見つめ合っていた。ラウダは、相手の瞳が動揺に揺れるのを見た。


「……坊ちゃん?」と、ドアの向こうの声は言った。

「ああ、いるよ。そこに置いて行ってくれ」ラミロは僅かに振り向いて応じた。

「ここに……ですか?」


 少女の声は明らかに困惑していた。


「そうだ。いまはちょっと……」と、ラミロはラウダから目を離さないで言った。「手が、離せないんだ。筆が乗ってて」

「お客様は……」

「彼は帰ったよ。いいから、他の仕事にお戻り」


 少女は異変を感じていたが、主人の言葉には従順だった。


「……はい」という声がして、気配は去った。


 二人はしばらく無言だった。

 ラミロが怯えているのがわかった。ラウダの脳にしびれが走った。

 ――いったい何に?

 ドアには鍵がかかっている。使用人はドアを開けて入ってこれなかった。彼はこの状況を使用人に見られたくなかったわけではない。

 ――逆だ。

 ラウダは両目を細めた。


「彼女、なんだな……」


 次の瞬間、ラミロが突如として襲い掛かった。


「よせ!」


 ラウダは叫んだが、ラミロは止まらなかった。当たり前に素人丸出しの突進は、両腕を大きく開いた構えで隙だらけだった。躱すこともできたが、ラウダはそれをしなかった。正面から迎え撃ち、腹部に重たい衝撃をもらって踏ん張った声を出し、びくともしない強靭な足腰で完全に受け切った。


「きみじゃ無理だ……!」

「くぅ……!」と、ラミロはうめき声をあげた。


 彼は諦めずに腰を折り曲げ、頬をラウダの身体に押し付けた。彼はラウダの身体を持ち上げて転ばせようと必死だったが、徐々に力尽き、最後はラウダの慈悲深い一撃を背中にもらって床に膝をついた。

 パレットナイフだけは絶対に奪われまいと、頭上に振り上げていた右の拳を振り下ろし、華奢な骨格の反動を感じたとき、ラウダは自分が殴られたわけでもないのに悲鳴を上げた。


「かえ、せ……、ラウダ……!」


 ラミロは背中を殴られた衝撃で咳き込みながら、ラウダの脚に縋りついた。


「なんで人殺しなんか……!」と、ラウダは甲高い声で言った。


 感情的な苦しさで息が上がり、彼は泣きそうな顔になった。


「――坊ちゃん!?」心配する声と共に、ドアが激しく叩かれた。「どうされたのですか、誰かいらっしゃるのですか!?」


 ラミロは一瞬、泣き笑いのような顔になった。それからふっと息を吐き、肩と腕から力を抜くと、膝立ちの姿勢を崩して床のうえに胡坐をかいた。


「なんでもないよ」と、彼は出来るだけ優しい声で言った。「ベッドの角に小指をぶつけて、派手に転んだだけさ」

「お怪我はありませんか!」


 ドアの向こうの声は必死だった。ラウダは、ラミロの横顔を見てハッと息を呑んだ。


「平気だよ。なんともない。ちょっとじんじんして、涙が滲むくらいで……」

「そうですか……安心しました。気を付けてくださいね」

「ああ……」彼のまつ毛は陽光を反射して、ゆっくりと上下した。「もうお戻り」

「はい」


 少女の声は前よりもはっきりと返事をした。

 部屋の中の二人はこれまでで一番長い時間黙り込んで、たっぷりと心の中を整理した。


「……紅茶」と、ラミロが口を開いた。「飲まないか」

「うん……」

「とってくる」


 彼は立ち上がって、ドアのところまで歩いて行った。鍵を開け、廊下の気配を窺うようにドアを開いていく。ティーポットとカップ、ソーサー、スプーン、砂糖などが乗ったトレイを持って戻ってくる。


「そこの椅子、座れよ」彼はイーゼルの前に置いてある椅子を見て言った。「俺はベッドに座るから」


 ラウダは黙って言われたとおりにした。三脚の、木製の丸椅子だった。ラミロはベッドに座ると横にトレイを置いて、手際よく紅茶を二人分用意した。


「少し冷めてるけど、飲みやすいだろ。ほら、きみのぶんだ」

「ありがとう。……本当だ、少しぬるいな」

「毒なんか入ってないから、安心して飲めよ」と言って、彼は自分のカップに口をつけた。「……うん、うまい」


 ラウダも一口紅茶を飲んで、頷いた。品のある香りが鼻を抜け、奥深い味が口いっぱいに広がって、コクと渋みが舌の付け根で感じられた。


「紅茶、母が好きなんだ」と、ラミロはカップの中身を見つめて言った。「長いこと病床に臥せっていて、楽しみがこれくらいしかない。可哀そうな人でさ……」


 彼はカップの残りを一気に呷って、ソーサーと一緒にトレイに戻した。


「オゼイは俺が殺した。認めるよ」

「……そうか」


 ラミロは居住まいを正した。


「そのうえで、頼みがあるんだ」と、彼は頭を下げた。「俺一人の犯行だってことにして欲しい。共犯は居ない。きみが黙っていてくれたら、俺は手口をすべて明かして自首する」


 ラウダは彼の頭頂部から顔を逸らした。こうなることは読めていたのに、彼の想いを知っても、返事は簡単ではなかった。殺人に関与した人間を見逃すかどうかの選択を、自分の一存で決めるのは正しくないことだと思ったが、それは違った。情けをかけるだけの理由が見つからないだけだ、と彼は思いなおした。


「……自分の命を差し出してまで共犯者を庇おうとする。きみがオゼイを殺したのは、共犯者たちのためなんだな」

「そうだ」

「事情を聞かせてくれないか」


 ラミロは頭を下げたまま、苦しそうに言った。


「共犯者を明かしたくない」


 彼はそう言ったが、領主館の使用人のなかから、先ほどの少女を見つけ出すことはそれほど難しくないとラウダには思えた。あと一人の共犯者も、関連する人物を手当たり次第に当たって行けばいずれ見つけ出せると思ったが、ラウダはそのアイデアを頭の中から消し去った。


「わかってる。だけど事情も知らずに快諾は出来ない」


 ラミロはそろそろと背中を伸ばした。


「俺が正直に話したら、きみは提案を呑んでくれるのか?」

「……わからない」ラウダは正直に言った。「俺だってきみを信じたい。でも、そのための材料はどうしても必要だ」


 大きなため息が聞こえた。ラミロは腿に肘をついて背中を丸めて頭を垂れ、額の前で両手を組んだ。


「一つだけ、訊いてもいいか」

「うん」

「ラウダきみは、自分の最愛の人が理不尽な理由で誰かに苦しめられていて、その誰かが死ぬことでしか愛する人を救えなかったとしたら、どうする」

「その誰かを殺すだろう」と、ラウダは即答した。


 ラミロは顔を上げてぽかんと口を開け、笑い出した。


「俺は本当に、きみのことをなにも知らないんだな」

「お互い様だよ」

「そうだな。もっと仲良くしておけばよかったよ」と、彼は寂しく微笑んだ。


 彼は死ぬ。俺が殺す。ラウダはその二つを事実として心に刻んだ。


「聞かせてくれ、ラミロ。きみがなぜ、オゼイを殺さなくてはならなかったのかを」

「ああ、話すよ」と、ラミロは頷いた。


 彼は自分の使ったカップに二杯目を注いで、ソーサーごと膝の上に持ってくると一口飲んだ。


「ことの発端は昨日、うちの使用人スザンヌ・マギスンの存在がオゼイに気付かれ、彼女が脅されたことにある。彼と彼女には因縁があった。俺も昨日、彼女からその話を聞かされて初めて知ったよ。それは俺の小さいころから館にいる彼女の、人生の話だった。同時に、胸糞の悪くなる話だった。オゼイがこの村に来なければ、こんなことにはならなかったんだ。言っても仕方がないけどね」


 でもこれだけは言わせてほしい、と彼は暗い目をした。


「あの男は、死んで当然の人間だった」と、本題の語り出しはそうだった。

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