Part.4 『みんな呪われて生まれる』

『檻のなか』・上

 太陽は翌朝も東からのぼった。

 一人足りないメルキン家の今朝の食卓は、いつもと変わらない食前の祈りから始まろうとしたが、クライヴの唱える聖句が早朝の静謐な空気にさらに神聖な気配を加えると、カルラが静かに泣き出した。イムカが彼女を抱きしめて宥めたが、クライヴは祈りを中断することなく最後まで続けた。

 彼の声に抑揚はなく、瞳から輝きは失せていた。彼は朝食のあとすぐに畑へ出て行ったが、その後ろ姿を見てラウダは強烈な不安に駆られた。そのまま叔父はどこか遠くへ行ってしまって、もう帰ってこないかもしれないと思った。あるいは、肉体が帰ってきても、魂が帰ってくる保証はないという気がした。


 泣いている妻に一言もなく、叔父が母屋を出て行ったあの瞬間、彼は家庭に背いたのかもしれない。そうだとすれば、家族がバラバラになるのも時間の問題だろう。そんなことがあっていいわけがない。


 ラウダは朝食のあと、はなれに戻って準備をした。なにがあっても絶対にやり遂げるという固い決意と、倉庫に眠っていた短剣を護身用として衣服の下に忍ばせた。

 なにしろこれから殺人犯と対峙する可能性があるのだから、危険がないとは言い切れない。出番がないことを願っているが、もしものときは躊躇わない覚悟だった。


「行くのね」


 ラウダがスリスリに鞍を着けていると、家畜小屋の入り口にイムカが立った。


「うん」と、ラウダはスリスリの腹帯を締めながら答えた。「おばさんのほうは? こっちへ来て平気なの」

「いまは落ち着いてるわ。朝食は喉を通らないみたいだけど……」

「そっか……」


 ラウダは暗い表情で頷いたが、手は止めなかった。鞍がしっかり装着されたことを確かめて、スリスリを馬房から連れ出した。

 イムカが入り口の脇へ退いて、ラウダとスリスリが家畜小屋から出ると、彼女は言った。


「……ねぇ、やっぱり私も」

「だめだ」と、彼は遮った。「きみまでここを離れたら、叔父さんやおばさんのことを見ていられる人がいなくなる。二人はいま、とても不安定だと思うから」

「そうだけど、あなたは危なくないの?」


 真剣に見つめられて、ラウダは首を横に振った。


「わからない。でも、二人で行ったところで危険であることに変わりがないなら、俺は一人のほうが良い。一人のほうが、都合がいい」

「人前でアレをやるつもり? そんなのだめよ」

「そんなつもりはない。一人のほうが逃げやすいって話であって……」

「本当ね?」

「本当だよ」


 スリスリが「ぶるる」と鳴いた。ラウダが家畜小屋へ戻っていって、隅に積まれた餌箱のひとつから人参を取り出し、持ってきて与えた。


「お願いよ。昨日みたいな無茶はやめて」

「……わかったよ」


 ラウダは嘘を吐きたくはなかったが、彼女を安心させるために頷いた。彼女も頷き返して、彼が馬に乗りやすいように少し離れた。


「じゃあ、行ってくる」と、彼は鐙に足をかけて乗馬する。

「行ってらっしゃい」と、彼女が言ったが、彼は振り向かずに走らせた。


 スリスリは勢いよく飛び出して、あっという間に中庭を出て農道に入り、畑のあいだを駆け抜けていく。ラウダは何枚かの畑を通り過ぎると、防風林の木陰のなかで速度を緩め、前方に広がる林地帯をまっすぐ目指した。

 彼に恐ろしいものがあるとすれば、それは自分の命が危険にさらされることではなかった。


◇◆◇


 馬を休み休み走らせて林道を抜け、大通りを中ほどまで進んで止めると、彼は鞍上から領主館を見上げた。彼と館のあいだには、領主館の四囲にめぐる高いレンガ塀が立ちふさがっているが、大通りに面して、かつ領主館の正面玄関から直線上に位置する部分にはアーチ梁を備えた二つの入り口が開いている。


 彼が知る限り、レンガ塀を登る以外の方法で敷地内に入るには、そこを通るほかにない。だが彼はここまでの道中に寝不足の頭で考えた手順通り、まずは塀に沿って領主館のまわりを時計回りに一周してみることにした。


「ここだ」と、彼は塀沿いに名無し通りを三割ほど進んだ見覚えのある地点で止まり、人ひとり分の横幅に範囲を絞って、塀の壁面にくまなく目を凝らした。

 下から上へ、這うようにして観察する。塀のてっぺんに近い高いところはスリスリの体高を生かして、なるべく丁寧に見ていった。


 やがてそれは見つかった。直前に素通りしたある一点に引き戻されて、彼の視線が釘付けになる。そこにはレンガを住処にしている黒カビや苔に擬態するかのように、黒ずんだ血痕が微かに付着していた。


「あったぞ……!」彼は小さな声で快哉を叫んだ。「これでもって理屈が揃えば、それなりの説得力は生まれるはずだ」


 彼はひとまずの収穫を得て安心したが、即座に次を見据えてスリスリを歩かせた。塀に沿って残りの七割を進み、名無し通りを横道に折れると、大通りから正面入り口前へと戻った。オゼイを殺した犯人がどのように現場から逃走し、どこで息を潜めていたのか。情報は着々と集まっていた。

 残る課題は肝心の“犯人”と、犯行に使われた“凶器”だけ。


「俺の考えと、手がかりが示す通りなら……」


 彼は確信が唇からこぼれ落ち、手品みたいに消えてしまうのを恐れて口を閉じた。それから馬を降り、手綱を引いてスリスリと一緒にアーチ梁の下をくぐった。


 領主館を上から見下ろしたときの概形は、東と南に長い辺をもつで、アプローチから玄関に向かって左手側の二階と三階部分のみ、西側にせり出したつくりになっている。この二階と三階部分は外から見ても比較的装飾が凝っていて、窓は黒染めの鉄枠に、透明度の高いガラスが嵌っていた。一階部分はピロティが馬繋場を兼ねており、ラウダはそこにスリスリを繋いで玄関へと向かった。


 領主館へは何度か来たことがあったが、今度の訪問は過去のどの記憶にも当てはまらなかった。この建物は田舎の建物にしては厳かで、風格があって、訪問客を多少なりと委縮させるようにできていたけれど、彼の緊張はそこからくるものではなかった。

 彼は昨晩、悪あがきの末に確かになにかを掴みとり、この場所へと導かれた。

 だが、自分の掴んだものがどこへ繋がっているのかはわからなかった。事件の真相へ辿り着くことを信じているが、こんなことをしても無駄なんじゃないかと囁く声も聞こえてくる。


 彼は本当に恐ろしかった。

 期待した成果がここで得られなければ、レムバンは無実の罪で裁かれる。もう一人の被疑者、狩人コーバス・リストに関してもまったく同じだった。彼らが揃って無罪であることが、ラウダにとっては明確な事実であるだけに、そうと知りながら彼らの死を迎えることになれば、それは見殺しにしたも同然なのだ。


「……犯人は別にいる」


 彼はドアに備え付けられた真鍮製の叩き金を三回鳴らした。数歩下がって応答を待っていると、しばらくしてドアの向こうから人の声が聞こえてくる。


「はい、どちら様……」と、観音開きのドアの片側を半分開いて、マリアンヌ・ソーヤーはよそ行きの顔からたちどころに悪趣味なにやけ顔になった。「なんだい。メルキンのとこの下の小僧じゃないか」


 彼女は彼女の主人と違って、メルキンの人間を特別に毛嫌いしているわけではなかったけれど、感情的で怒りっぽく、自分が優位に立たないと気が済まず、人を傷つける言葉を平気で吐いて、あとで密かに後悔するが、その一切合切を数時間のうちに忘れてしまえる人間だった。

 そのためか我の強い者が多いメルキン家の面々とは基本的に相容れないが、ラウダの個人的な好き嫌いはさておいて、控えめな彼はまだ気に入られているほうだった。


「なんの用だい。深刻そうな顔して、身内に不幸でもあったかね」


 彼女はちょっとした意地悪のつもりで言ったが、ラウダが真顔でいるのを見てさすがに不謹慎だと感じたのか、仏頂面でごまかした。彼女が自らの非を認めて謝るところを一度でいいから見てみたいと彼は思った。


「まさか、貴族様に談判しに来たってんじゃないだろうね」

「いえ、俺はそんなことを考える命知らずじゃないですよ」と、彼はドアを閉められないように慌てて首を振った。「その……絵の描ける人を探しているんです」そこでようやく決めていた一言目が声になると、あとはすらすらと続いた。「ご存じの通り、従兄のことで……。絵でもいいから、あいつを形に残しておきたくて。ここに絵描きがいるって聞いたんです」

「ふん。まぁ……、さすがに諦めるしかないか」


 マリアンヌは面白くなさそうに唇を尖らせたが、絵描きの存在を否定しなかった。はてさていったいどんな極悪人が出てくるか、と緊張が高まり、ラウダの手が無意識に隠し持った短剣へ伸びる。


「にしても、あんたとは意外だね。?」

「……え?」と、彼は固まった。「いま、……なんて言いました?」


 マリアンヌが怪訝そうな顔をした。


「なんだい、違うのかい。坊ちゃんは絵のことに関して、あちこち言いふらすようなことはしてないはずだがね。……まったく、誰から聞いたんだか……まぁいい。死体に鞭打つほどあたしも鬼じゃない。少し待ちな、取り次いであげるよ」

「いや……、あの……」


 彼は混乱していた。領主館で“坊ちゃん”と呼ばれる人物に、心当たりは一人しかいない。


「でも、そんな……」

「なにさ、急ぎなんだろ?」マリアンヌが首を傾げる。


 ラウダは目顔いっぱいに動揺を浮かべて彼女の顔を見つめたが、視界に入るすべての景色が意識の外側にあった。

 だって、そんなはずはない。親交があるとは言えないけれど、歳が近くて、彼のことなら昔から知っている。


「どうしてだ……。きみが関係してるのか、ラミロ……」


 信じられない。信じたくない。

 しかし身体は落ち着いていた。相手があの線の細い青年なら、自分の力で十分に抑え込める。もし彼が襲い掛かってきても、衣服の下に隠し持った短剣を使わずとも容易に対処できるという冷淡な分析に基づいた自信が、手足の指先にまで行き渡って充足していた。


「ちょっとあんた、頭がおかしくなったのかい」

「大丈夫、大丈夫ですよ。俺はまともだ」


 ラウダは今回の一件で従兄が受けた仕打ちを思い浮かべて、怖気づきそうになる心に殺伐とした杭を穿った。


「お願いします、マリアンヌさん。ラミロに会わせてください」


 そう言った彼の表情には妙な迫力があった。マリアンヌは、凶暴な野生動物に遭遇した時のように彼から目を逸らすことが出来ず、黙って頷くと慎重に扉を閉めた。

 数分後、彼女が戻ってくるとラウダは確信を深めた。


「坊ちゃんが会うと言ってる。来な」


 領主館に入るのは久しぶりだった。村の外から必要な物資を取り寄せてもらうために、最低でも年に一回はラウダかイムカがクライヴの代理としてお使いに出されるが、今年はこれが初めてだった。

 彼はマリアンヌが階段に向かっていることに気が付くと、困惑して足を止めた。


「応接室じゃ……?」と、ラウダは領主館に入ってすぐの玄関ホール中央に立ち尽くし、西向きに伸びる一階の廊下を見た。


 彼がいつも通される南向きの広い部屋はあの廊下の途中にあって、その他の場所に出入りすることはこれまでなかった。今日のこの訪問の大まかな一部始終を、昨年の記憶を頼りに想定していた彼は、手のひらに嫌な汗をかき始めた。


「坊ちゃんは、あんたをお部屋に通してくれとさ。旦那様に見つかると面倒なんだ、いいから急ぎな」


 マリアンヌはとげとげしく言ってラウダを促した。

 彼は仕方なく彼女のあとを追いかけたが、階段をのぼっているうちにこれは悪い展開ではないと思い始めた。ラミロがどこで絵を描いているのかはわからないが、応接間ではないことは確かだった。


 初めて使う領主館の階段は変わった動線で三階へと続いていた。マリアンヌは言葉通り、イルジアとばったり出くわすことを恐れているようだった。ラウダは領主館上層の間取りを記憶しようときょろきょろしていて不審だったが、目的地に至るまで、彼女はついに一度も彼を見向きしなかった。


「ここだよ」と、マリアンヌは一枚のドアの前で止まって言った。「坊ちゃん、ラウダ・メルキンをお連れしましたよ」

「ああ。入ってもらって」


 マリアンヌがラウダを振り向き、「行け」と顎で指図した。

 ラウダは不安と緊張で喉つまりを起こさないように、思いきり深呼吸をしてからドアを開いた。

 つん、と絵具のもとになる顔料独特の匂いが鼻を突いた。彼は震えだしそうになる足を奥へと進めた。もう間違いなかった。


「こんにちは、ラウダ」と、ラミロは愛想のいい笑顔で彼を迎えた。「マリアンヌから聞いて驚いたよ。俺が絵を描いてるって、誰から聞いたんだ?」

「……誰だったかな」


 さりげなく部屋の中を観察しながら、ラウダは答えた。


「行動範囲が広くないから、身近な人だったと思うけど……」

「ふぅん……。その感じじゃ、最近知ったってわけでもなさそうだな」と、彼は考え込むようにして、また微笑んだ。「悪い。細かいことを気にしてると思うだろ? けど驚いたんだ、本当に。自分で言うのもなんだけど、絵を描き始めてもう結構長いし、そういうこともあるかとは思うけど……」


 ラウダは内心の焦りを悟られないために、曖昧に笑った。ラミロはまだこちらの目的に気づいていないが、気は抜けなかった。

 発言の一つ一つに注意を払おうとすると、どうしてもほかのことが疎かになる。


「……隠してるの? その、絵を描いてること」

「隠してるっていうか、……父がうるさいからね。いまは趣味の延長でしかないし、自分から広めるようなことをしてないんだ。ま、そうは言っても領主館の人間は全員知ってると思うし、風のうわさっていうのもなかなかに侮れない。特に、ベラングラーシェみたいな狭い集落じゃさ」


 ラミロは苦々しく笑った。どうやら気を遣う話題らしいと察してラウダが口をつぐむと、会話が途切れた。


「……飲み物でも頼もうか?」と、ラミロが気を利かせた。

「え、いや俺は……」

「遠慮するなよ」と、彼ははにかむ。「実は俺も緊張してるんだ。ラウダとこうして話す機会なんていままでなかったし、仕事として絵を依頼されるのも初めてだしさ。くつろいで待っててくれよ、よかったら俺の作品でも見ててくれ。過去の作品は部屋の隅にまとめてあるのがそうだから、そっちもどうぞ」


 彼が視線で示したのは、部屋の北西の角に置いてある分厚い布で覆われた大きな木箱だった。期待の眼差しでじっと見られて、ラウダが箱に近付き布を捲ると、そこには何枚ものキャンバスが保管されていた。


「じゃあ……、えっと。ごゆっくり」


 箱の中から適当に一枚を引き抜こうと、ラウダが宙で手を彷徨わせていると、ラミロは部屋を出て行った。自分の創作物が本懐を遂げようというときに気恥ずかしくなってしまう感覚は、創作をやった者にしかわからない。


「どんくさい感じになったけど……。部屋を物色するならいまのうちだな」


 この部屋に入ったとき、殺人に使われた凶器がこの場所から持ち出されたものであることが確定した。犯行のあとで犯人が凶器をもとの場所に戻したかどうかはわからないが、昨日の晩に行われた現場周辺の捜索でなにも見つからなかったことを考えると、その可能性も十分にある。


 ラウダはすんと鼻を鳴らし、瞼を閉じてよく利く鼻に集中した。

 部屋中に充満した濃い絵具の匂いのなかから、ある匂いだけを嗅ぎ分ける。昨晩のように、いまよりももっと正確に、強力にそれをやってのける方法はあったが、イムカと交わした約束が彼を思いとどまらせた。


 このままでも十分だ――過信ではなくそう思ったが、焦りはあった。ラミロが部屋を出て行ってからどれほど経った? いや、考えるな。集中しろ……!

 この空間は、控えめに言って頭の痛くなるような匂いで渋滞している。出し惜しみをしている場合ではないんじゃないかと考え始める。ここで力を使って、戻ってきたラミロに見つかる。ただでは済まないだろう、だとしても――

 彼は目を見開いた。


 目の前には絵を描くための様々な道具が積まれた台車があった。バリエーション豊富な筆、パレットといったわかりやすいものから、櫛やヤスリといった何に使うのかわからないようなものまで、あらゆる道具が持ち主独自の法則できちんと分けて置いてある。


「やっぱり、ここか」


 ある程度の目星はつけていた。ラミロの部屋の中にあるもので、人を殺せるようなもの、が紛れられそうな場所。

 近くにはイーゼルがあって、まっさらなキャンバスが立ててある。台車は二段になっていて、それぞれの段が物で溢れていたけれど、を見つけ出すために鼻を使う必要はもうなかった。引き寄せられるように手に取って、納得するために匂いを嗅いだ。


「……これだ」


 そのとき、背後で物音がした。


「――それがどうしたって?」と、体温を感じない声が響いた。


 ラウダはゆっくりと振り向いた。どんよりと暗い、二つの瞳が彼をつかまえた。

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