『遺児たちの奮闘』・下
そうだ、とラウダは思い出す。
考えるより先に身体が動く。昔から、そういうところのあるやつだった。
だけど、常に本当に大事なことを優先できるやつでもあった。
「行かないと」と、彼は目を開けて言った。
両耳を塞いでいた手のひらを外すと、夜の静けさが広がった。
一家は母屋に集まって、それぞれの思いにひたりながら、ラウダが声をあげるまで黙っていた。
「そうだわ」と、イムカが頷いた。「なにかの間違いだって、お父さんも言ってたじゃない。私たちがお兄ちゃんを信じないで、誰が信じるの!」
意見の合った二人の視線が空中でかちあって、彼女のほうから視線を逸らした。
ラウダが彼女の声を聞いたのは数日ぶりのことだったけれど、色んな意味で素直に喜べる状況ではなかった。
――レムバンが見つかった。
急使がやってきて、そう告げたのが半時ほど前。ドミニク・ボランともう一人の男は、知らせを聞くなり農場を飛び出して行ってしまった。
『被疑者は懐に小刀を……』
『野次馬のなかに紛れていて、声をかけたら逃走を図り……』
『拘束して、話を聞こうと試みたのですが……』
急使の兵は手際よく事情を話し、ドミニクともう一人は思い思いの反応を見せた。そのときのほんの一瞬の光景に、ラウダは妙な引っかかりを覚えていた。
彼は一家を見回した。
「凶器は小刀なの?」
「……いや。騎士様は“小型の刃物”だと言っていた」と、沈鬱な表情でクライヴが答えた。「でもあのバカ、どうして小刀なんて……」
いつかの晩の出来事が、ラウダの脳裏をよぎった。
「木彫り細工だ。近頃、凝ってるって言ってた」
「……木彫り細工?」と、カルラが目を瞬いた。
「うん。俺が見せてもらったのは兎だった。あと、マーシャが確か、キンポウゲのブローチを持ってるよ。彼女へのプレゼントにちょうどいいんだって」
「どこまでも色ボケやがって……」
クライヴが吐き捨てたが、その表情には親子に通う情が残っている。
「俺は行くよ。スリスリに乗って行くけど、いいよね」
「私も行くわ」
「待て!」と、クライヴが大声を出した。
ラウダに続いて母屋を出ようとしていたイムカが怒った顔で振り向いた。
「いい加減にしてよ、お父さん! お兄ちゃんが本当に人を殺したとでも思っているの!?」
「そうじゃない」と、彼は椅子から立ち上がる。「馬車で行こう。俺が運転する」
声にいつもの調子が戻り始めていた。
ラウダとイムカは喜色をあらわにして互いの顔を見合わせた。
「カルラ、悪い。留守番を頼めるか」
「ええ」
「……すまん」
妻は夫の頬に手を触れて、微笑みながら首を振った。感情の伝達には微妙なニュアンスの違いで齟齬が生じる場合を除いて、本来言葉に大した力はないのだと夫は感じた。
「あの子たちのこと、よろしくね」
クライヴは黙って頷いた。
「俺は馬車の用意をするよ」と、ラウダが言う。「イムカはスリスリを中庭に出しておいて」
「わかったわ」
若い二人が母屋を出て行くと、その後ろ姿を見てカルラは微笑した。彼女は夫の肩に頭を傾けて乗せ、夫は彼女の痩せた肩を優しく抱いた。
◇◆◇
彼らが夜道を急いでベラングラーシェの村に到着したとき、事件の発覚からすでに四時間ほどが経過していた。
クライヴが大通りに馬車を乗り入れてまもなく、哨戒中の兵士に停められたものの、事情を説明すると不憫とでも思ったのか現場を詳細に教えてくれた。
「間違いは起こさないでくれよ」と、その兵士は言った。「あんたたちを通したことで、処罰をくらうのは俺なんだからな」
「恩に着るよ」と、クライヴが答えた。
村はほとんど寝静まっていたが、現場に近付くにつれて騒がしくなっていった。四時間前と比べれば数を減らしている野次馬も、反抗的な者や偏屈な老人を残すばかりとなり、放置気味で、周辺の捜索を任された兵士たちは、数人の人手で近くの草むらを虱潰しに探し回ったが、凶器をはじめとした犯人につながりそうな手がかりの発見には至っていなかった。
ラウダたちは大通りと名無し通りを結ぶ、現場近くの横道の角に馬車を止め、そこからは歩いて行った。レムバンの姿はすぐに見つかった。後ろ手に縛られて、両足も縄で拘束されたうえ、二人の兵士に挟まれていた。
彼らが喜び勇んで駆け出そうとするや否や、警備の兵士が近づいてきて、先頭にいたクライヴの進路を大儀そうに妨害した。
「一般人のこの先への立ち入りは禁止されている」
「そこにいる俺の息子に用があるんだ」
彼は畑仕事で鍛えられた、分厚い胸板を膨らませた。高圧的な相手には、彼は絶対に下手に出ることを選ばない性質だった。
「私はクライヴ・メルキン、息子のレムバンが拘束されていると聞いて来た!」
「被疑者の親族か……」と、兵士は眉をひそめた。「ならば猶のこと、ここを通すわけにはいかん」
「息子と話をしに来ただけだ!」
逞しいクライヴが堂々と一歩詰め寄ると兵士は一瞬ひるんだが、槍を握り込んだ拳で彼の身体を押し返した。
「だめだ、だめだ! モロー様よりこの場の警備を任されているうちは、誰であってもここを通すわけにいかん!」
「迷惑になるようなことはしません!」と、父の横からイムカが割り込んだ。「私たちはただ、家族に話を……」
「それが迷惑だと言っているんだ! しつこいとお前たちも拘束するぞ!」
「なんだとぉ!?」
兵士の脅しに屈するどころか、逆に鼻息を荒くするクライヴ。二人のにらみ合いを止めたのは、思慮の深さを感じる重みのある男の声だった。
「どうした、なにを騒いでる」
「は、兵長」と、兵士が振り返り、身を固くして答えた。「例の被疑者の家族がここを無理に通ろうとするもので、押しとどめておりました」
「兵長……。ということは、あんたがここの責任者か」
兵士を押しのけて、クライヴが前に出る。彼は完全に頭にきていた。
ラウダが慌てて追いすがり、そんな彼の肩を掴んだ。
「叔父さん、待って。ここで騒いだら本当につかまってしまうよ」
クライヴはすぐそこに居るレムバンを見て不服そうに唸ったが、いくらか冷静になって肩を落とした。
ラウダは頷いて、兵長を見つめた。
「あの、騎士様は居られないのですか」
「ドミニク卿は領主館に向かわれたはずだ。捜査の中間報告のためにな」
「では、騎士様がお戻りになるまで待ちます」
「それがいいだろう」と、兵長は言った。「我々もこういった事態には慣れていない。どうするのが良いのか、皆わからんから命令を遵守するほかないのだ。悪く思わんでくれ」
ラウダはぺこりと頭を下げた。顔を上げると、憔悴しきった顔でこちらを見つめていたレムバンと偶然目が合った。彼の顔も、服も、土にまみれて、口の端が切れてかさぶたが出来ていた。
「……行こう」と、ラウダは呟いた。
彼らは馬車のところまで戻って、時が来るのを待った。
ドミニクはそれから十分もしないうちに現れた。荷台の上で寒さを凌ぐために三人一塊になっていたラウダたちは、クライヴの「来たぞ」という静かな怒りに満ちた声に立ち上がり、再び現場へ向かって歩いて行った。
「騎士様」と、そう声をかけるのはラウダの役割だった。
振り返ったドミニクは彼らを見て胸を痛めたが、そのことが露骨にならないようにむしろ微笑みかけた。
「……やぁ、来たのか」
「はい」
「レムバンと、話をしに?」
「はい」
ドミニクは返事をしたラウダ、その後ろにいるクライヴ、イムカと、順繰りにそれぞれの目を見て、息を吐く。
「ちょうどいいか……、ここで話そう。きみたちを現場に入れるわけにはいかないからね」
三人が頷くと、彼は近くの兵を呼び、レムバンを連れて来させた。
兵士の厳重な監視のなかでレムバンは足の縄を解かれて、自力で歩いてきたが、遠目にもひょこひょことしたその歩き方からは、彼が酒場で負ったという怪我の程度が見て取れた。
「レムバン……!」と、クライヴが駆け寄った。
彼は倒れ込むようにして父の胸に顔を埋めた。次にイムカが駆けていって、父親の腕越しに声をかけた。緩慢に応じる従兄の声が、微かにラウダの耳にも届いていた。
「きみは良いのかい?」
そう訊かれてラウダが振り向くと、ドミニクが彼を見下ろしていた。彼はまた抱擁する家族を温かく見守って、こう答えた。
「あとでいくらでも話せますから」
「……それは」と、ドミニクは口を引き結び、言った。「どうだろうね」
「え」
ラウダは弾かれたように顔を上げたが、直前にドミニクが前進したため、その顔色を窺うことも、言葉の意味を問うこともできなかった。
「さて、本心から水を差したくないんだが。きみたちには、悪い知らせがある」
「もうずいぶん悪いですよ」
クライヴは息子を抱く腕に力を籠めた。そして誓った。いま、足元が崩壊して世界の外にある暗黒へ真っ逆さまに落ちようとも、この腕だけは決して離すものか。
だが、現実は彼らにもっと過酷な展開を用意して待っていた。
「明日の午後四時に、被疑者レムバン・メルキン並びに、コーバス・リストの裁判を行うことが先ほど決定された。これにより話がまとまらない場合は、“神明裁判”による判決にもつれ込むだろう」
ラウダは耳を疑った。クライヴやイムカも、時間が止まったように数秒のあいだ動かなかった。裁判。法廷。――罪人の処刑。
「なんで!」と、最初に口を開いたのはクライヴだった。
「……厳正な協議の結果だ」
ドミニクは顔を背けてそう答えた。
「証拠は! こいつが、息子が……その……なんとかいう男を殺したって証拠はないんじゃ……!」
「ああ、決定的な証拠はなにもない」
「だったら!」
クライヴは悲痛な声を出した。彼の腕の中で、レムバンは途切れてしまいそうな意識を無理やり身体に留めて、半開きになった虚ろな瞳で父を見上げていた。
「だが、被害者側がこれ以上は待てないというのだ」と、ドミニクは徐々に早口になった。「困ったことに、疑わしい点はそれなりに揃っている。彼らを弁護するには、有無を言わせないだけの根拠がいるが、そんなものは都合よく見つからない!」
彼は、リネーの嫌らしい笑みを思い出して、やるかたない憤懣を飲み込んだ。
「もう少し待ってほしいと頼んだが、無駄だった。向こうに犯人を捜す気なんてさらさらないんだからね。挙句、痛くもない腹を探られて、あることないこと吹聴する魂胆の相手に、我々ももう手の打ちようがないんだよ」
言い切ると、さらに深い絶望が彼の心を蝕んだ。どうしてこんなことになった? やらかしたのは誰か? もうそんなものはどうだってよかった。運命が神になれと言うのなら、彼は従わなければいけなかった。
「……関係ない」と、ラウダは呟いた。
しかしその声は、誰にも聞き取れないほど小さかった。
「……なに?」と、ドミニクが顔を顰めた。
「それって、不正を許容するってことですよね」と、ラウダは反論した。「真実を追求せずに、無実の人間を犠牲にするってことですよね!?」
「無実かもしれない人間だ」
「そんなのは詭弁だ!」
ラウダの叫びが、余韻を残して消えた。二度と明けないのではないかと思われる夜が、あざ笑うように彼の怒りを吸い込んだ。彼は激昂し、肩で息をしながら相手を睨んだ。
ドミニクの知っている、二時間に初めて会った彼の印象とは違っていた。
「あなたはもっと、……高潔な方だと思っていました」
「それは」と、ドミニクはニヒルな笑みを張り付けた。「見かけに、騙されたな」
――月が、よく見えていた。
冷たくて、憐れで、美しい光が、睨み合う二人の影を午後零時が迫ろうかという名無し通りに投げかけた。
「メルキンさん、息子さんは置いて行ってもらう。明日の裁判の時間まで、被疑者は全員、城砦の地下牢に入れておく約束だ」
「そ、そんな……! こんなに傷だらけで……」
「手当なら、こちらに任せてもらって大丈夫ですよ。食事も温かいものを出します」
「そんなのってないわ!」と、黙って聞いていたイムカが涙声で怒鳴った。「マーシャさんも、ケントさんも……大事なものを全部……、全部全部、滅茶苦茶にされて! それで、今度はろくに調べもしないで、どうしてお兄ちゃんが……!」
彼女は、父と兄の足元に頽れた。
「もうすぐ日付が変わる」と、ドミニクが淡々と言った。「まもなく捜査は打ち切られる。現場も片付けられ、何も残らない。でも、撤収作業が完了するまでには時間がかかります。これがおそらく最後……、後悔のないようにしてください」
彼はいま、かつて己が信じた理想の対極に立っていた。彼は、不幸な家族の目の前から立ち去らんとするときに、善と悪の二重らせん構造について考えた。切っても切れない因果についても考えたが、因果のなかの因果については考えなかった。
始まりは正しかった。だから結末もきっと正しいものになる。
大局を見るのだ、ドミニク・ボラン。間違いは必ず、正されなくてはならない。
◇◆◇
ドニシエラ・モローは迎えの馬車に乗り込んで、小さな窓から領主館を横目に見た。食堂ではリネー・アールベックが勝利の美酒に酔っている頃だった。まもなく馬車が走り出し、大通りをUターンしたので、彼は正面を向いた。
そこにはドミニクが座っていた。
「それはなんです?」と、彼は主の膝の上にある包みを指して言った。「なにやら空腹を誘う香りがしますが」
「戦利品さ」モローは短く答えた。「参加賞といったところかな」
彼は包みをポンポンと叩いて、鉄仮面の下で笑った。
◇◆◇
家畜は不思議な生き物だ。
人に命を捧げるために生まれてきて、生涯の大半を囲いの中で過ごし、文句も言わずに死んでいく。そう生まれたことに、彼らはなにを思って生きているのだろうか。
そんなことを考え始めると、彼らに人語が操れたなら罵詈雑言の嵐だろうという気がするのに、言葉や種族を越えた愛情がそこにはあるのだと力説したい衝動にも駆られるからわからない。
それかこういった中立的な思考さえ、人は彼らに、人を愛することを強制していて、罪の意識を少しでも軽くするために、彼らのなかに人の心に似たものを捏造したり、本来無意味なその生に意味を見出そうとしているのだという真実に傷つかないための予防線なのかもしれなかった。
――だとしたら、それは。
御者台に腰かけて、スリスリの形のいい尻を見つめていたラウダは、後ろの荷台から聞こえてきた嗚咽に、胸が塞がるような感じがした。
「……親父」と、レムバンが掠れた声で心配した。
「すまん……。すまん、レムバン……」
「なんで親父が謝るんだよ……」
彼はそう言って、乾いた笑いを喉で鳴らした。男泣きの寸前だったクライヴは、その笑みを前にして大人げなく泣き喚くのを堪えるだけで限界だった。
「俺は……っ」
押し寄せる悲しみで視界が霞んで、それが流れ出してしまわないうちに彼は夜空を見上げ、その場に立ち上がった。そして息子に背中を向けると、怒ったようになにも言わずに荷台を降りて、大通り方面へ遠ざかって行ってしまった。
「……イムカ。親父のこと……頼む」
「うん」
妹の背中を見送って、安心して兄は目を閉じた。
馬車には、二人だけが残った。
「なぁ、ラウダ」と、レムバンはうわごとのように名を呼んだ。
「遺言みたいなこと、やめろよ」
ラウダは意識して低い声を出したが、彼は動じなかった。
「お前、泣かなくなったよな」
「ふざけるのやめろって!」と、ラウダは声を荒げて荷台を振り向いた。
レムバンはゆっくりと瞼を開き、眠そうな目をラウダに向けた。
「……怒ってるのか」
ラウダは顔を背けて答えなかった。従兄の無神経さに腹は立ったが、いまはくだらないことで喧嘩なんてしたくなかった。
唾を飲む音がして、レムバンは言った。
「マーシャに、プロポーズするって言った話な……、あれ、悪かった」
ラウダは虚を突かれて放心し、従兄を振り向いた。
レムバンは横になったまま、懇願するような目をしていた。
「あの日から、お前少し様子がおかしかったから……。イムカに……話したんだよ。そしたら、すげー怒られた。『最悪のタイミングで、私も最悪なこと訊いちゃった』って……」と、彼は激しく咳き込んだ。短い時間で落ち着いて、続けた。「俺なりに、励まそうと思ったんだけどな……。こんな俺でも、誰かを幸せにできるんだって……証明すれば、お前も元気になるかもって……」
「……俺は、彼女への愛に自信がないわけじゃない。そんな、簡単な話じゃ……」
ラウダは雑然とした怒りを噛み殺すように言ったが、うまくできたかは怪しかった。話したのに、伝えたのに、という期待外れの落胆がほとんどを占めているなかで、これは自分だけの苦しみで、誰と分かち合うこともできないのだという悟りに似た特別な安心感が小さく疼いた。
「そうだよな。俺、馬鹿だから」と、レムバンは言った。「お前の話、分かったふりして聞いてただけだったんだって、いまごろ気付いたんだ」
「なんのために、そんな……」
「そんなの、理解者でいたかったからに決まってる」
ラウダは開いた口が塞がらなかった。居心地がよかったのは、深入りされたくない気持ちと、深入りできない親愛がうまくかみあった結果だとでもいうのか。
レムバンは唐突に、場違いに爽やかな笑い方をした。
「でも結局、俺ってなに一つ守れてねぇ……。こんな弱い俺ならさ……、プロポーズなんてしなくて、正解だったかもな」
瞬きのあと、彼は茫然とするラウダを見つめた。
「なぁ。イムカのこと、頼む。男としてダメなら、俺の代わりをやってくれ」
「あ、諦めるのかよ……!」
「神明裁判って、言ってただろ。これが最後だ、とも」
そう話す声は、まるで他人事だった。
「……助からないよ」
ラウダは奥歯を噛み締めた。
神明裁判。読んで字のごとく、神に裁定を委ねる方法である。エルタンシアの法廷では決して珍しくない、古くからあるやり方で、被疑者に熱した鉄を握らせたり、水中に何時間も沈めたりして、本来起こり得ない事象――つまり奇跡が起これば無罪と認められるが、九分九厘そんなことは起こり得ない。事実上の死刑宣告だった。
「だから明日は……いや、もう今日か。見に来たりするなよ? 無様に死ぬとこ家族に見られるのとか、普通にいやだし」
「……勝手に、諦めるなよ」
「諦めさせてくれよ」と、レムバンは俯いた。「そのほうが楽なんだ。……奇跡を期待してたら、俺の心がもたないよ」
ラウダは一瞬、呼吸を止めた。
知っている、と彼は思った。俺はその辛さを知っている。日が暮れても家に帰らない子供を、両親が迎えに来る。昔、そんな奇跡を信じた。
でも、死人は蘇ったりしない。俺は一人、生き残った。
そして、ベラングラーシェへ来て教わった。生きている人間を救うのは、奇跡のようなつながり――生きている人間と、愛情と、大切な思い出だということを。
「だったら、俺が諦めちゃだめなんだ」
なにかないか。なにか。この絶望的な状況を覆すような、なにか。抜け道でもなんでもいい、奇跡よ――と考えて、ラウダは立ち上がった。
「ある……。そうだ、俺の……」
それで事態が好転する見込みは微妙なところだったけれど、彼にはもうそれくらいのことしか思いつかなかった。
彼にとってそれは奇跡というより呪いに近い現象だったが、それでも。
やるだけやってみるのもいい。状況も、感情もぐちゃぐちゃになって、こんなわけのわからないまま従兄の処刑を待つくらいなら、その力に賭けてみるのもいい。
「レムバン」と、ラウダは力強い声で呼びかけた。「お前じゃないんだろ?」
「……あ、ああ。酒場を出たときは刺し違えてでも殺してやると思ってた。けど、マーシャの悲しむ顔が浮かんできて、できなかった。こんなこと言っても誰も――」
「信じるよ。俺が信じる」と、ラウダは御者台から颯爽と飛び降りた。「二人が戻ってきたら、俺は先に帰ったとでも伝えておいて」
「お前、なにを……」
「イムカには、それで伝わるはずだから」
彼はそう言い残して、事件現場とは反対方向の、名無し通りの暗がりへと駆けていった。彼が角を曲がったところで、馬車の荷台から動けないレムバンはその姿を目で追うことが出来なくなったが、足音だけは聞こえていた。
そして、足音が不意に途切れると、少しして大きな騒ぎが現場で起こった。
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