『遺児たちの奮闘』・上

 床に就いてシーツを被り、瞼を閉じる。その日一日の出来事が、雑多に脳裏を流れていって、保留にし続けている問題だけが、忙しい日常にさらわれることなく、自意識の水面下でことごとく知見が生んだ障害物に引っかかり、目について、頭のなかをいっぱいにする。


 ラウダは、無限に膨れ上がる不安で溺れそうになる前に瞼を開けた。

 そうすることで目を背けたい現実から逃れられるわけではないが、視覚情報として入ってくる暗闇のなかの屋根裏や天井梁、意思とは無関係にかざした右手の甲が、意識を圧迫して不安の膨張を遅らせた。


「……どうしたらいい」と、口を衝く。


 額に手の甲をあて、また考え込んでしまう。

 つまり、生きて人が為すことのままならないことや、その罪深さについてである。それは思想だが、彼には博愛もこの世のありとあらゆる差別的な感情も、人が人として行うのならば最終的には罪なことであるように思えてならなかった。

 とはいえ彼も、常日頃からそういった考えに憑りつかれているわけでない。

 恋愛も友愛も等しく尊いと思えるけれど、ときには批判的になってみないと自分の人生があまりにも馬鹿馬鹿しくてやっていられないだけなのだ。

 例えば、レムバンなどは愛する者に愛を傾けることに前向きで、躊躇いがないように見える。彼は自らの人生が、神話級の膨大な間隔のなかにギュッと凝縮された無にも等しい刹那の時間であるという虚しさや、そこで生まれた愛の結果を、最後まで見届ける者など後にも先にも存在しえないということを恐れてはいないのだろうか。それともこの恐れは、数奇な運命を背負った者特有の、いわば病の類いなのだろうか?


「わからない……」


 わからないからこそ、恐ろしい。こんな話を従兄にすれば、彼はきっと『考えすぎ』だと笑うだろう。そう考えて、なんとなく右を見る。そこには薄い衝立があって、二人の寝床を分けている。


 レムバンはまだ家に帰っていなかった。夕飯の時間になっても彼は戻らなかったが、彼がマーシャに夢中になって時間を忘れてしまうのはたびたび起こることなので、食事中に誰かが気にする様子はなかった。

 いまごろ、レムバンは――その先を考えると、彼は不快な気分になった。


 差し当たっていまのラウダにわかるのは、自らが幸福の追求を諦めれば不幸を最小限に抑え込めるということ。その結果、不安定な希望の淵に立って、絶望に永遠と相対することになろうとも。遠くない未来、たった一つの素晴らしい愛を拒絶して、傷ついた最愛のひとが別の愛をどこかで見つけ、傷を癒し、育んでいく姿を見守り続けることが最善だと、そう考えることに彼は必死だった。


「……っ」


 頭から勢いよくシーツを被る。

 流せ、流せ、流してしまえ。忘れろ、忘れろ、忘れてしまえ。

 みんな、みんな、俺のように呪われて――と、耳がなにかの音を拾って、ラウダは我に返った。一瞬、思考が停止して、本能的に耳を澄ませる。

 馬の、蹄鉄の音。人の、話し声……?


「……やっぱり、聞き間違えじゃない」


 彼はシーツを押しのけて、裸足で静かに土間に降り、ドアの前まで移動した。音を立てないようにかんぬき式の掛金錠を外してドアをそっと開け、隙間から外の様子を確認する。


 月明かりの下で、中庭には人影が二つあった。彼らは乗ってきた馬から降りて、明かりを持った一人がもう一方のあとに付いて行くかたちで母屋のほうへ歩いて行く。見た感じ怪しいところは見当たらないが、こんな夜中の来客というだけで不安だった。


 やがてドアをノックする音が小さく聞こえ、そこそこ長い時間が経って母屋のなかから人が出てきた。ドアを開けたのはクライヴで、彼もカンテラを掲げていた。

 彼が来客と話しているうちにカルラも起きてきて会話に加わり、顔を見合わせたりしているうちに二人の表情から愛想が抜けていく。それからクライヴが急にはなれのほうを指さした。来客の二人は彼の指先の動きを追って振り向き、ラウダは驚いてドアから身体を離した。


 もう一度、ドアの隙間に顔を近づけて目を眇めると、話し込んでいた全員がクライヴを先頭になんとなくこちらへ向かってきそうな様子だったので、慌ててドアを閉め、施錠して、寝床へと駆け込んだ。


「レムバン、ラウダ。起きてるか」


 少ししてクライヴの控えめな声とドアを叩く音が、はなれのなかに均等に響いた。

 ラウダはついさっきまで眠っていたと思わせるために鬱陶しそうに唸って、一回、二回と寝がえりをうってから瞼を開けた。


「レムバン、ラウダ。どっちでもいい、起きて、ここを開けてくれ」


 クライヴの声が少し大きくなった。

 もう一回待ってから返事をしたいところだったけれど、本当は起きているのに寝たふりをして叔父を焦らせていると思うと、理屈よりも罪悪感が勝った。


「……うぅん、誰……?」と、ラウダは寝ぼけた声色を使った。

「俺だ、クライヴだ。ラウダだな? 頼む、ここを開けてくれ!」


 彼はない唾を飲んで寝床を出ると、ドアの前まで歩いて行って、やや乱暴に聞こえるように音を立てて鍵を外した。ドアを開けるために軽く表面に触れると、向こうから力がかかっているのがわかったので、慌てて後ろに下がる。


「ラウダ……!」クライヴがたたらを踏んで室内に入ってきた。「レムバンは……!」と、彼は飛びつく勢いでラウダの両肩を掴んだ。

「え……、いや……」


 ラウダは瞳だけを動かした。想定していたよりも深刻そうな叔父の様子に驚いて、用意した言葉が出なかった。

 その視線の動きに合わせて、クライヴの首が動作した。


「……レムバン、いないよ」


 遅れて出た言葉に、意味らしい意味はなかったけれど、収まりの良い空白にすとんと落ちた気がした。だがそれは蟻の巣の出入り口を小石でふさいだ時のような、罪深い後味を残した。


「そんな……」クライヴの両手から力が抜けた。


 だらんとぶら下がった叔父の指先を見下ろして、ラウダは前頭から頭頂部にかけてわけもなくスーッと涼しくなっていくのを感じた。


「――彼は、いないのですか」


 そんな声が聞こえたと思えば、ラウダの視界が暗くなった。いつの間にか、クライヴの背後に人影が立っていた。彼は、月明かりを遮って立つその人の顔を、どこかで見たことがあると思った。


「騎士様……!」と、クライヴが振り向いて言った。「きっとなにかの間違いです!」


 騎士――そう聞いて、彼は思い出した。

 ドミニク・ボラン。あの仮面卿のお側付き。


「しかし、今夜帰っていないとなると……」ドミニクは厳めしい顔をした。「それに、普段ならこのくらいの時間には帰っていると、そう言ったのはあなただ。メルキンさん」

「それは……、そうですが」


 ラウダは背中を丸めた元気のない叔父と、物腰の柔らかな騎士を見比べて、気後れしながら手を挙げた。


「あ、あの……。騎士様、いったいなにがあったのですか」

「む……。ああ、そうか。きみにはまだ話していなかったね、ラウダ」

「あ、はい……」と、彼は動揺を隠しきれずに頷いた。


 一村民に過ぎない自分の名前を、領主様のお側付きに覚えられているとは思いもよらず、また自分の記憶力が情けなかった。


「村で殺人事件があったんだ。我々はその件を捜査中でね」


 そう聞いて、ラウダは真っ先に最悪の事態を考えた。


「無事なんですよね、レムバンは!」

「……ああ。彼は被害者ではない」と、ドミニクは微妙な間をもたせて言った。


 けれどラウダは、相手の言葉を額面通りに受け取るだけで精一杯だった。


「でしたら誰が……」

「きみの知らない人物だ。村の人間でもない。……これを聞いて安心しろというのも違う気がするが」

「そう、ですね。でも家族や知り合いのことなので、やっぱり……」と、彼は急に黙り込んだ。「でも……、それじゃあ。騎士様は、レムバンにどういったご用件なんでしょうか」


 その目を見て、ドミニクはこの青年はもう答えを知っていると思った。

 しかし、大人をからかって試してやろうという意地の悪い感じではなく、出した答えに納得がいっていないか、自制心でがんじがらめになっているかのどちらかであるという印象を受けた。

 彼は青年を知っているだけに、それ以上余分な感情を持ちたくはなかったが、このときにはもう彼のことを気に入っていた。


「レムバン・メルキンには、殺人の疑いがかかっている。とはいえ、確実な証拠があるわけではないけれどね。彼は事件の直前に被害者から暴行を受け、恋人とその父親まで傷つけられた……。私怨、ということで動機があると私は見ている」


 ラウダの驚きは喉のあたりで空気になって、開いた口から抜け出てしまった。

 ドミニクは真剣な表情で続けた。


「それで、本人に直接話を聞きに来たんだが……。このとおり当人は行方知れず、というわけだ」


 クライヴがになにかを言ったが、ラウダの意識は遠くにあって、叔父がなにを言ったのかはわからなかった。


◇◆◇


 星空が隠れてしまうほどの黒煙を見上げていた。あのとき。

 身体の芯から熱と力が失われていく感覚と反対に、燃え盛る炎によって、皮膚だけは焼けつく熱気を感じていた。あのとき。

 6歳になった年。自分の無力と、それゆえに死ななければいけない現実を仕方がなしに受け入れた。あのとき。


 誰かが傍に立った。いつの間にかそこに居た。絵本で描かれるみたいに、命を刈り取る大きな鎌こそ持っていなかったけれど、ラウダ少年はそれが俗にいう“死神”であることを疑わなかった。


『お前、死を受け容れるか』と、思ったよりも幼い声が、友人のように問いかけた。


 死神のくせに、とラウダは思った。さっさと連れてけ、と言いたかったが、口から出たのはヒューヒューという、か細い呼気だけだった。


『少年、この世界を受け容れるか』と、透き通るような女性の声がした。

『しかして汝、新しき理を受け容れるか』と、地の底から響いてくるような、太くて低い、力強い声がした。

『古きも、新しきも、善も、悪も――』と、三つの声が合わさって、一つになった。『人の子、天秤を捨て、新時代の礎となり、混沌の坩堝を飲み下し、我らが眷属となる運命を受け容れるか』


 重要なことはなに一つ頭に入ってこなかった。

 彼は死にかけていたし、難しいことばかり訊かれるし、全部がどうでもいいと思えた。十年が経ったいまも、当時の自分がそれらの問いになんと答えたのか彼は覚えていなかったが、結果がすべてを物語っていた。

 確かなことは、次に彼が目覚めたとき(そこはグローヴァーの中央から東。じりじりと後退を余儀なくされる前線の後方に敷かれた野戦病院だった)、両親も、知人も、友人も失って、故郷の農村ラナックで、自分がただ一人生き残ったということと、目の下に濃い隈をつくった医師に親戚はいるかと尋ねられて、サスキアにいると聞いていた、一度も会ったことのない叔父の名前を挙げたことだけ。

 自分の髪の色が変じたのを知ったもそのときで、彼宛に一通の手紙が届いたのは、それから数週間後のことだった。


 字の読めなかった彼は、隣に寝かされていた片足のない男に頼んで、代わりにその手紙を読んでもらった。男は戦後、第五次東西戦争の勝敗を決定づけたといわれるグローヴァー・ダムの戦いで、崩壊した城壁の下敷きになって足を潰した騎士だった。

 手紙の内容は、ラウダの心身を気遣い、少しでも早い回復と、面会を希望するものだったが、彼の心はなにも感じず、その後クライヴが面会に訪れた際も、喜んで引き取ると抱きしめられたときも同様だった。


「ここがお前の新しい家だ」


 数日、馬車に揺られて辿り着いたベラングラーシェは、今も昔もほとんど姿を変えていない。強いて違いをあげるなら、その頃はまだ戦時下で、国中が緊張していて、マスケニスの軍勢が鼻先に迫っていたサスキアは特にピリピリしていたことくらいである。

 しかしそれでもベラングラーシェには気楽な空気が漂っていて、ラウダは故郷との理不尽な差に暗い怒りを覚えた。


「そして、二つ目の家族」


 そう言って、十年前のクライヴは、妻のカルラ、七歳のレムバン、六歳になったばかりのイムカを紹介した。やっぱりラウダにはどうでもよかった。

 夫妻はなんとかして彼の新しい家族になろうとしたけれど、はじめのうちはなにをやってもうまくいかなかった。それどころか、どんどん心の距離が開いていった。

 ラウダは子供ながらに夫妻のそういった必死さを感じていたし、感じるほどにそこが自分の居場所ではないような気がして、さらに深く、分厚い殻に閉じこもった。

 ――どうしておれだけが、死ななかったのだろう。

 彼は、ウタシ川のほとりで泣いた。毎日、一人で。


「……おはなのかんむり、いっしょにつくろ」


 けれど、一日の最後まで一人でいられたのは最初の一週間だけだった。

 以降はなにかにつけて邪魔が入るようになったが、そのきっかけは間違いなくイムカだった。初対面は兄の背中に隠れていた気弱な少女の、誰にとっても意外な変化。


「つくりかたおしえてあげる」

「……うるさい」

「おかあさんにね、おしえてもらったのよ。シロツメクサをね……」

「――あっち行けよ!」


 怒鳴ったり、どついたりすると、少女はすぐに泣いた。そして兄貴が出てきて、ラウダを打った。彼もすぐにやり返して、二人はいつも取っ組み合いの喧嘩になった。体格差や腕力でラウダが劣勢になると、イムカがレムバンにしがみついて泣き叫び、大人が出てくる。

 基本はそんな毎日の繰り返しだったが、少し違う日もあった。


「おい、お前!」と、フローは決まって挨拶から喧嘩腰だった。


 彼の隣にはいつもヴィクターがいて、ラウダの視界内ではイムカがうろちょろしていた。ラミロはたまに見かける程度だった。


「お前、父ちゃんも母ちゃんもいないんだってな! せんそうで死んだって、かわいそうな子だって、母ちゃんが言ってたぜ。だからいっつも泣いてるって!」

「男のくせに泣き虫で、だっせぇの」

「男はつよくなきゃダメなんだぞ。父ちゃんがそう言うんだ」

「おれはつよいから、父ちゃんと母ちゃんがいなくても平気だぜ! そしたら毎日好きなだけあそべるし、いたずらしても怒られないだろ!」


 彼らが言いたい放題しているのは気に入らなかったが、初対面に歯向かって、二人掛かりで痛めつけられて以来、立ち向かう勇気が湧かなかった。言い換えれば、負けるとわかっている戦いに挑むほど、ラウダは絶望していなかった。

 命があって、宿があって、お腹がすいたらご飯が出てきて……。自覚のない幸福が、彼の精神をギリギリのところで世界につなぎとめていた。


「おい、聞いてんのか!」


 ラウダはフローたちを無視したが、その冷たい態度は火に油を注いだ。


「この野郎!」と、彼らはどうあっても結局のところラウダを打った。


 イムカが泣きながらあいだに入って、彼らの手や足がうっかり彼女に当たろうものならばレムバンがどこからともなく現れて、辛くも二人を制裁した。


 そうして季節が一通り過ぎ去って一巡し、戦争が終結すると、メルキン家の三人の子供たちはちょっとずつお互いの抱えている感情や性格を理解していった。

 ラウダは相変わらず一人でいるのを好んだが、泣く時間は減っていた。悲しいことには悲しいけれど、そう簡単に涙は流れなくなっていた。イムカも変わらず彼の傍にいるのが好きだったが、見守ることを覚えていった。レムバンは長子としての振る舞いを求められ、手探りで学んでいる最中だった。


 ある日、飽きもせずラウダが川面を見つめていると、突然現れたレムバンが大口を開けて笑い出したことがあった。直前になにか面白いことがあったわけでもなく、彼は内心で首をかしげたが、従兄が一人で笑っている分にはなんの問題もなかったので、あえて理由を尋ねたりはしなかった。

 だが、レムバンはそのままラウダにちょっかいを出し始めた。


「お前も笑え!」と、彼はそう言ったのである。


 もちろんラウダは「いやだ」と答えた。笑う理由がなかった。

 それでもレムバンはしつこく「笑え!」と、彼に迫った。

 いやだ。笑え。いやだ。笑え。いやだ。笑え。

 だんだんと意地になって言い合ううちに、ラウダのほうが先に限界を迎えた。


「いやだって言ってるだろ!」と、彼はレムバンに飛び掛かった。河原に押し倒して、馬乗りになる。

「いいから笑え!」レムバンも負けじと言い返したが、彼は笑うだけで手は出さなかった。

「だからいやだって!」


 ラウダは従兄がされるがままであることに疑問も持たず、うるさい口に両手の親指を突っ込んで左右に広げた。それでもレムバンは笑い続けた。


「はらへ!」

「なんでだよ!」と、ラウダは顔を真っ赤にした。「面白いことなんてひとつもないのに!」


 彼は絶叫した。久しぶりに泣きそうだった。


「ほへほはほ――!」と、レムバンも絶叫した。


 そのとき、指に彼の歯が当たってびっくりして、ラウダは手を離した。従兄がなにを言ったかは不明だったけれど、なにかが爆発したと思った。


「でも笑うんだよ!」


 がつん、と無防備な心にパンチをもらった感じがして、気が付くとラウダの両目から涙があふれていた。悲しくはなかった。どちらかと言えば腹立たしかった。


「ずるいぞ!」と、レムバンはまた叫んだ。


 ラウダの顔がぐしゃぐしゃになった。意味がわからなかった。

 レムバンの顔もぐしゃぐしゃになった。彼も意味がわかっていなかった。


「お前、ずるいぞ!」それは、魂の叫びだった。

「うぅ~!」と、ラウダは獣のように唸って、再び従兄の口に親指を突っ込んだ。


 ――ずるいぞ!

 その叫びは、何年たっても謎めいたまま、ラウダの耳の奥に残っていた。

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