『名無し通りの殺人』・下

 ドミニク・ボランと御者ジョシュは、オゼイ・ラドヴィンの殺害現場を離れ、横道から名無し通りを外れて薄暗い大通りに入り、酒場へ向かって歩いていた。人気のない通りには民家や施設が疎密に並び立ち、玄関先に吊るされたカンテラが、風に揺れて金属くさい軋みを立てた。仄かな橙の明かりには羽虫が集まって飛び回り、耳障りな音で空気を震わせた。


 月夜の雲が上空をゆっくりと流れていた。路地でどこかの飼い犬が妖しく目を光らせていた。過ごしやすい春の夜の、変哲のない空気の味と、匂いがした。

 普通ではない一日が嘯いて、日常の顔をしていた。

 忘れたころに思い出す。人が死んだ日の情緒と情景。平和な村での二年間が、男を感傷的な気持ちにさせた。彼は、遅れてあとをついてくるジョシュを振り向いて、しみじみと言った。


「災難だったな」

「へ?」と、ジョシュは頓狂な声をあげた。「なんですかい、旦那」

「オゼイのことだ。きみは彼を恐れていたというが、付き合いはあっただろう」

「あぁ……え、まぁ……」


 歯切れの悪い返答に、ドミニクは苦笑する。


「苦手な相手だったんだな」

「へぇ、全然悲しくねぇんです。薄情もんだと言われそうですが」

「そんなことはないさ」


 会話が途切れて、彼らは再び黙って歩いた。

 やがて領主館の傍まで戻ってくると、道端に明かりを持った兵士が一人、馬を連れて立っていた。


「ドミニク卿、こちらです。モロー様より馬をお預かりしております!」

「やぁ、ご苦労。助かるよ、歩いて行くには時間がかかると思っていたところだ。ジョシュ、きみも後ろに乗るといい」

「え、よろしいんで?」

「そのほうが早い」と、ドミニクは簡潔に答えて軍馬に跨り、鞍上から兵士を見降ろした。「きみ、酒場の騒ぎのことは知っているか」

「ええ。あの場にいましたから」

「ならば話は早い。その件が殺人に関係している可能性があってね。これから酒場と農場、リストの家を訪ねるところなんだが、それが済んだら一旦報告に戻る旨を騒動の話と併せてモロー様に前もって伝えておいてくれないか」

「了解しました」


 ドミニクは、左肩に右手を添えるエルタンシア式の敬礼に力強く頷き返すと、ジョシュが馬に乗るのに手を貸した。


「では、行ってくる」

「お気をつけて!」


 軽く脇腹を蹴って馬を歩かせる。急ぎたいのはやまやまだが、大の男が二人も乗った状態で走らせれば馬への負担も大きくなる。

 とはいえ、これでも徒歩よりは早い。馬の用意があったのは僥倖だった。

 途中で三度、事件のために増員された哨戒任務中の兵士たちとすれ違い、彼らはリオッカの酒場と掲げられた看板の外で馬を降りて敷地に入った。


「静かですね……」と、ジョシュが言った。


 酒場は暗く、人ひとりいなかった。


「いつもはもう少し遅い時間まで賑わっているはずだ。兵長が言っていたとおり、騒ぎのせいで閉店が早まったんだろう」


 彼らは事務的な会話をしながら反時計回りに店を迂回して、少し奥まったところに隣接する民家の玄関先に明かりが灯っているのを見つけた。鎧戸は閉まっていたが、玄関先の明かりは就寝前には消すのが一般的なので、ドミニクはリオッカ父娘がまだ起きていることを確信して戸口を叩いた。


「……どちら様ですか」と、弱々しい少女の声がした。マーシャ・リオッカの声だと察するに十分だった。

「モロー男爵にお仕えしているドミニク・ボランというものだ」


 そう言って、少ししてから返事があった。


「……騎士様? あの、なんの御用でしょう」


 声色や雰囲気から、歓迎はされていないとドミニクは思った。

 然もありなん。彼女は疲れ切っている。申し訳ない気持ちになりながら、彼は言った。


「今夜、ここであった騒ぎについて話を聞きたい。きみたちがどんな目に遭ったかは聞いている、辛いとは思うが、大事なことだ」


 また少し間が開いた。


「失礼とは思いますが、ドアはこのままでもいいでしょうか」

「問題ないよ。無理を言ってすまないね」

「……いえ。それで、私はなにを話せば……」

「そうだな……」と、彼は考えた。


 父娘の怪我の具合を尋ねようかとも思ったが、心を開くための世間話を求められている感じはしない。そんなことに時間を使うなら、さっさと用件を済ませて立ち去るほうが彼らのためになるだろう、と思い直して、彼は言った。


「きみたちに暴力を振るった男、オゼイ・ラドヴィンというんだが、やつが暴れだしたのは急だったのかな? それとも何か、きっかけがあった?」

「……きっかけ」と、マーシャは思いつめた声で言った。「あるとすれば、私のせいです」

「きみの? どうして」

「私があの人を打ったから。おしりを触られて、咄嗟に平手で……」


 ジョシュが額をぺしんと手で叩き、天を仰いだ。


「あの人なら、やりかねませんぜ」

「ほかに誰かいるんですか」


 マーシャが食い気味に上擦った声を発した。


「大丈夫、私と一緒にこの件を調査している仲間だよ。それと、きみは悪くない。気に病むことはまったくないよ」

「……ありがとうございます」


 ドミニクは相手から見えていないことを忘れてついつい頷き、こう続けた。


「それじゃあオゼイは、単に逆上して暴れたんだね。そしてきみと、きみの御父上を……」

「父はしばらくベッドから起き上がれないくらいの怪我なんです。看病があるから、数日はお店も休まなくちゃいけない。レムバンだって、あんな……」と、彼女は涙声になった。


 ドアを一枚隔てても、さめざめと泣いている気配が外に伝わった。


「マーシャ……、どうかしたのか……」と、熱にうなされる男の声が微かに聞こえた。

「……大丈夫よ、なんでもないわ」


 答える声は室内に向けたものらしく、少々籠っていた。

 彼女が落ち着くのを待ってから、ドミニクは言った。


「ところで、騒動のあとで食器の数が合わなかったなんてことはなかったかな。例えば、――ナイフとか」

「……? いいえ、あの、なかったと思いますけど……」

「いや、だったらいいんだ。おかしなことを訊いたね」


 気にしないでくれ、と彼は言って、立て続けに訊いた。


「レムバン・メルキンは、きみの恋人だったりするのかな」

「ええ。私のことも、父のことも大切に想ってくれて……、だから……」

「そうか……」と、彼は猛烈に気が進まない質問を投げかけた。「レムバンは、きみたちにひどいことをした人間を、放っておくと思うかい?」

「放っておかないと思います」


 彼女は毅然とした声で即答し、「でも」と落ち込んだ声で言った。


「放っておいて、といつも思います。私は、彼が傷つくようなことが好きじゃありませんし、いくらなんでも今回は相手が……」


 言いかけて、彼女は合理的な説明がつかない一種の勘によってなにかに気づき、ハッと息を呑んだ。


「彼になにかあったんですか!?」

「落ち着いて。彼は……」と、ドミニクはいたいけな少女の強い感情に言葉を見失って、口を開けたまま黙り込んだ。

「……どうしたっていうんですか」と、不安そうにマーシャが言った。


 彼はどう伝えるのが正しいのかわからず、ありのままを答えた。


「……オゼイが何者かに殺された。きみたちにひどいことをした男が、死んだんだ」


 勢いよくドアが開いた。目元を赤く腫らしたマーシャが、室内から漏れる蝋燭の灯を背に、驚きの表情で立っていた。彼女の背後には、建物の外観と一致する一つの空間が広がっていて、家具は二人掛けのテーブルとベッドが二つ。ナイトテーブルを挟んで並んでいるベッドの片方には、巻かれた包帯が痛々しいケント・リオッカが横たわっているのが見えていた。


「……本当、なんですか」

「ああ」

「いつ、どこで」

「一時間半ほど前に。名無し通りで、人知れず」


 もしかして、と彼女は声には出さず、唇を動かした。


「お二人は」彼女はドミニクとジョシュを見た。「その件について調査を?」

「……そうだ」

「レムバンは、疑われているんですか」


 マーシャの目はいまや、驚きとは違う感情で見開かれていた。


「……騙しましたね」


 彼女は怒りで耳たぶまで赤くした。


「あんな男、死んで当然です。誰がやったか知りませんけど、見つけたら是非『ありがとう』と言いたいですわ」


 軽蔑の眼差しと彼女の言葉に、ドミニクは指が青白くなるほど強く拳を握った。


「聞いてくれ、彼の死は政治的な意味を持ってしまっている。このままでは――」

「政治のことなんて知りません。これ以上話すこともありません」

「待ってくれ、せめてもう少し騒ぎが起こる前後の話を」

「お引き取りください!」


 取り付く島もなく、大きな音を立ててドアは閉まった。

 これが必要なことだとわかっていても、そう簡単に割り切れるものではなかった。ドミニクは主君のために道化を演じる必要があれば進んでそうできる人間だったが、神のごとき振る舞いとなれば話は違った。


 ――なにも感じずになせ。

 そうすれば楽だぞと頭ではわかっていても、ときになんの関係もない人間の運命を捻じ曲げることについて不感症ではいられない。


「……この口でよくも、ああ言ったものだ」彼は自嘲気な笑みを浮かべた。

「旦那……?」と、ジョシュが心配そうに言った。「報告のほう、大丈夫そうですかい……? 無理にでももう少し訊き出したほうが……」

「……いや、いい。次はリストに会う。淡々とした男だ、知っていることは答えるだろう」

「へぇ、お任せします。あっしは付いて行きやすぜ」

「ああ。こんな仕事、さっさと終わらせてしまおう」


 彼は冷たく言い放った。


◇◆◇


 その道は、ベラングラーシェからフラガ領に至る山道への近道だった。

 大通りから続く林道の手前にある十字路を西へ向かって、風呂屋の白いテント群の終端を過ぎると、左手の林のなかに雑木のトンネルのような道がぽっかりと口を開けている。


 昼間でも薄暗く、どこか神秘的な気配を垂れ流しにしているこの道は、夜になると月明かりも届かないうえ、用途も限られるので日頃から人通りは少なかった。

 しかし暗闇にも増して厄介なのは、あまり使われないだけにろくに整備されていないということだった。草木は伸び放題で、木の根や多年草が道に侵出しているせいで路面はでこぼこしている。馬上にいると雑木の梢が顔の高さにしだれかかってくるので、ドミニクは手でそれを退けながら進まなければならなかった。


「ジョシュ、頼むから進行方向を照らしてくれないか」

「いやぁ、旦那……。そうは言っても、こう気味が悪くっちゃ……」と、彼は手に持ったカンテラで、周囲の黒々とした木々を照らした。

「気持ちはわかるが、本当に頼むよ。明かりをそう振り回されると気が散って仕方がない」


 手綱を握るドミニクの代わりに、鞍鞄に入っていた携帯用のカンテラを任されたジョシュだったが、彼は森の中から枝の折れる音がしたり、梟が鳴くだけで身体を強張らせて一々悲鳴を飲み込んだ。


「ひっ、だ、旦那っ! 誰かいる!」

「……あれは木だよ」

「はあっ、い、いま首の後ろをなにかが舐めた……っ」

「枝についた葉が触れたんだろう……」


 そんなやり取りを呆れるほど繰り返し、近くの茂みが大きな音を立てて揺れたとき、その日一番の大きな悲鳴がドミニクの耳元で炸裂した。


「だぁっ……、い、いまなにかが……! あっしらの右側を抜けて……!」

「……確かに」と、ドミニクもこのときばかりは馬を止め、耳を押さえて茂みに目を凝らした。「もうなにも見えんな。大きさからして猪か鹿あたりか……?」

「ねぇ、旦那……。もっとましな道があったんじゃねぇですか?」


 ジョシュが泣きそうな声で言った。


「あるにはあるが……。この道を通ってリストを訪ね、森を南へ抜けて農場を訪ね、林道をまっすぐ北に戻って領主館に帰るルートがもっとも効率的なのだ」

「それにしたって暗すぎますよぉ……」

「知らない道ではない。いいから前だけを照らしてくれ。ぐずぐずしてると月明かりもなくなるぞ」


 果たして木立の中にぼんやりとした明かりが透けて見えてくると、風向きもあって遠くから微かな異臭が運ばれてきた。


「へ、変なにおいがしますよ、旦那。なんです、これ」

「糞尿だ」と、彼は努めて無表情で答えた。

「ふ……参ったなぁ。狩人だって聞いてましたぜ」

「彼は技術があるから皮なめしもやっている。皮に付いた脂を落とすには、糞に漬けるのが良いというからな」

「そうは言いますがね……。ああ、匂いが強くなってきた。鼻が曲がりそうだ!」


 騒がしいジョシュを無視して、ドミニクは匂いに興奮し始めた馬の首筋を鞍上から優しく撫でた。

 馬は不承不承に嘶いて頭を振り、尻尾を振って前進を続けた。

 いまや家屋は彼らの目と鼻の先だった。ドミニクは鼻の穴のなかに糞を詰められた気分だった。ジョシュがすっかり静かになった。彼らは家屋と物置などの小さな建物をまるっと囲う木柵の内側に入ってから下馬すると、一言も話さずに明かりの灯った玄関先まですたすたと歩いて行き、ドミニクがドアを二回ノックした。


「リスト、いるか」


 呼びかけに応答はなかったが、家の中で物音がした。

 鼻をつまんだジョシュがそこそこ大きい家屋の正面を見上げて、額にしわを寄せた。


「気分が悪くなりそうですぜ」

「すぐ終わる。辛抱しろ」と、ドミニクが言い終わらないうちにドアが少しだけ開いた。


 ドアはそのまま緩やかに開いていって、半分も開かないうちに止まり、高いところの隙間からコーバスが頭を覗かせた。彼の顔を見るなりジョシュが小さな悲鳴を上げて、ドミニクの背後に隠れた。


「……ボラン様」と、コーバスがぼそりと言った。


 それから瞳だけを動かして、ジョシュを見た。


「彼はアールベック男爵の御者をしている男でね」と、ドミニクは言った。「男爵が私に付けた手綱だよ」

「へ、えへへ……。こりゃどうも、お見知りおきを……」


 彼は小鼻から指を離して気まずそうに笑ったが、コーバスの仏頂面に迎撃されてあえなく消沈した。


「こんな時間に悪いな、リスト。きみに訊きたいことがあってね、酒場の騒動についてなんだが」


 コーバスは惚けたり悩むそぶりも見せずに頷いて、


「よければ中へ……」と、ドアを全開にした。


 ジョシュは怖いもの見たさで家のなかを覗いてみてぎょっとした。壁や天井に飾られた剥製の多いこと。雄鹿のトロフィー、狐の全身剥製、梁の上からいまにも飛び立ちそうに翼を広げる鳥類などなど……。それぞれの眼窩に収まった色とりどりのガラス玉が一斉に来客を出迎えた。


「ありがとう」


 と、ドミニクが平然としている傍らで、ジョシュは記憶に新しい死者の虚ろな瞳を思い出して硬直していた。


「だが、そう長々と時間をとるつもりはないんだ。きみは酒場で暴れていた男……、オゼイ・ラドヴィンとやり合ったそうだね」


 コーバスは否定も肯定もしなかったが、ドミニクも自白を求めているわけではなかった。事実はすでに明らかだったからである。


「彼は相当な強者だったんだ。並みの人間じゃ相手にもならないほどだった。きみは知らなかっただろうね?」

「……たとえ知っていても、見て見ぬふりは不可能でした」


 コーバスは迷うことなく言い切って、ドミニクに睨まれた。


「その結果、自分の立場が危うくなることを知ったうえでも、きみは同じことが言えるのかな。彼が死んだことは知っているのかい、リスト。この意味がわかるか?」

「……俺に、疑いの目が?」

「最悪、それでは済まないだろうね」


 彼がオゼイを殺した犯人であることを確定する証拠はいまのところなにもない。

 だがそれは有罪と認めるに十分ではないという点において、常に議論の余地が残っているということに他ならない。


「きみとオゼイの激戦は、その場にいた兵や客が目撃し、証言している。そしてアールベック男爵や、ここにいるジョシュは、犯人の被害者を殺しうる実力に注目している」


 してやられたと思い込んでいるアールベックは、意趣返しの意味も含めてこちら側の戦力を削りたいと考える。そうなれば、コーバスを放っておくわけがない。


「――聖人が行えば、時と場合によって、ただの大量虐殺にも儀式的な意味を後付けできてしまう」と、ドミニクはやけにゆったりとした口調で言った。


 ジョシュは怯えた表情で振り向いて、コーバスは無表情に受け止めた。

 ドミニクは手のひらを上にすると、コーバスに向かって差し出した。


「酒場で、きみが武器を所持していたこともわかっている。色々と検証が必要なんだ、わかってもらえるね?」


 コーバスは注意深くドミニクを観察し、そのあと黙って腰のベルトから鞘ごと短剣を引き抜いた。

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