Part.3 『誰がための』

『名無し通りの殺人』・上

 オゼイの死体は名無し通りで見つかった。

 領主館より北、小教会や併設の墓地があるあたりよりも南に位置するその場所は、夜中に賑わう酒場から遠く離れたところにあって、人里と未開領域の狭間のような、少し不気味な感じのする場所で、犯行を目撃したものが居ないと聞いても誰も驚きはしなかった。


 彼はそこで、血だまりの上に仰向けに転がっていた。


 兵士や、騒ぎを聞きつけて集まった野次馬たちが持ち寄った灯で周囲は明るく照らされ、被害者の生気を失くした双眸にも合理的な光を映したけれど、それだけだった。虚空を無念そうに睨むオゼイ・ラドヴィンは、もう二度と、瞬きひとつすることはない。

 死人に口なしとは言うけれど、倒れた身体の、手や足の向き、表情、指先で地面を掻いた痕跡――それらの一つ一つがありありと示している。

 この男は生きていたのだ、と。


「死後、一時間弱……といったところか」


 死体の腹部を軽く圧迫したり、口を開いてみたり、地面に広がる血液に触れてみたりした後で、死体の瞼をそっとおろしてやってから、ドニシエラ・モローはそう言って立ち上がった。

 すかさずドミニクが歩み寄ってハンカチを手渡し、リネーが鼻をふんと鳴らした。


「どうしてそんなことがわかる」

「死体の硬直がほとんど進行していませんし、芯のほうはまだほんのりと温かい」と、モローはハンカチで指先に付いた血液を拭き取りながら答えた。「ご自身で触られてみればわかりますよ」


 すました顔……かどうかはわからなかったが、その声に、リネーは顔を顰めると、衣服の袖口で空気中に漂う濃い血の匂いから鼻先と口元を守った。


「……いや、結構だ」

「そうですか」

「そんなことより、ドニシエラ卿。どう責任を取るつもりだね」


 彼は袖口で口元を押さえたまま言った。モローは身体ごと彼に向き直り、ドミニクにハンカチを返した。


「もちろん、捜査には全力を尽くしますよ。損害賠償にも可能な限り応じましょう。彼の……武闘大会での話は私も耳にしています。稀有な人材であったことは」

「そんな当たり前のことを言っているのではない」と、リネーはさえぎった。「私の騎士が、卿の領地ベラングラーシェで殺された。このことは私への――ひいてはサスキア伯への敵対行為とみなすこともできるが」

「……それは飛躍しすぎでは?」

「そうかね? では、どうしてオゼイだったのだ。他の誰でもなく」


 彼は息を吹き返したように饒舌だった。モローは彼の弁論が真実を放置した、作為的なものであることに気付いていたが、いまは調子に乗らせておくほうが賢明だとわかっていた。


「さぁ……そこは、私も気になるところです。動機が明らかになれば、犯人の見当もつくでしょう」

「あくまでも、貴公はいっさい関係ないと?」

「その言葉、侮辱と捉えてもよろしいか」

「これだけの事態だ、多少の疑心暗鬼は仕方がないと思うがね。それも私は、なのだから」


 剣呑な睨み合いがしばらくのあいだ続いた。


「あの……」と、恐る恐る声をあげる者がいた。リネーの御者、ジョシュだった。「本当に、死んでいるんで……?」


 領主館を出るときにリネーから呼び出され、詳しいことも知らされないでイルジアの代わりについてきた彼は、オゼイの死に誰よりも戸惑っていた。


「なにをわかり切ったことを……。見てわからんか」と、リネーがため息を吐いた。

「い、いえ……しかし、突然なもんで……」

「きみはジョシュ、だったかな」


 もっとも正常な反応に、モローは相好を崩して言った。


「驚くのも無理はない。彼は、相当の手練れだったんだろう?」

「へぇ、そりゃあもう」と、ジョシュは首を何度も縦に振った。「旦那は、殺しても死ぬような玉じゃない……と、あっしは、そう思ってたんですがね……。あんなに恐ろしかった人が、こうもあっさり……」

「恐ろしかった?」


 モローが訊き返すと、ジョシュはこっくりと頷いた。


「残虐っていうんですか……」

「おい、あまりべらべらと喋るんじゃない」と、リネーが口を挟んだ。

「なぜです」と、モローが言い返した。「聞かれて困る話でも?」

「私の品位が損なわれるという点においてはそうだ。オゼイは若い女とみればそれが下賤の者でも手を出さずにはいられないような、下品な男だった。だが、あらぬ疑いをかけられるくらいならば、いいだろう。話してやれ、ジョシュ」

「へ、へぇ」と、実は話好きの彼は、豊かな髭の下でからからに干からびた唇を一舐めするとこう続けた。「オゼイの旦那は、なんというか……剣を抜く機会をいつも窺っているような人でした。人を斬りたくて仕方がない、そんな……」


 そこでジョシュは話しながら様々なことを鮮明に思い出して、情けない顔になった。


「ありゃあ、血を見るのが好きな化け物でした。まぁ、守られてたあっしが言うのもなんですが……その、野盗連中からですよ。旅人を襲撃して、人様のもんを盗ってやろうなんて考える輩はクズぞろいですが、戦意を喪失してみっともなく泣き叫んでいるような人間を面白がって斬れるほうも大概じゃないですか」

「ふむ……」と、モローは気を悪くした様子で頷いた。

「それに、前後になにをしてたって……例えば居眠りだったり、酔っ払っていたり。けど次の瞬間には人殺しの目になってるような人なんだ。あっしにはそれが一番恐ろしかった。あんなに、あんなに自然に人を殺せる人間を、あっしはオゼイの旦那以外にゃ知りません」


 そこまで聞いて、モローは抵抗を感じつつもう一度オゼイの死体を確認した。改めて観察してみれば、彼の腰に差さった剣は鞘に収まったままだった。


「そんな男に、剣を抜く暇も与えなかった……か。……ん?」と、彼は死体を跨いで左側に移動すると、剣の傍にしゃがみ込む。

「どうかされましたか、閣下」


 ドミニクが尋ねると、モローは少しばかり上向きになっている剣の柄を指さして言った。


「握りに血液が付着している。それから右手のひらにも。この男、反撃を試みてはいるようだ」


 リネーが死体に注目し、眉を片方吊り上げた。


「……革袋が見当たらないな」

「なんです?」ドミニクが眉をひそめた。

「ああ、そういえば!」と、ジョシュが大きな声を出した。「酒の入った革袋ですよ。旦那はいつも肌身離さず持ち歩いてたんです、ベルトに挟んで!」

「ふむ……」


 モローは口元に手のひらを当てて考え込んだ。


「そもそもの死因はなんなのだ」と、この事態にようやくまともな興味を多少なりとも持ったリネーが呟いた。


 自分で調べようとする気概がまったく感じられないその振る舞いに、ドミニクは憤ったが、主の手前で迂闊なことは出来なかった。

 モローはふっと笑って言った。


「いいのですか? 私は嘘を吐くかもしれませんが」


 リネーが顔を赤らめた。


「冗談ですよ」と、モローは笑い、死体の右側を少し起こして、背中側の首の付け根にある生々しい傷口を示した。「これがとどめになったのは確かでしょうね。ですが最初の一撃は――」彼は次に同じく死体の右半身、背中側の上半身のくびれがあるあたりを示した。「ここ、衣服の上から腎臓を突き刺している。首の傷も、こちらも同じ凶器が使われた……おそらく小型の刃物……。切れ味は良くなかったようですが」

「一流の剣士を葬ったのがなまくらの刺し傷とは……皮肉ですね」と、ドミニク。

「そして最後に犯人は、血塗れになった手を被害者の服で拭った……。妙に落ち着いた行動だな」


 リネーの咳払いが静まりかけた空気を切り裂いた。


「つまり、凶器は?」

「食器類……ですかね」ドミニクは自信がなさそうに答えた。「ステーキナイフ、パン切りナイフ……どちらも入手は容易です。切れ味もいいとは言えない」


 リネーが大袈裟なため息を吐いた。


「“落ちる葉”の名が聞いてあきれるな。みすみす不意打ちを許すとは」

「旦那がそんなことで……」

「いい加減に現実を見ろ、ジョシュ。とにかく、この男を殺せる者などそうはいない。相手もかなりの使い手だろう、なにか心当たりはないのかね? ドニシエラ卿」

「……不毛だとは思いませんか」


 モローは少し考えてからそう言った。


「なに?」

「私も驚いているんですよ。こんなことになるなんて……」

「騙されんぞ!」と、リネーが声を大にした。「私は知っている。この男が言ったのだ。我々を見張っている者がいると! 貴公の差し金で間違いあるまい!」

「いまの話が本当であるとして。その者の姿を、あなたは一度でも見ましたか」

「それは……」


 無機質な鉄仮面に見据えられて、彼は反論を喉に詰まらせた。いくら真実味があろうとも、他人が味わった感覚をそっくり説明することは難しい。


「リネー卿。いまのあなたは、幽霊を怖がる子供と同じです」と、モローは彼の、もう証明のしようがない発言を一刀両断にした。「木目の模様が人の顔に見えたから。家鳴りがしたから、そこに何かがいるのでしょうか?」


 リネーは鼻の穴を膨らませた。


「わからぬものは、知ることです。我々はそうして恐れを克服する」


 ドミニクは目を閉じて聞き入っていた。

 ジョシュは感嘆の息を吐き、リネーに睨まれて俯いた。


「事件の捜査を急ぎましょう。目撃者もおりませんし、ただでさえ難航が予測されるというのに、こんなところで一時間も二時間も揉めている場合ではない。こうしているあいだにも、犯人は野放しですから」

「……よかろう」と、リネーは嫌々頷いた。「だが、貴公を完全に信用するのは無理だ。捜査にはそちらの用意した人員に、こちらからジョシュを見張りに付ける。それから私と貴公は領主館にて報告を待つ。この二つが貴公の判断に従う条件だ」

「……え」と、ジョシュは一拍おいて目を丸くした。「えぇ! あっしが!?」

「捜査の一部始終に付き添って、私に報告しろ。不審な点がないか、しっかり見張れ」

「いやいや、そんな大役あっしには……」

「人手が足りないのだ! 黙って従え!」


 雇い主から一喝されて、ジョシュは泣く泣く肩を落とした。

 モローは黙考し、


「いいでしょう」と静かに言った。「私のほうはドミニクに捜査を任せます。ほかの兵たちには彼の指揮のもと、基本的には現場の保存と周辺の捜索、集落内の哨戒に務めてもらう……というところでいかがでしょうか」

「問題ない」


 そうして話がまとまると、モローは騎士を振り向いた。


「そういうことだ。あとは頼んだぞ」と、言って声を潜める。「なんとしても、犯人が必要だ」

「……は」と、ドミニクは当惑を押し殺して頭を下げた。


 その後、モローは兵を集めて取り決め通りの指示を出し、数人の兵士とリネーと共に領主館へと戻って行った。


◇◆◇


 大変なことになってしまった、と彼らは思っていた。

 真っ当な理由で与えられた役目ではあるけれど、急に捜査と言われても手がかりらしい手がかりもないのにどこから手をつけたら良いのかもわからない。立場は違えど、似た境遇であるからか、ドミニクとジョシュは思わず顔を見合わせた段階で相手に同情した。


「お二人とも行ってしまわれた……」

「あのぅ……先に言っておきやすが、旦那。あっし、考えるのは苦手で……」

「……そうか」


 つまりは一人で情報を集め、分析しなければならないときて、慎重にやろうと思えば愚直に核心に迫るわけにもいかないというおまけつき。

 加えてモローは“探し出せ”ではなく、“必要だ”と言った。ドミニクは、その細かな違いを察せられない側近ではなかったし、リネーが被害者の立場を利用して可能な限り暴れるつもりであることもわかった。彼はため息を堪えきれなかった。


「しかし、泣き言を言っている場合ではないな」


 そう気合を入れなおして彼が顔を上げたとき、すぐ傍で声がした。


「ドミニク卿」

「おお、兵長」と、ドミニクはその声に振り向いて言った。「現場の警備はきみか」

「ええ、周辺捜索の指揮も任されていますが」

「お互い大変だな……」

「はは、まったく」兵長は朗らかに笑い、もとの精悍そうな顔つきに戻った。「……ところで、あなたのお耳に入れたい話があるのです」


 彼の手に握られた松明がパチパチと音を立てて燃え、闇夜に映える火の粉を散らした。


「と、いうと?」

「それが実は、今晩、皆さんの会食のあいだにオゼイ・ラドヴィン……事件の被害者が酒場で騒動を起こしていまして。兵のあいだでは、この件が殺人に一枚かんでいるのではないかという推測が飛び交っているのです」

「なに! それは本当か!?」


 途方に暮れていたところに光明が差してきて、ドミニクは高揚した。

 兵長は確と頷いて続けた。


「部下から聞いた話です。オゼイは酔って、酒場の店主ケント・リオッカ、その娘マーシャ、それからメルキン農場の長男レムバンに暴行を振るった挙句、これを止めに入った狩人コーバス・リストとになり、互いに一歩も譲らず、最終的には獲物を抜くまでに至ったようでして……」


 ドミニクは途中、息を詰めて固まった。兵長は喧嘩ではなく戦闘と表現した。彼は頭の中を整理して心を落ち着けるとなんとか言った。


「暴行を受けた三人は無事なのか?」


 兵長は顔を背けた。


「生きてはいます。そうとしか言えませんよ。聞いた話ですが、口が裂けても無事だなんてことは言えません」

「……そうか」と、ドミニクは事情を察して表情を曇らせた。

「それで、ここからなんですが、騒動のあとレムバン・メルキンの行方だけが知れないそうです。勇敢にもリオッカ父娘の助けに入ったそうで、彼が一番の重傷者だったそうなのですが……、部下の呼びかけにもまったく応じず、ふらふらと店を出て行った、と」

「そんな状態の人間を黙って見送ったのか?」

「私も同じことを言いました。ですが部下が言うには、気の毒すぎてそれ以上どうしたらいいのかわからなかったそうです」


 ドミニクは喉元まで出かかった正論を飲み込んで、もどかしそうに唸った。過ぎたことになにを言うのも無駄ではあるし、兵は意思のない道具ではない。


「兵長、それはいつのことだ」

「部下たちが騒ぎを聞いて駆け付けたのが、太陽が完全に山向こうに隠れてしまう前……。夕方六時の鐘が鳴った直後のことだったそうで、オゼイ卿が酒場を去って太陽が見えなくなり、レムバンが立ち去るころには陽が落ちていたと聞いています」

「ということは、彼の動向がわからなくなった時間と、我々が領主館に入った時間はほとんど一致しそうだな。我々が現場に到着したのが半時ほど前だから……」


 と、彼は空にある月の位置を確認した。


「いまが八時過ぎとして、。つまり彼の死亡推定時刻はざっくりと六時半以降から、七時のあいだ。我々は領主館に一時間ほど滞在し、そして伝令が食堂に駆け込んで来たのが七時半より前であることを考えると、死体が発見されるまでに半時弱かそれ以上の遅延があるのが気になるが……」

「死体の発見に時間がかかったのは、哨戒任務にあたるはずだった兵たちが、酒場で起きた騒動の事後処理にまわっていたからでしょう」


 そうか、とドミニクは頷いた。


「だとすれば、辻褄は合う。レムバンには、人目のない時間を突いてオゼイを殺し、逃走するだけの猶予があった。まぁ、オゼイほどの男が、怪我を負った素人にどうにかなる相手とも思えんが、万が一ということもある。復讐心が彼のなかにあったとしたら、動機には十分……」

「でも一度、こてんぱんにされているんでしょう?」と、それまで黙っていたジョシュが率直に言った。「いい戦いをしたっていう、その狩人さんのほうがよっぽど怪しいと、あっしは思いますがね」


 そう言って、ドミニクに見られていることに気が付くと、彼は慌てて顔の前で手を振った。


「ああ、いや! これは余計なことを……!」

「……いいや。いいさ、鋭い意見だよ」とドミニクは言い、また兵長のほうを見た。「リストのほうはどうなんだ? 互いに獲物を抜いたということは、やつも武器を持っていたんだろう」

「ええ、短剣を一本」

「短剣!」と、ジョシュが声を弾ませた。


 凶器が“小型の刃物”であると聞いた以上は、勘繰らないほうが無理というものだったが、兵長はいぶかるように言葉を続けた。


「部下から聞いた限りでは、彼は通りすがりに騒ぎを止めに入っただけ、という印象です。オゼイに対して、個人的な恨みや殺意があったかどうかまでは……」


 ジョシュが腕を組んで難しい顔で首をかしげる。


「そのあたりも気を付けて見てみるとしよう」と、ドミニクは言った。「情報、感謝する。兵長」

「会食が終わり次第、報告差し上げようと思っておりましたが」

「仕方がないさ」と、ドミニクが肩を竦めた。「今日は色々と立て込んでいる」

「はい。それでは、任務に戻ります。……ご武運を、ドミニク卿」

「ああ」


 兵長がちらりとジョシュのほうを見て、配置に戻って行く。

 思いきり背伸びをして背骨を鳴らし、ドミニクは息を吐いた。


「まずは、酒場に寄ってみるか。そうだ、きみのことはジョシュと呼んでも?」

「へ、えぇ、好きに呼んでくださいよ。ボランの旦那」


 慣れない呼ばれ方に彼は苦笑し、これは珍道中になりそうだと、そう思った。

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