『策謀』・下

 夕方。リオッカの酒場は仕事終わりの客で賑わった。

 レムバンはその最も忙しい時間を厨房の水桶に付きっきりになって過ごし、自分が何枚の食器を洗ったかを考えるのをやめてから、客の無関心に苛立った回数が四回を超えたあたりで洗い物の追加ペースが落ちたことに気が付いた。

 ひとまず峠を越しただろうかと考えて手が止まり、食べかすや油で汚れた木桶の水をじっと見つめる。洗い物はまだ残っていた。そろそろ水を変えようかどうか迷っていると、彼の背後で小走りの音が聞こえた。


「お疲れさま、レムバン」

「マーシャ……!」と、厨房へ入って来た恋人の姿に彼は疲れも忘れて笑顔になった。「ああ、もうくたくただ。きみが現れなかったら心を失くすところだった」

「はいはい。大袈裟なんだから」


 彼女は慣れた様子でいい加減に応じた。


「でも注文は減って来たから、一息つけるわよ」

「ああ、そう。やっとだな」


 彼は万感の思いで大きく息を吐き出して、やっぱり桶の水を変えるべきだと考えて立ち上がろうとしたが、腰と膝に鈍い痛みが走って小さく呻いた。ずっと屈んだ姿勢でいたせいで関節がこちこちに固まっていた。


「ちょっと、平気?」

「大丈夫。少し待てば……ほんとに少しずつ慣らしていけば……」


 彼は駆け寄ってこようとしたマーシャを制して、尻をほんの少し浮かせた姿勢で歯を食いしばった。


「けど、そうだな。……もしよかったら手を貸してくれ」

「なんで強がったのよ。ほら、私が支えているから……」


 彼女は彼の腰に手を添えながら、もう一方の手を彼のわきの下に差し入れた。彼の二の腕を掴むと、筋肉質の逞しい弾力がかえってくる。彼女は密かに胸を躍らせた。


「ああ、くそ。この歳で腰が曲がっちまうよ」

「それは最悪ね。ほら……、ゆっくり立って背中を伸ばして」

「うん。……よぉし、いい感じだぞ」と、彼は立ち上がるにつれて胸を張り、声を太くして言った。「英雄の復活だ」

「じゃあ英雄さん、残りの食器も洗いましょうか?」


 レムバンがしゅんとして肩を落とすと、ちょっぴり意地の悪いマーシャの笑い声が厨房にこだました。


「冗談よ、頑張ったご褒美にハグしてあげるわ。こっちにきて」

「そうこなくちゃ」


 彼はパッと表情を明るくして、濡れた手をズボンで拭うと両手を広げて待っている彼女のもとへ歩み寄った。どちらからともなく抱擁し、相手の体温を感じ合って腹の底から息を吐く。次第に二人の身体がゆったりと揺れ始め、小さく喉を鳴らしたり、微笑いあったりした。

 それから少し身体を離して、二人はしばらくの間見つめ合った。やがてレムバンの視線は彼女の柔らかそうな唇に吸い寄せられた。


「……キスしてくれる?」

「いいわよ……」


 彼女は彼の腕の中で背伸びをした。二人の顔が互いの吐息が交わる距離まで近づいて、熱い視線が絡み合う。

 しかしまさに彼らの唇が触れようとした瞬間、店の外から酒の追加を叫ぶ声が聞こえてきて、二人は咄嗟に身体を離した。


「もう、なんて間が悪いの」と、マーシャが言った。


 レムバンは彼女の腕を掴んだまま放そうとしなかった。


「いや、まだ……」

「だめよ、待たせるともっとうるさくなるんだから」


 マーシャは彼の手を優しくほどいたが、名残惜しいのは彼女も同じで、彼の手から指先までを完全に離すには時間がかかる。


「行かなくちゃ。お父さんが様子を見に来るかも」

「……それは、まずいな」

「うん、だから……」

「わかったよ。俺も……桶の水を裏に捨てて来なくちゃな」


 彼らはぎこちなく言葉を交わして、甘い時間を切り上げた。厨房を出る前に振り向いたマーシャに手を振って送り出し、ため息を吐き出すと、レムバンは汚れた水がなみなみと入った大きな桶を抱えて裏口から外へ出た。


 上空では星が見え隠れしていた。東の地平線に近いところはもう完全に闇に沈んでいて、エラ山脈のうしろ側では空が赤々と染まっていた。まるで山向こうで業火が燃え広がり、空を炙っているようだった。酒場の建物を挟んで酔っ払いたちの宴が聞こえていたが、わけもなく不安になった。


「……さっさと済ませよう」


 励ますように言って、酒場裏の草むらに桶を持ったまま入っていく。雑草が踏み倒されて道が出来ている。泥に浸かった残飯をつついていた鳥が数羽飛び立っていくのを待って、いつも桶の水を捨てている穴に水を流し込み、軽くなった桶を上下に振って雫を落とす。踵を返したところで、甲高い悲鳴が聞こえた。


「――いやっ! なにするのよ!」


 数秒後、レムバンは桶を放り捨てて駆け出していた。


「痛ぇなぁ! 尻に手が当たっただけだろうが!」

「当たった!? 揉んだの間違いでしょう!」


 男の怒声とマーシャの声。平和な宴会は終わりを告げた。


「だったらなんだ? 俺を打ちやがって、この小娘!」

「やだっ! 離してッ!」


 緊迫するやり取りに芯から身体が冷えていく。

 レムバンは懸命に走った。屋外席までは店の裏から建物を回ればすぐの距離のはずなのに、間に合わないという気がしてひどく焦った。(とは具体的にどうなることなのかについては深く考えなかった)。


 屋外席に到着すると客の大半が席を立っていて、マーシャの姿は人だかりに埋もれていた。誰も止めに入るつもりもないのに、見物だけはしてやろうという根性が気に入らなかった。彼女はお前らのために働いてるのに! 両肩に怒りが漲った。


「おい! 俺の娘に手を出すな!」


 レムバンより早くマーシャのもとへ辿り着いた彼女の父ケント・リオッカが声を荒げた。彼は七年前に最愛の妻に先立たれてから男手一つで娘を育ててきた。そのころにはマーシャはすでにしっかり者の娘だったが、たった一人になってしまった家族が自棄にならず、父娘として向き合ってきたことは当たり前のことではなかった。

 多少の過保護ぶりに目を瞑れば、ケントは良い父親だった。

 彼はレムバンとマーシャの交際を認めていたけれど、若い男に親切な男というわけではない。仮に相手が娘の選んだ男だとしても、彼は可能な限り目を光らせていた。行きすぎた婚前交渉は言語道断、軟派行為には拳も出た。この村の人間で、彼がどういう男か知らない者はいなかった。


「なんだ? てめぇは……」

「この娘の父親で、ここの店主だ馬鹿野郎!」


 まずい、とレムバンは思った。ケントは良い父親だが、喧嘩っ早いくせにからっきしだった。それでも荒くれ者に怯むことなく立ち向かう背中は尊敬に値するが、恋人の悲しむ顔が目に浮かんだ。


「ケントさん、待って! 頼む、通してくれ!」


 人の隙間に押し入って、潰されて縮んだり、押し戻されたりしながら辛うじて前進する。気持ちに反して遅々とした己の足取りに苛立ちながら、人混みをなんとか半身だけ抜け出したときだった。


「父親だぁ……?」と、見慣れない風貌の男がゆらりと席を立ち、マーシャを手首を掴んで拘束したままケントににらみを利かせた。かと思えば凶悪な笑みを浮かべて、なんの前触れもなく腕を薙ぎ払った。


 男の腕はケントに軽く触れただけに見えたが、実際には一発で彼の身体を地面に倒した。尻もちをついた彼は、左の頬を押さえていた。力の差は歴然だった。


「お父さん!」

「ケントさん!」


 マーシャとレムバンの声が重なった。

 レムバンは身をよじって人混みを完全に抜け出すと、ケントと男の間に割って入った。男は一瞬だけ驚いた表情を浮かべたが、すぐに人を食ったような顔つきに戻って言った。


「おいおい、次から次へなんなんだよ。俺は見世物を頼んだ覚えはねぇぞ」


 男の態度は癪に障ったが、余裕は強さの証明だった。

 レムバンは恐れから無暗に飛び出しそうになる足を踏ん張って、じっくりと男を観察した。彼が最初に注目したのは無精ひげの生えた顔だったが、やはり見覚えはない。次に屈強な体格と、腰の剣に着目した。


 まともにやって太刀打ちできる相手だろうかと考える。ラウダやイムカにちょっかいをかけるフローやヴィクターを相手にするのとはわけが違う。喧嘩にすらならない可能性も十分あるし、あの剣を抜かれればそれ以上は歯向かえない。


「おい」と、男が凄んで言った。「ガキはすっこんでな」

「……そうもいかないんだよ」レムバンは虚勢を張って睨み返した。

「あん?」

「惚れた女と、その親父さんの前じゃな……みっともなくて退けないぜ」

「ははぁん……」


 男の顔つきが変わった。彼はマーシャを突き放し、


「そんなら精々、気張ってくれや」と、腕を大きく振りかぶった。


 レムバンは見切るつもりで目を見開いた。

 だが、そこからは痛みと悲鳴の応酬だった。序盤は彼も殴り返すことを何度も試みたが無駄だった。純粋で容赦のない暴力の前に、道理や秩序は立ちふさがることもできないということを、本能で理解した。手も足も出ないことを悟ると、彼はとにかく丸まって苛烈な攻撃に耐えた。闘志が尽きるまでは秒読みだった。いつの間にか地面に倒されていた。蹲っていると下から掬い上げるように脇腹を蹴りつけられて、彼は土の上を転がった。


「レムバン!」


 悲痛な声でマーシャが叫んだ。観客もすっかり酔いから醒めて立ち尽くしていた。ケントは見ているだけではなかったが、地面を這って男の足にしがみついては蹴り飛ばされ、痛めつけられて動かなくなった。

 視界が霞んで、息をするだけで脇腹が鋭く傷んだので、レムバンは妙に冷静になって、骨折しているんじゃないかと考えた。


「もう終わりか?」


 仰向けになった頭上から男の声が降ってくる。左手の甲を思いきり踏みつけられて、声にならない悲鳴を上げる。


「やめてよ!」と、マーシャが背後から男に掴みかかった。

「やめてほしけりゃ誠意を見せなよ、お嬢ちゃん。俺は客だってのに、扱いを間違ったのはそっちじゃねぇのか?」

「……どう、すればいいの」


 びくともしない男の屈強さを前にして、彼女は声を絞り出した。

 

「そうだな……」と、男は少女の成熟した身体を舐めるように見つめて、下衆な笑みを浮かべた。「裸になって頭を下げな。額を地面にこすりつけてな」


 彼女は言葉を失った。男は急に真顔になって、瞳を斜め下に動かした。


「できねぇってなら……」


 レムバンが再び悲鳴を発した。


「やる! やるわよ、だからやめてっ!」


 男は低く笑った。


「や、……やめ、ろ……」と、掠れた声でレムバンが言った。

「黙って見てろ。お前のために頑張るってよ、健気な女じゃねぇか」男はしゃがんで、彼の顔の近くで酒臭い息を吐きかけた。「恨むんならな、自分の女一人守れねぇてめぇを恨むんだな、ガキ」


 レムバンの頭のなかが真っ白になった。ただ茫然と、口を半開きにして、瞼の腫れあがった目で宙を睨むことしかできなかった。


「さっさと脱げよ、お嬢ちゃん!」


 男の声が遠くに聞こえた。ケントは横向きに倒れたままピクリとも動かない。


「どうした、盛り上がらねぇじゃねぇか。お前らももっと騒げ!」


 男はついに観衆までも煽り始めた。彼らはレムバンたちに同情的だったが、恐怖心から続々とマーシャのストリップ・ショーを囃し立てた。

 マーシャが服を脱ぎ始めた。彼女は泣いていた。嗚咽がレムバンにも聞こえていた。彼も涙を流していた。


「おい、おせぇぞ」男が大声をあげた。「一枚脱ぐのにどんだけかけるんだ」


 男がマーシャに近づいていく。彼女は肌着シュミーズ姿のまま我が身を抱いて、怯えと羞恥に全身を震わせた。


「なんだったら俺が手伝って――」

「そこまでだ」


 低く、ぼそぼそとした声に狂騒がぴたりと治まった。場の注目が声のした方向に集まって、人だかりが割れ、長身の男が現れた。頬骨が突き出るほどに痩せた顔、落ちくぼんだ瞳、俊敏そうな痩身に、細長い手足。微かな異臭。

 レムバンは、夜が人の形を成しているようなその男の名を、全身の痛みに喘ぎながら呟いた。


「コーバス……リスト……。なんで……」


 彼が森のなかの家を離れて、村のほうへ降りてくることは稀だった。ごくたまに風呂屋を洗体のために使ったり、ウタシ川のほとりで水を汲んでいる姿を目撃しても、人の多い酒場などには間違っても近寄らない人物だったとレムバンは認識していた。

 彼は周囲から疎んじられ、そして彼自身も人を嫌っていると思っていた。


「んだ……? てめぇは……」

「誰でもいい……、その娘から離れろ」


 コーバスの声は静かで、憤りは感じられない。丸まった背中からは予想できない根拠に満ちた彼の声色に、男は顔を顰めて拳をつくった。


「急に出てきて何様だと訊いてんだ!」


 男が荒ぶって五歩か六歩あった距離を二歩ほど詰めて、コーバスの目の前に迫った。蜘蛛の子を散らす騒ぎで観衆が退避した。男は彼にすぐ襲い掛からなかった。声と態度で脅し、相手の反応を見て楽しむつもりだった。

 しかし、コーバスは無反応だった。


「肥溜めくせぇな」


 男は手を変えてコーバスを挑発した。彼の顔に鼻を寄せて顔を顰め、馬鹿にした笑みを浮かべたのである。

 これにはコーバスも反応した。彼の目がぎょろりと動いて男を見た。


「よく吠える」


 男は最初から本命のパンチを打ったが、コーバスはこれを最小の足さばきで見事にかわし、反撃にしなやかな蹴りを見舞った。男は蹴りを折り曲げた腕で受け、コーバスが足を戻す時間を使って腰を落とすと、砂埃を巻きながら下段の回し蹴りを放った。

 体勢を整えるのがわずかに遅れたコーバスは、その攻撃を無理にかわそうとしなかった。足を払われて背中から転倒する勢いを受け身で殺し、横に転がって膝立ちになると傍にあった椅子のあしを掴んで投げつけた。狙いは正確に、追撃に出た男の頭部をめがけて飛んだが、すんでのところで身を屈めた男には当たらなかった。


「……やるじゃねぇか、さてはてめぇだな?」と男が言った。「俺たちを見張ってたのは」

「なんの話かわからんな」

「しらばっくれても無意味だぜ。いまの動き、なによりの証拠だろうが……!」


 男が剣の柄に手を添えた。コーバスも背中に手を回していた。腰のベルトの背面に短剣が忍ばせてあった。


「……俺はただ、クズの所業を見ていられなかっただけだ」


 あとは開戦の合図を待つばかり――。

 両者とも、いつでも剣を抜く準備が整っていた。


「不意をつけばあったかも知れねぇが」男は嫌らしく笑って唇を舐めた。「馬鹿みてぇにと俺の前に現れたこと、後悔して死にな」


 場の空気が張り詰めた。誰もが怪我では済まない結末を迎えると思った。

 けれど二人が同時に獲物を抜き放ったそのとき、静寂を貫いて夕方六時を告げる小教会の鐘の音が鳴り響いた。夜を呼ぶその音は、山に、空に、雲に溶けて消えた。

 太陽はとっくに見えなくなっていた。


「待て待て! なんの騒ぎだ!」


 そのとき、酒場の騒ぎに入って来たのはベラングラーシェの兵士たちだった。彼らは夜間の哨戒任務のために松明を掲げて人々を照らし、浅い呼吸で地面に転がるレムバンとケント、肌着姿で蹲ってすすり泣いているマーシャを見て動揺し、剣を抜いた男とコーバスの姿を認めると一斉に身構えた。


「これは、どういう状況でしょうか……オゼイ卿」と、兵士の一人が言った。「客人ゆえ丁重に扱えというのがモロー様からの指示ですが、ことによっては大問題ですよ」

「オゼイ……」


 また別の兵士に抱え起こされたレムバンは血まみれの口を動かして、その名を怒りの標識に刻みつけた。彼の両目に、憎悪の炎が燃え上がった。

 オゼイ・ラドヴィンは小さく舌打ちをしてから剣を納めた。


「なんでもねぇよ。この村じゃ、酔っ払いが暴れるのがそんなに珍しいのか?」


 レムバンはカッとなって、食って掛かろうとしたが、身体中が激しく痛んでそれどころではなかった。彼はあちこちに出来た傷口が、物理的にではなく、憤怒によってじくじくと膿むのを感じた。全身が熱をもっていた。自分を支える兵士の声も、彼にはまったく届いていなかった。


「……これだけのことをして、そんな言い訳で済むと思っているのか」

「済むんだよ。それが力の凄いところさ。権力にしろ、暴力にしろ、こいつらは」と、オゼイが村人たちを見まわした。「それを、その恐ろしさをよくわかってる」


 なぁ、と彼が声をかけるも、目を合わせようとするものは一人もない。


「ま、そういうこった。わかったらそこを通してもらおうか、兵士諸君」


 兵士たちは視線を交わすと、ばらばらと道を開けた。彼らはよく鍛えられ、指導され、だからこそ自らが組織の末端に過ぎないことを理解していた。


「報告はさせてもらいますよ」と、ある兵士が言った。

「好きにしな」去り際に、オゼイは答えた。


 彼が立ち去ると、酒場にいた者たちがわっとコーバスを取り巻いた。不愛想な狩人は、一躍村の英雄だった。彼は迷惑そうにしながらも、感謝の言葉の数々を無碍には出来なかった。

 対して、どん底の気分を味わっている者たちもいた。ケントは意識が戻ったが、動ける状態ではなかった。マーシャはショックから立ち直れずに、泣き疲れて放心していた。レムバンは兵士たちからかけられる慰めの言葉に一言も反応せず、手当てを受けることを拒んで一人で酒場をあとにした。

 彼らは、なにも知らなかった。

 そして夜の闇が、ベラングラーシェを包み込んだ。


◇◆◇


 領主館一階の南廊下は、貴賓をもてなすために使われる広い食堂につながっている。差配人一家が日常的に集まって、ここで食事をとることは何年も前からなくなっていたが、いまもイルジアだけはこの場所を利用していた。


 彼はふだん自分が座っている上座にリネーがいるのをちらりと見て首を竦めた。では伯爵の家令である自分が一番偉いのだと、リネーは迷わず上座に着いたが、ベラングラーシェの領主はモロー男爵であり、どちらの立場が尊重されるのかについては微妙なところだった。到着の遅れている彼が食堂のドアを開けたときこの図をどう思うのか、気がかりだった。


 気がかりといえば、リネーの護衛の姿が見えないのもそうだった。はじめは単に遅れているだけなのかと思いきや、太陽が稜線に隠れ、鐘が鳴り、暗くなっても一向に姿を見せる気配がない。


 リネーはなにも言わなかったが、内心は穏やかではなかった。このまま姿を見せないつもりなら、今回で契約を打ち切ることを考えていた。肝心な時に頼りにならないのなら、腕が立つとも使い物にならないし、昼間の態度も気に入らなかった。

 まもなく食堂のドアが開いて、仮面卿ことドニシエラ・モローとその騎士が姿を見せると、空気が変わった。モローの物々しい鉄仮面と、黒一色の服装はなにかしら不吉なことを連想させた。


「お待たせした」


 たった一言そう言って、彼はイルジアの対面に座った。あらかじめ食器が並べてあったので、空いている席は見ればわかるが、この配膳の意図に彼が気付いているとして、文句をつけなかったのはリネーにしてみれば意外だった。

 騎士の男も顔色を変えなかったので、リネーは彼らを少しだけ見直した。


「これで全員ですか? リネー卿とあと二人、付き人がいると聞いていましたが」


 中性的でざらつきのある声が食堂に響いた。リネーは咳払いをした。


「全員だ。一人は御者、もう一人は……無作法者ゆえ顔を見せるなと言ってある」

「そうでしたか」と、モローは含み笑いをした。「となると、これは私が無粋なことをしましたね」


 モローが騎士を振り向いたので、彼は焦った。ここでこの男を退室させてしまっては、イルジアが動きにくくなる。彼は不安要素をできる限り目の届くところに置いておきたかった。


「あぁ、いや……気にすることはない。居てもらって構わんよ」


 そう言った彼を、モローの仮面がじっと見つめた。彼は、言葉よりも如実に怪しまれていることを感じ取って、勘の良さに冷や冷やしながら言葉を足した。


「お互いに細かなことにこだわるのは止そうではないですか、ドニシエラ卿」


 彼は精一杯、愛想のいい笑みをつくった。心にもないことだが、社交界にて百戦錬磨の実力が彼をとことん友好的に見せた。

 モローもまた微笑みを返した。


「……そういうことでしたら、お言葉に甘えましょう」

「それよりも、料理はまだかな」と、リネーはとぼけて言った。


 イルジアは符丁を聞いた門番のように呼応した。


「見てきましょう。少々お待ちを」


 席を立つときにモローの視線を感じたが、彼は気が付かなかったふりをして食堂を出た。

 観音開きの扉に背を向け、一呼吸おいてから足早に書斎へ向かう。もう迷っているときではない。いまこそあの箱の中身が必要だった。


◇◆◇


「これは恐ろしい毒でな」


 重要な話がある、と言われて案内した彼の書斎で、リネーが派手な服の懐から取り出したのが例の小箱だった。リネーは彼に箱を手渡すと、開けて中を見るように言った。箱には鍵穴のない小さな掛金錠がついていて、簡単には開かないようになっていた。彼は留め具の輪っかを90度捻って蓋を開けたが、中に入っていた小瓶には触れようとしなかった。


「即効性のある強力なもので、無味無臭。色もない。この量の半分でも摂取すれば、数時間で内臓に機能不全をきたすだろう。まだあまり世に知れ渡っていないのも強みだが……奴が本当に王室との関りをもっているのなら、知っていてもおかしくない」

「……そ、それでは、これをモロー男爵に……?」と、イルジアは小瓶に入った灰色の粉末から目を逸らさずに言った。

「まぁ、聞きたまえ」


 リネーは世間話でも始める様子で、イルジアの特等席に腰かけた。


「きみには明日、モローとの会食の場で振舞われる食事にこの毒を盛ってもらう。事前に沙汰があるまで料理を運ばぬように使用人に言っておき、彼らの様子を見に行くと言って自然に食堂を出ろ。厨房には必要最低限の人員だけを置いておき、その者らに前菜を運ばせているあいだに主菜にこれを混ぜるのだ。メニューはシチューか、スープがいいだろう。だが、モローの食事にではなく、私の食事に盛ることだ。私には特別な食器の用意がある。それを使えば、色も匂いもないこの毒を看破することができる」


 と、彼はそこまで言って遠くを見るように目を細めた。


「……そうだな、私の主菜からは食材を一つ減らして盛り付けさせろ。適当に理由をつけてな。そうすれば毒入りの皿が必ず私にまわってくる。それさえ出来ればこっちのものだ。モローの奴が三文役者のお前を使い、私を暗殺しようとしたのだと言いふらす口実になる」

「し、しかし……モロー男爵は関与を否定するのでは……」

「だとしても、私の命が狙われたという状況には変わらない。疑いというのはそれこそ毒のようなものだ。この話が広まれば、奴はじわじわと追い詰められる。そして追い詰められれば、奴は手札を切るだろう。私はその札に興味があるのだ」


 彼はいつになく柔らかい調子で言った。


「安心したまえ、私はきみを裏切らない。明日のの証人として保護し、罪にも問わない」

「では……」

「死人も出ないし、きみは確実に安全だ」と、彼は言って、椅子の背もたれに深々と沈み込んだ。「やるかね?」


 もとよりイルジアに断る選択肢はなかった。

 その日、彼は料理人に主菜を牛肉のシチューにするように言い、リネーの皿から玉ねぎを抜くように言った。牛肉のシチューを選んだのは、匂いが強く、スープの色が濃くなるからだった。毒は無味無臭で色がないと聞いても、彼には恐ろしかった。

 そうして彼は、与えられた任務をやり遂げた。


◇◆◇


 料理を運んできた使用人たちのあとからイルジアが食堂に戻って来たとき、ドミニクは確かに違和感を覚えた。追えば逃げるそれは、女性の使用人が見当たらないという気付きの影で、彼をせせら笑った。

 彼は波立つ湖面に浮かぶ月のように不定形なその違和感の正体を掴もうとしたが、領主館の使用人たちが食卓に前菜を並べ始めると集中が途切れてしまった。波立つ湖面に浮かぶ月のイメージは消え去り、頭の片隅にぽっかりと虚しい空白が出来上がる。悪態を吐きたい気分だが、それよりも優先しなければならないことがあった。


「閣下」と、彼は主の耳元で声を潜めた。

「行儀が悪いぞ」と、モローはまず騎士をたしなめた。「なんだ?」

「は、……


 モローの顎先がぴくりと上がった。


「悪巧みですかな?」と、リネーが目ざとく指摘した。


 イルジアが着席し、ドミニクが直立する。

 ドニシエラ・モローは口元に微笑を湛えてリネーを見た。


「失礼。やはり退室させておくべきでした」

「あぁ、いや……」と、リネーは内心で自らの失言を悔いた。


 計画が順調に進行していることはイルジアの目を見ればわかったが、主菜が運ばれてくるまでにはまだもう少し時間がかかる。頭の切れそうなこの男には、ここで大人しくしていてもらう必要があった。

 しかしながら、軽率な一手によって流れは変わろうとしていた。


「彼は心配性なのですよ。私のような人間に仕えてくれる者はそうはいませんから、文句はありませんが。しかし、ご厚意にあずかってこの場に同席している身としては、いささか配慮に欠ける行動だったな、ドミニク」

「は、申し訳ありません」


 彼は深々と頭を下げた。


「この通り。許していただけますか、リネー卿」と、モローが言った。「どちらにせよ外させますが」


 リネーの瞳が泳いだ。


「いや、いや。堅苦しいのはやめましょう。ちょっとした冗談……こだわるのは止そう……と、先刻そう言ったばかりです」

「おや……。先ほどから聞いていれば、卿はなにやら……我が騎士を警戒しておられるのですか?」

「いや……」と言ったまま、リネーは開いた口を塞ぐことができなかった。


 存外、仮面卿も大したことはない――そう侮った矢先のことで、彼には瞬きのうちに天地が逆転してしまったかに思えた。


 王都の座すポンロー領を中心に工芸品を商っている男から昨年買ったシルクのハンカチに包んで懐に忍ばせているとっておき(銀のスプーン、ナイフ、フォークの三点セット)が、上着の内ポケットでずんと重みを増した気がした。


 彼は激しい動悸に眩暈を覚えた。食堂の扉が騒々しく開け放たれるまで、外が騒がしくなっていることにも気付かなかった。


「お食事中、失礼します!」


 兵士が一人、息を切らせて入り口に立っていた。


「なにごとだ!」と、ドミニクが吠えた。「騒々しいにもほどが――!」

「勝手ながら、緊急事態であると判断しました!」


 兵士は興奮状態だった。制御を失い、暴走する馬。いま彼を突き動かしているものは、使命感ではない。ドミニクは神妙な顔つきになった。


「申せ」と、モローが静かに言った。

「は、報告します……!」


 ドミニクは見た。

 兵士を突き動かすものが何なのか。

 彼は、声まで震わせた。


「――オゼイ卿と思われる男性が、先ほど死体で発見されました!」


 食堂の空気が凍り付いた。

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