『策謀』・上
現エルタンシア七領に数えられるサスキアは、北はランプ海を
潮の満ち引きを利用した幻の海賊入り江、そして世界中の海で略奪の限りを尽くしたサスキアの海賊たちと、その行いをときに恐ろしく、ときに英雄として謳った物語はあまりにも有名だが、政治的・軍事的にこの地の重要性が増したのはつい最近のことだった。
かつてのエルタンシアは九つの領地からなる国であり、サスキアの東には“グローヴァー”、“リーデンス”という二つの領地が存在していた。国土の北方でマスケニスとの国境に隣接していたこれらの土地は、しかし十一年前に火蓋を切った大きな戦争――いわゆる第五次東西戦争の戦場となり、わずか二年のあいだにマスケニスの占領下におかれてしまう。
第五次東西戦争はこれを機にエルタンシア側が不利な協定を呑み、一時休戦。グローヴァー、リーデンスはエルタンシアの地図から消え、サスキアは国境線沿いで他国との睨み合いの続く、国土防衛の矢面に立たされることになった。
しかし長らく外国の脅威から離れていた領土内の防衛拠点は大昔に建てられた古いものが多く、再整備は国境付近で急がれたが、領土の西側では間に合わず、べラングラーシェ城砦のような建国以前の古城がそのままにされていた。
この事態を憂いた現エルタンシア王・スタニトス二世は、外国から領土や民を守るのは城ではなく人であるとし、国中から優れた能力を持つ者を選抜し、領土を守護する貴族たちの再編を行うようサスキアとリーデンスに促した。王家の名のもと『実力による選抜を徹底する』と打たれた試みに、各地の名家は歴史と威信を賭け、没落貴族は御家の復興のために奮ったという。サスキアのカッソロー城でいまも年に一度行われている武闘大会はこのときの名残であるが、もとは知恵や政治の手腕を競う場でもあった。
建国以来例を見ない大胆な措置は、諸侯貴族や民衆に多くの混乱を招いたが、安寧の上にあぐらをかいた貴族たちが秘密裏に行っていた諸々の悪政や、不正を暴いた善政としてのちに支持されている。
二年前にべラングラーシェを下賜されたドニシエラ・モロー男爵も、またそうして成り上がった無名の貴族である。彼は謎多き人物であり、経歴や出生はもちろん、その素顔さえも“仮面卿”と渾名されるとおり鉄面の下に隠されている。それでいてエルタンシア王族と太い繋がりを持っていると目されており、背後には第三王女レイヒエットの存在があるのではないかと噂されているが、真相はいまだ不確かだ。
なにはともあれ、王侯貴族たちの暗がりが如何様であるにせよ、この二年まったく隙を見せないやつの徹底ぶりは認めないわけにいかない、とリネーは思った。
「だが、今夜までだ……。私が目にものを見せてやる」
一晩明けて、二日目の昼下がり。リネー・アールベックは、領主館の彼の部屋に低く響く声でそう言った。彼は、サスキア伯から与えられたベラングラーシェ視察任務を拡大解釈していたが、家令として長く伯爵に仕えてきた彼にとって、モローは領土にこっそりとハサミを入れる身の程知らずで、許すべからざる簒奪者だった。
「勝算はあるのかよ」
領主館のアプローチを見下ろす南向きの窓。その傍の壁に、立ったまま寄りかかっていたオゼイは、腕組を外してうなじをぼりぼりと掻いた。
「そいつについて、あんたはなんにも掴んじゃないんだろ」
「なんだ、私の心配か?」
「違う」と、オゼイは顔を顰めた。「負け戦に巻き込まれるのが嫌なだけだ。あんたの都合で、俺にまで火の粉が降りかかるのは勘弁だって話だよ」
リネーは長椅子に深く腰掛けた姿勢で、背もたれや座面と同じ起毛素材のひじ掛けを撫でながら、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「心配するな。策ならある」
「そうだろうよ、それは相手さんも同じだぜ」
意味深長な声色に、リネーは笑みを張り付かせたままオゼイを振り向いた。
「なにが言いたい」
「気づかねぇか?」
「だから、なんの話だ」
「俺たちをずっと見張ってるやつがいる」
リネーの表情からすっかり笑みが抜け落ちた。彼は周囲を警戒した。
「……なに? どこにいる?」
「ここには居ねぇが……わからねぇ。随分慣れたやつだ。よっぽどのぼろを出さねぇ限り、こっちから接触するのは不可能だろうな」
「情けない! それでも護衛か!」
「無茶言うなよ、戦い方が違いすぎるぜ。もちろん目の前にそいつが出てくれば、勝つのは俺だ。ビクビクすんな」
「おい、貴様! 口の利き方には気をつけろ!」
「あんたこそ気をつけな、俺の機嫌ひとつだってことを忘れるなよ」
「なんだとっ……!」
彼は立ち上がって怒鳴り、眩暈を覚えて尻もちをつくように椅子に座った。
オゼイはその醜態を鼻で笑って、ちらりと窓の外へ視線をやった。彼の視界の左には西向きに建てられた領主館の正面玄関が見えていて、彼やジョシュに与えられた部屋がある三階建ての宿泊棟のほか、朝食どきに初めて入った一階の食堂は角度の問題で大部分が宿泊棟のかげに隠れている。
眼下にはいくつかの花壇とアプローチがあって、館のまわりをレンガ造りの高い壁が囲っている。壁の内側に入るには壁をのぼるか、右手に見える大通りから二つしかないアーチ梁の出入り口を使うしかない。
死角があるとすれば、通りに面した石壁の陰だが、通行人からは丸見えだ。
東の寂れた通りからは宿泊棟が邪魔になっていて、見張るには視界が悪いし、大通りを行きかう人の流れに違和感もない。なのに、なにかに見られているという感覚が首の後ろにとりついて離れない。
「……くそ、何者だ?」
得意分野の戦いならば、言ったとおり彼は誰にも負けるつもりはなかった。
しかし自分の手の届かないところから延々と緊張を押し付けられている状況は好みではない。出来ることならすぐにでも嫌な気配の正体を掴んで引きずり出し、腰に差した剣でバッサリとやってしまいたかった。
「おっと……」
彼は視界の左隅でなにかが動いたのを察知すると、窓際の壁に素早く潜んだ。それから目だけを出して館の玄関先の様子を窺った。さっそく好機が巡って来たかと期待した。
けれども、そこに居たのはお使いのためのバスケットを手首に下げて、使用人の制服を着た女だったので、彼はすぐに興味を失くしかけたが、不意打ちめいた予感が次第にむくむくと膨れ上がって、眼下を小走りに大通りへと駆けていくその姿に釘付けになった。
「待て、待て待て……」彼は無意識に呟いて窓に張り付いた。「見間違いかと思ったが……こいつぁいい。なぁ――」獰猛な笑みが顔中に広がって、彼はたちまち捕食者の目になった。「そうだろう、スザンヌ」
これは面白いことになる。虫の好かない仕事より、なによりも。
◇◆◇
集落からベラングラーシェ城砦へ入るには、跳ね橋を渡って外郭門をくぐる必要があった。そこから先は兵舎と武器庫、練兵場を抜けて外郭より小高いところにある内郭へと入っていくが、そこは城壁に囲われて日差しが遮られやすいため、狭いうえにじめじめしている。
そのほか所狭しと配置されたこまごまとした施設――数頭の馬を繋いでおける簡素な
ドニシエラ・モローは主塔三階にある彼の私室の窓辺に立って、首筋から胸元にかけて垂れ下がった三つ編みの金髪を無意識に触りながら、午後も数時間を経過してエラの稜線の高いところに寄りかかる太陽や、集落から立ち上る煙突の煙、小さな点に見える人々の往来を、黒革のベルトで固定した無骨な鉄仮面の奥から眺めていた。
その仮面は彼の顔の上半分だけを覆い隠し、端正な顎の輪郭と、色白の肌に血色の良い唇がその下から見えていたが、完全に顔を隠さないことがかえって幻想的な気配を強調し、周囲を惑わせた。
そして、そういった工夫は部屋の随所にも散見された。
置かれているものはほとんどが高価な代物だが、仕事机の上には仕事道具や書類のほかに、丸いだけが取り柄の変哲のない石ころが並べてあったり、火の入った暖炉の上には刃のなかばから折れた剣が飾ってあった。
「そろそろか……」と、彼は独り言ち。
間もなく、部屋のドアをノックする音が二回聞こえた。
「モロー様」
「入れ」
「失礼します」
潤滑なやり取りのあとで真鍮製のドアノブが動作する音がして、部屋に一人の男が入ってくる。その人物はモローの側近で、直属の騎士ドミニク・ボランという青年だった。彼の登場から二年が経ったいまもべラングラーシェの井戸端で女たちの口にのぼるほど、彼の脂ののった日焼け顔と知的な垂れ目、目元にかかる黒いくせ毛は若い色気に溢れていた。
「やつはなんと?」
モローはドアが閉まる音を聞くと、窓のほうを向いたまま前置きもなしにそう訊いた。
「特に目立った様子はないようですが、感知されているおそれがあるそうです」
「やつに気付くか……。向こうにも手練れがいるな」
「オゼイという男で間違いないでしょう」
「何者だ?」
「オゼイ・ラドヴィン。去年のサスキア武闘大会における無敗の優勝者で、いまは家令付きの護衛騎士。剣術の実力は折り紙付きですが、行く先々でトラブルを引き起こしているようです。それと武闘大会に出場する以前の経歴は不明、……典型的な肉体派というところかと」
「ふむ。勘が働くうえにトラブルメイカー……。一番相手にしたくないタイプだな」
「彼らは計画の障害になるでしょうか」
モローは編み込んだ髪から手を離し、後ろ手を組んでその場で身体ごとドミニクを振り向いた。黒いギャンベゾンを身に着けた線の細い身体、美しく伸びた背筋。斜陽を背負って金髪が白く輝き、鉄仮面が独特の陰をつくった。
「そうはさせん。いや、これしきのことで躓くのなら、私の器はそこまでということだ。大器晩成などと生ぬるいことを言うつもりはない。なんとしても切り抜ける」
「は」と、ドミニクが力強く返事をする。
「しかし……、これを好機ととらえることも出来るか」
仮面の城主はわずかに俯いて呟くと、戸惑いが顔に出ている騎士に説明した。
「リネーは私を出し抜いたと思っているだろう。四日よりも一日早い到着は、イルジアを唆すために違いない。リネーはあの男を使って今夜、必ずなにか仕掛けてくるはずだ。それも独断でな」
「この件にサスキア伯は関与していないと?」
モローは緩やかに首を振った。
「まったくの無関係ではないだろうが、まっとうなやり方を好む人物なのではないかと考えている。王家への忠誠心も厚い方だと聞いているしな。私を不審に思っても、手荒なことは避けるだろう。そうであれば、リネーの企みを逆手に取ることで伯爵に恩を売ることができるやもしれん」
「こちらからは攻めない、ということですか」
「そうだ。防戦にはなるが、伯爵に敵意がないことをアピールするためにもそのほうが良いだろう。向こうが仕掛けてくるならば、打ち返せばいいだけのこと。個人的にも出たとこ勝負は嫌いではないしね」
「まったく……」と、ドミニクは呆れ混じりのため息を吐いた。「あなたが大胆な手を好むのは御父上譲りですかね」
モローはころころと笑った。
「そうかもしれん。光栄な話だよ。私にとって、あの人の子だという実感はなににも代えがたい喜びだ。世の中がどうあの人を罰し、評価しようとね」
「素晴らしい御方でした」
ドミニクは微笑みを返して言った。
「そして恐ろしい御方でもありました。その必要があれば、迷わず残酷な選択を」
「私にもできるとも。案ずるな、ドミニク」
「……ええ」と、引き締まる彼の顔には、いばらの道を歩むもの特有の悲壮な覚悟が見て取れた。「それでは支度をして参りましょうか。領主館でリネー卿が首を長くして待っているでしょうから」
◇◆◇
エラの山麓に拓かれたベラングラーシェは、夜の訪れが早い。
山脈の稜線が太陽の尻を少しばかり齧るころ、領主館の料理人たちは今宵ひらかれる貴族たちの会食に向けた準備に取り掛かっていた。
しかしその一方で、スザンヌ・マギスンは脈絡なく、寝心地の良いベットの上で目を覚ました。頭がぼうっとして、かぎ慣れない匂いが鼻についた。
「お母さん!」
彼女の耳元で、聞き間違いようのない娘の声がした。クレアは床に膝をついて、寝たままの母の手をしっかりと包み込んでいた。
「……スザンヌ! 意識が戻ったんだね、よかった……」
キャンバスが立てかけられたイーゼルを背にしてベッドを向き、椅子に座っていたラミロが、安堵の息を吐いた。
「坊ちゃん……?」
スザンヌにはなにがなんだかわからなかった。彼女は上半身を起こして、相変わらずぼんやりした頭でぐるりと周囲を見渡した。
「僕の部屋だよ。きみたち使用人の宿舎も考えたけど、ここが一番安全だと思って」
「坊ちゃんが運んでくださったのよ……」
「私は……」と、スザンヌは鋭い頭痛に呻きを漏らした。「いったい……いったい、なにが……」
ラミロとクレアがお互いの顔を見合わせた。
「お母さん……なにも、覚えてないの?」
スザンヌは必死に記憶を辿ったが、やがて力なく首を左右に振った。
「思い出せないわ……」
「えっと、マリアンヌが言うにはね」と、ラミロが心配そうな顔色で答え合わせをした。「彼女の目の前で、急に気を失ったそうだよ。きみは焼き立てのパンが入ったバスケットを持っていて……」
「ああッ!!」
突如、スザンヌの全身を電流が駆け抜けた。彼女の両目はまたたく間に恐怖に濁り、絶望が心を支配した。
「どうしたの!?」クレアが身を乗り出した。
「なにか思い出したのかい?」
二人は、スザンヌの真っ青な顔を覗き込んで同時に息を呑んだ。
「伝言が……。あの男が……」彼女は唇を戦慄かせた。
たった二語。彼女が口走った言葉はそれだけだったが、事情を知っていればなにが起こったのか予想がついた。
「まさか……」と、ラミロが言った。「なんと言われたんだ? オゼイは、マリアンヌを通じてなんと?」
スザンヌは、自分のつま先を見つめた。
「『あの娘は元気にしているか』……、そう言ったようですわ」
ラミロは顔を顰めた。うすうすそうではないかと思っていたことが、現実として起きてしまった。色々と複雑だったが、オゼイの伝言を額面通りに受け取れないことが何よりも心苦しい。せめてクレアが母のほうに似たことと、二人の仲が良いことが救いだった。
「彼と……会ったのかい?」
「いいえ」と、彼女は顔を上げてきっぱりと首を振ったが、声は尻すぼみだった。「見られたはずも……」
「じゃあ、どうして……」
「わかりません。館内で鉢合わせることも、あの男の部屋の窓から見える場所さえも避けて行動していたのに……」
彼らは沈黙した。それぞれがあれこれと考えていたが、誰もなにも言わなかった。
ラミロは頭を振った。彼女の存在が察知された原因はわからないまでも、はっきりしていることが一つある。
「彼は、きみの弱点を熟知している」
直接対峙するでもなく、わざわざ伝言を残したオゼイのやり口に嗜虐心を感じないわけはなかった。非道で悪趣味。ラミロはますます不愉快な気分になった。
「もしかして」と、それまで黙っていたクレアが恐る恐る言った。「その人……私の、お父さん……?」
娘の問いに、母は答えなかった。気まずさから彼女はクレアと視線を合わせられず、顔を背けた。
そして、一枚の絵画を見た。
それは黒をふんだんに使った森の中で、邪悪にあらがう少女の絵だった。
「そう……」と、彼女は微笑んだ。九年間、恐怖と焦りしか感じられなかった心に、幕が降りたようだった。
彼女はゆっくりとラミロのほうを振り向いた。
「坊ちゃん、そしてクレア。いまからすべてをお話しします。そしてそのうえで、私どもの命運を、あなたの手にゆだねますわ」
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