『ベラングラーシェの人々』・下

 ラミロはオゼイの部屋のドアを睨みつけて、それが永遠に開かないようにしてしまうにはどうするべきかと考えた。

 フローやヴィクターと交わす下品な会話とは違って、オゼイの言葉には妙な迫力と生々しさがあった。友人たちは口だけで、そこが愛おしくもあるのだが、オゼイは違う。自分を強い男だとわかっているから、性的なことには特に居丈高で、野蛮な気配が漂っている。


「まるで野獣だな」


 行為も相当に荒っぽいに違いない、と想像してみて気分が悪くなった。

 やれやれ、と頭を振って踵を返し、廊下をもどる。自室に戻って早いところ絵に取り掛かりたかったが、だれか男の使用人を見つけてオゼイの部屋まで酒を届けさせなくてはならない。ああいう手合いは気分を損ねると厄介だと、ラミロは知っていた。


「一応、女たちに忠告しておくか……ん?」と、彼はふとあげた視線の先で、廊下の西の突き当りにある、リネーに充てる予定の部屋のドアが内側から開くのを見た。「……スザンヌ?」


 部屋の中からおそるおそる覗いた顔には見覚えがある。クレアの母親である彼女もまた、類い稀な容姿をもった女性だが、いま彼女の表情は張りつめた渋面だった。


「坊ちゃん……?」

「そこでなにを――」


 距離があったので彼は少しだけ声を張ったが、その瞬間スザンヌは凄まじい剣幕で人差し指を唇に当てた。それから静かな急ぎ足で三階へ向かう階段に駆け込んで手すりを掴むと、彼女は彼を手招いた。


「坊ちゃん、こちらへ……」

「スザンヌ? 話が見えないよ。それに僕はこれから……」

「お願いですから、坊ちゃん」


 常にない彼女の気迫に圧されて、ラミロは頷くしかなかった。

 彼は彼女のあとに続いて三階へと階段をのぼった。踊り場にある南向きの窓から陽の光が差し込んでいた。光は二人を正面から照らし、長い二つの影を背後に投げかけた。靴底越しに感じる踏板の感触と、陽光の奥へと昇っていく感覚。彼にはそれだけだった。現実が現実ではない気がした。目の前の背中が別人のそれに思えて、知らない場所へ案内されているときのような、宙づりの不安が彼の心のなかに狭く翳った。

 スザンヌは三階に到着するまで、一言も話さなかった。


「坊ちゃん」と、向かい合うと同時に彼女は声を潜めて言った。「坊ちゃんが連れて来られた二人の男……」

「オゼイとジョシュ?」


 サッと、スザンヌの顔から血の気が引いた。


「オゼイ……確かにオゼイと名乗ったんですのね?」

「うん、間違いないよ。オゼイ・ラドヴィンと言っていた……」

「ああ、なんてこと……!」


 彼女は口元を両手で覆って俯き、震えだした。その尋常ではない様子に嫌な予感がして、ラミロは声を潜めた。


「彼を知っている?」


 彼女は弾かれたように面を上げた。それは複雑な表情だった。目元、鼻孔の膨らみや口元、頬で感情が渋滞していた。


「それは……」と、彼女の瞳が忙しく泳いだ。「……いいえ、私は……」

「――お母さん?」


 ラミロの部屋からひっそりと出てきたクレアは、彼の肩越しに青ざめた顔の母を見た。彼女たちが見つめ合っていた時間はそれほど長くなかったが、母と娘のあいだで交わされる視線には、第三者の想像が及ばない、綿密なやり取りがあった。

 スザンヌは眦を決すると、ラミロのほうを見て言った。


「坊ちゃん、いまはお話しできませんわ」

「話せない? それはどういう……」

「勝手なことは重々承知ですわ。それでも……」


 ラミロには彼女の決意も、なにを隠しているのかも、そのわけも、何一つとしてわからなかったが、悪意があって彼女がそうしているとは思えなかった。もしかすると、自分の中にある彼女たちに対する下心がそう考えさせているのではないか、と彼は疑ったけれど、だとしてもいま直感に逆らって、あとで後悔するよりはマシだという気がした。


「わかった。きみを信じるよ、スザンヌ。これ以上はなにも訊かない。でも、なにか……大事になると思ったら、事前に相談くらいはしてほしい。あの男は確かに嫌な感じがする。この感じが、きみが恐れているものと同じなのかはわからないけど……僕もあの男のことは注意しておくから」

「ええ、約束します」


 よし、とラミロは頷いて、後ろを向いた。


「いいかい、クレア。下にオゼイという男がいるが、彼は不穏だ。彼の用事はすべて男の使用人に任せるから、きみは近寄るな。ほかの女たちにも共有しておいてくれ」

「どう不穏なんです? さっきから――」


 彼女の質問は、だが割って入ったスザンヌにさえぎられた。事情を知らず興奮気味の娘に、母は宥める調子で声を出した。


「いいのよ」

「よくないわ。私だけなにもわかってないのに……。坊ちゃん、いったいどういうことなんですか」


 クレアは母ではなくラミロに真剣なまなざしを向けたが、またしても答えたのはスザンヌだった。


「聞きなさい、クレア。あなたはなにも知らなくていい。知らないまま嵐が過ぎ去るのを待つのよ。いまさっき坊ちゃんが仰ったことを忘れずに、二階に用があるときはとにかく気をつけなさい。人の気配に注意して、万が一にも顔を見られないように」

「お母さん……!」

「シッ……!」


 少し大きな声を出した娘に『静かに』のジェスチャーをすると、スザンヌは階段の傍まで移動し、手すりから頭を出して階下を覗き込み、また娘の目の前に戻って来た。


「お願いよ。いまだけ、なにも訊かずに言うことを聞いて」と、彼女は一語一句に精一杯の感情を乗せて言った。「あなたを守りたいの、クレア。私の可愛い娘」

「でも……」

「いいわね」


 母の細腕に小さな肩を揺すられたことで、腹の中に溜まっていた言葉たちが足元にふるい落とされたかのようにクレアは沈黙した。彼女は親の愛を知っていた。だから黙らざるを得なかった。

 ラミロは、この母娘の愛の形はなぜこんなにも痛々しいのだろうかと思ったが、自分と両親の関係を顧みて、とても口を出す気にはならなかった。


◇◆◇


 ラミロの指示で、オゼイの部屋に酒が届けられたころ。イルジアはリネーが退室した書斎に一人でいた。書斎の中央に置いてあるどっしりした大きな机とセットの椅子は、彼の祖父の現役時代に王都で流行した家具職人から取り寄せた一級品で、彼はいつもここにふんぞり返って座っていたが、先ほどまではリネーに座られていたうえに、いまの彼は精神的に追い詰められて背中を丸め、机の上に肘をついて頭を抱えていた。

 明日の晩にはモローが領主館を訪れる。アールベックと、私と食卓を共にするために。そして、そこで私は――。


「私は欲に従うと決めたのだ……」


 私はこんなところで失脚するわけにはいかない、と彼は念じた。正義だとか悪だとか、そんな秤に自分の人生をかけられるほうがどうかしている。人がどれほど内なる神を通して世界を見ようと、奴隷は一生奴隷のままだし、道端の糞が金に変じることもない。


「これでよかったんだ……」


 彼は机の上に出しっぱなしの、リネーが置いていった小さな木箱を一瞥して呟いた。焼印もなにもない無垢のつくりが異様な圧力を放っている。中身を知っていれば、いまさら不思議でもなんでもない。


「アールベックは私を裏切らないと言った……」


 いまはその言葉を信じるしかない。

 イルジアは陰謀の渦中にいることを少しでも忘れるために、今夜スザンヌを部屋に呼ぶことを考えたけれど、この前に同じことを考えたときと比べれば大して興奮しなかった。

 まぁ、夜になれば――ベッドの上で生まれたままの彼女の姿を見たのなら、そして自分の年も忘れて情欲に身を任せ、あの身体を思う存分に堪能できたなら、気分もいくらか晴れるだろうと、彼は自分に言い聞かせた。


◇◆◇


 あくる日の朝。領主館に寝泊まりする差配人一家と家令一行が朝食をとっている時間、食堂で彼らに対応している使用人のなかに女性の姿は一人もなかった。


 というのも、昨日から使用人たちのあいだに広まっていた家令一行に対応する際の注意事項が、早朝イルジアによって公式のものとなり、使用人どうし相談のうえで女たちはとことん裏方に徹し、男たちが接客の矢面に立つことが決定されたために、女たちはこの時間、各階、各部屋の掃除に総出で取り掛かっていたのだった。


 イルジアはこの取り決めについてもっともらしい理由を並べ、多くの者がこの一見して賢明な采配に従順を示したものの、なかには何か裏があるのではないかと勘繰っている者もいた。


 その筆頭といえばやはり対立の絶えない彼の一人息子だが、ベラングラーシェ領主館でも最古参の使用人であるマリアンヌ・ソーヤーもまたそうした一人で、長く家に仕えるうちにイルジアという男の性質を知り尽くした人物だった。

 かといって雇い主を問いただすような真似ができるわけもなく、非常にもやもやとしたまま仕事に取り掛かった彼女だが、抱えていた疑問や違和感は、彼女がイルジアの寝室でひどく乱れた寝具を見つけたときに解消された。


 結局、そういうことじゃないの。

 ベッドの脇に設置された姿見が、彼女の意識の中にするりと滑り込んだ。彼女は振り向き、そこに映り込んだ老女の顔をまじまじと見つめた。


 時が、世の中の研磨が、かつての美しさを奪い去った。この数年で一気に老け込んだ彼女は、萎んだ皺だらけの頬に触れ、ただ歳をとったことを改めて実感した。臓腑の底に溜め込んでいた憂いが熱い吐息となって乾いた唇から零れ落ち、衝動が身体をつらぬいたかと思うと、彼女はベッドシーツを乱暴に引き剥がした。布団が引きずられて絨毯の上に落ち、枕やクッションが宙を舞って部屋の中を散らかした。


「どうして、あたしが……」


 とうとう、そう声にした途端、嗚咽がぐっと喉元までこみ上げた。

 もとを辿れば、彼女は初めからザウアー家の使用人だったわけではない。彼女が初めて仕えた家は、いまも王都に残っている商家の一つだった。働きに出たのは15の頃で、そこで六年務めた。一生懸命に働いて、旦那様と奥方からの覚えもよかったが、彼女を一番に気に入っていたのは、その家の一人娘だった。


 サラという名の娘はマリアンヌよりも四歳ほど年下で極度の人見知りだったが、二人は六年のうちにすっかりと打ち解けて、本物の姉妹よりも強い絆で結ばれた。

 マリアンヌも幸せだった。彼女にとっても、成人前の小娘をよそへ働きに出すしかなかった寂しくて貧しい実家よりも実家らしい、心から温まれる居場所だった。たとえ実家への仕送りで稼ぎのほとんどが消えようと、面倒がなければそれでよかった。


 しかし、何事も変化とは無縁ではいられなかった。

 時が過ぎ、サラは成人を迎え、見合い話が進んでいた。

 その相手というのが、イルジアであった。


 当時の彼は若く、聡明で紳士的に見えた。なにより、ただの自由農ではなかった。彼の家はベラングラーシェで代々、差配人をやっていたし、いまもなお社交界に出入りする有力なエルタンシア貴族とも繋がりをもっていた。出世への坂道をひたむきに登っていた商家の夫妻にとって、イルジアは都合のいい相手だった。


 人見知りがひどい娘は見合いの場で縮こまって意見も言えず、縁談は彼女の意思とは無関係にまとまった。これを不憫だと思いこそすれ、使用人でしかないマリアンヌにはどうしようもなかった。夜な夜な枕を涙で濡らす少女の静かな怒りと悲しみを、傍で黙って受け止めてやることしかできなかった。

 だが、サラは両親から愛されていた。夫妻は愛娘が手元を離れ、片田舎で孤独な思いをする未来を望まなかった。片時も傍を離れず、寄り添う誰かが必要だった。


 白羽の矢は、おのずとマリアンヌの頭上に立った。

 不安に押しつぶされそうだったが、彼女には夫妻の期待を裏切ることも、サラを見捨てることもできなかった。女がたった二人。新しい環境で生きていくことは、想像以上に易くはない。それでもマリアンヌは自分のことだけで手一杯の実情を言い訳にせず、親身になって娘を支え続けた。イルジアが本性を現すのは早かったが、夫婦の営みが滞った原因は世間知らずな娘のほうにもあっただろう。


 なにはともあれ、結婚から二年。ラミロは待望の子であった。

 問題は山積していたけれど、とりあえず大きな荷がひとつ、肩から降りた――はずだった。


「……サラお嬢様、あたしは……」


 口走りかけた独白を、彼女はすんでのところで思いとどまる。

 誰かに聞かれることを恐れたわけではなかった。誰かに聞かれたとて、誰も信じまいが、。そう考えるだけの分別と良心の残骸が、辛うじて彼女を御した。告解など不要だと思っていたが、いまの彼女には必要だった。


 その一言目にはおそらく、『最初は、拒みきれなかっただけだった』と。

 そして堰を切ったように、彼女はつらつらと続きを想った。


 間違いがあったとすれば、それは自らもまたイルジアを愛してしまったこと。愛し合っていた時間が確かに存在し、抱き合う間は後ろめたさも忘れたこと……。

 永遠を信じられたあのころを想うと、胸の奥が締め付けられた。


 マリアンヌは下唇を噛み締めた。過去を思い出として振り返ることしかできないことが業腹だった。彼女は、納得とは程遠い場所にいた。

 かわいそうなあたし。

 なにもかも、あのマギスンの女のせいだと思った。忌々しい女、。あの女は忘れもしない八年前に、ぼろを着せた娘を連れて屋敷へ転がり込んできた。格好もみすぼらしく、学ももちろんなかったが、男を誑かす能力には長けていた。それが偶然の産物なのか、生業なのかは知れないけれど、ろくでもないことは確かだった。

 ザウアーの男たちがあの母娘になにかと甘いのも、そういうことなのだろう。


「卑しいったらありゃしない……」


 忌々しく呟いて、彼女はシーツを強く握った。

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