『ベラングラーシェの人々』・中

 不気味な黒い森。太陽の光は地上に届かず、じめじめとして、木立の間には見通すことのできない深い闇だけがある。

 ――ここには邪悪が棲んでいる。

 邪悪はあの深い闇の中から狼の姿になって現れる。群れをなし、貪欲に、狡猾に獲物を追い詰める。狼たちの狙いは、黒い森の中で淡く光る白い衣をまとった一人の少女。この物語の主人公。


 だが少女はもう走って逃げることができない。足に怪我を負ったのか、体力の限界か、苔むした岩に背中を預けて地面に座り込んでいる。狼たちがじりじりと距離を詰めてくる。少女は祈り、不思議な力がわいてくるのを感じる。彼女から放たれる淡い光は弱々しいが、狼たちはその光に触れるのを躊躇っている。


 少女には怯えがない。かと言って助かることを確信してもいない。彼女はこれから自分がどうなろうとも、すでに運命を受け入れている。その横顔は静かで、儚く、強かで、美しい。


「そう、きみは月の乙女だ……」


 ラミロ・ザウアーは、絵具の付いた筆先で少女の頬の輪郭をなぞりながらぽつりと言った。パレットの上で作った色は、彼女の肌の色に合わせつつ、白みが強い。

 闇の中でこそ輝くような、透き通る白い肌。


 彼の空想がイーゼルに立てかけられたキャンバスの上で着々と形になっていく。筆の動きはゆったりとしているが、迷いはない。悩みも忘れて、筆先に全神経を集中する。

 彼は昼間のあたたかな日差しが差し込む自室で、顔料のもつ独特の匂いに包まれて、趣味の絵に没頭する静謐なひとときが好きだった。このときだけが、煩わしいすべてから彼を開放した。

 友人のフローやヴィクターと酒場で過ごす時間もいいが、あちらは嫌なことがあった日が最高だ。どうにもならない鬱積は、創作活動に差し障る。もしも心穏やかな午前を過ごせた日には絵を描こう、と決めていた。


「いいぞ」と、ラミロは筆を止めて頷いた。「悪くない。いや、むしろかなりの出来栄えだ」


 彼は卓上の筆差しに筆を戻し、パレットをその横に置くと、椅子から立ってキャンバスを見下ろした。色々な角度や距離から観察して、笑みがこぼれる。


「細かい調整は要るな。それで……」


 コンコン、と突然ドアをノックする音が部屋の中に響いて、彼は口を閉ざした。


「坊ちゃん、居られますか」と、ドアの向こうから淡白で涼しい声がする。


 ラミロはその声で相手を察し、警戒を解いた。


「いるよ」と、優しい声で言う。「ドアを開けておいで」

「……はい。失礼します」


 そう言って、しずしずと部屋の中に入ってきたのは彼の予想通り、使用人の制服を身に着けた美しい少女だった。17歳のラミロより二つ年上の、名をクレアという彼女は、美しい背筋のなかばまで伸ばした黒髪を一本に束ねている。微笑めばきっと可憐だろうと思うのに、いつもながらにその表情は堅い。

 彼女は単刀直入に言った。


「旦那様が階下でお呼びです。家令御一行様がいましがた館前に到着されましたので、一緒に出迎えるようにと」

「ああ……、その話か」


 ラミロはため息を吐いた。


「面倒だけど仕方がないな。行くよ」


 彼はエプロンを脱いでたたみ、椅子の上に置いて部屋を出た。ドアの横で視線を下げて控えているクレアの前を素通りし、思いついて振り返る。


「そこに完成の近い絵が置いてある。初めて挑戦した油絵なんだ。良ければ見てもらいたいんだが、今度その感想を聞かせてくれ」


 クレアはほんの一瞬だけ顔を上げて、また俯いた。


「絵には詳しくありません」

「別に品評しろとは言っていないさ」と、ラミロは笑う。「見て、感じたことを率直に聞かせてほしいんだ」


 彼女は少し黙った。


「わかりました」


 生真面目な返事を聞いて、ラミロは微笑む。

 頼んだよ、と言い残して彼は三階の廊下を進み、領主館の唯一の昇降手段である階段を降りて行った。三階から二階への階段は南向きにくだって踊り場で切り返し、北向きに二階廊下へつながっている“折り返し階段”だが、二階から一階への階段は作りが違っていて、南から西向きに玄関ホールへと通じる“かね折れ階段”になっている。  


 この階段の踊り場からは玄関ホールが一望できた。

 建物全体として、きらびやかとは言い難い造形の領主館は、見慣れてしまえばなんということのない風景の一部でも、空間の造りには凝っている。加えて現在は、館で働いている使用人たちのほぼ全員が玄関ドアを向いて整然と並んでいて壮観だった。

 イルジアは、使用人たちの列に背を向けて立っていた。ラミロの足音を聞いて振り返り、緊張の見える尊大な仏頂面で彼を睨んだ。


「なにをしている、遅いぞ」

「……すみません父上」


 彼は感情を抑制した声で謝罪して、父親の脇に並んだ。


「アールベック男爵はわかるな」と、イルジアがドアを見たまま、一瞥もくれずにラミロに言う。

「はい。確か、四年前にお会いしてます」

「なら、いい。私のあとに挨拶を済ませたら、それ以上お前は喋るな。粗相も許さん」


 ラミロは僅かに眉根をよせて父親の横顔を見た。


「ご心配には……」

「返事は『はい』でいい。無駄口を叩くな」

「……はい」


 ぐっと怒りがこみあげるが、こういったことは慣れっこだった。父親が暴君なのはいまに始まったことではない。彼は強く拳を握った。


「クレアはどうした」


 父親の疑問にラミロはすぐに答えなかった。

 ちょっと間をおいて、イルジアが付け加えた。


「お前を呼びに行かせたはずだ」

「彼女には」と、ラミロはようやく答えた。「別の仕事を……私の部屋の掃除を、させています」


 ふん、とイルジアが鼻を鳴らした。

 使用人を相手に「してもらう」や「お願いする」という言葉遣いを、彼は家族にも許さなかった。ぎこちないなりに息子が正しい言葉を選んだので、高慢な父親はなにも言うことがない。


 まったくもって器じゃない、とラミロは思った。モロー男爵もそれをわかっていたから、二年前に一度、この男を差配人の役から外そうとしたのだ。


 モローは代わりにクライヴ・メルキンに声をかけたが、彼は農場の跡継ぎが十分に育っていないことを理由にその役を辞退していた。もともとサスキア西部の豪農同士、そりが合わなかったザウアー家とメルキン家の関係は、以後イルジアの一方的な怨恨でより険悪になっている。


「スザンヌの姿もないようですが」と、彼は階段からホールを見下ろしたときから気になっていたことに言及した。


 イルジアは気付いていなかったのか、びくりと肩を跳ねると使用人の列を振り向いた。そして息子の言葉が事実であるとわかると、気まずそうに言った。


「客間の最終確認をするように言ったんだが……もうとっくに戻ってもいいころだ」

「そうですか」と、ラミロは内心で冷笑を浮かべた。蔑みの対象は父であり、自分でもあった。


 どんなに軽蔑していても親は親。誰からなにを言われたわけではないけれども、思わぬ偶然になにかしらの理由を与えられてしまうのは、彼にとって惨いことだった。


◇◆◇


 最後に彼と会ったのが本当に四年前だったかは定かではなかったが、久しぶりに対面したリネー・アールベックは、ラミロの記憶にあるよりも小さな男だった。近くで見ると視線の高さは並びかけていて、履物の底の厚さを差し引けばラミロの背丈が勝っている。

 しかし派手好きは相変わらずで、服装もさることながら、きつくかおる香水の匂いが前回の出来事をうっすらと彼の脳裏に呼び覚ました。二人いるお供のうち、覚えのあるのが御者の男で、護衛らしく腰に剣を携えた男のほうは初顔だった。


「お久しぶりです、アールベック男爵」


 打合せ通り、まず初めにイルジアが挨拶をする。彼が差し出した手をリネーが握り返し、定型のやり取りが交わされる。


「いつ以来だったかな」

「さぁ……、どうでしたか。それより、道中は何事もありませんでしたか?」

「ああ、なんともない」

「それはなによりです。ささ、お疲れでしょう。荷物をお預かりいたします」


 パチン、とイルジアが指を鳴らした。

 すると待機していた使用人が数人動いて、御者からいくつかのトランクを預かった。ラミロが気になったのは護衛風の男で、彼は館に入ったときからその辺にある観葉植物、彫刻、高価な壺などを見物したり、無遠慮に触ったりしていて、使用人が傍へ寄ると「俺に荷物はない」と鬱陶しそうに追い返した。


「それで」と、リネーがイルジアの傍に立つラミロのほうへ視線を向けた。「君は名をなんと言ったかな」


 ハッとして、ラミロは背筋を正した。


「は、はい。ラミロ・ザウアーです、アールベック男爵閣下」

「ラミロ。……そうだった、大きくなったな」

「は、ご無沙汰しております」


 彼は深く頭を下げ、イルジアがあとを引き継ぐのを待った。

 だが、イルジアが口を開く直前になって、リネーがあることに気が付いた。


「君は絵を描くのかね」

「は……」と、ラミロの口から戸惑いの呼気がこぼれる。彼は咄嗟に父の顔色を窺ったが、その表情は険しいばかりで、助け舟が出る気配は微塵も感じられなかった。

「手に付いているのは、それは絵具ではないのかね?」


 リネーに指摘されて、ラミロは自分の右手を見た。左ではなく右を見たのはそっちが利き手であったからだが、中指の爪に暗い緑の絵具が付着しているのを見つけると、慌てて反対の手で隠した。


「……いえ、これは……」


 リネーは嫌な感じのする忍び笑いをした。


「恥ずかしがることはない」と、彼は言った。「芸術に人生を捧げたくなる瞬間は誰にでもあるものだ」そして、値踏みするようにラミロを見つめる。「だが、野山で育つのは獣や草木、虫や魚だ。芸術の才能を伸ばしたいと思うなら、都で良い師につかねばな」


 ラミロは下唇を噛み締めた。


「……そう、ですね」

「いやまぁ、遊びでやる分には構わんのだろう。趣味は自由だ」


 それだけ言って、この話題に対するリネーの興味は売り切れた。


「……さて、イルジア。君には重要な話がある」

「え、ええ。場所を変えましょう。ラミロ」と、彼は青白い顔で、大人しい息子を振り返る。「お供の方々を客間へご案内しろ」

「……はい」

「では、アールベック卿。こちらへ……」


 一足先に玄関ホールを離れ、一階廊下の奥へと去っていく彼らの背中を、ラミロは悔しい気持ちで見送った。あの場でなにかを言い返すなど言語道断だが、どんな言葉を向けられようが、自分の絵に自信が持てなかったことが不甲斐なかった。


「遊びでやる分には構わない、か……」


 そうだ。初めはそのつもりだったはずなのだ。

 つまるところ、こんなことで一々傷のつくようなプライドを持つこと自体がお門違いなのではないか――そう思い込もうとして、彼はふつふつと腸が煮えるのを感じた。なぜ、描いた絵も見ていない人間にあれだけの侮辱を受けて、諾々と従わなければならないのか。なぜ、人々は芸術にまでブランドを求めるのだろうか。

 彼は思いきりため息を吐いて、強引に気持ちを切り替えた。


「お供の方々……ええっと」

「オゼイ・ラドヴィン。そっちの爺さんがジョシュ、ただのジョシュだ」


 オゼイと名乗った護衛は、館の内装に興味津々で、ラミロのほうを見向きもしない。

 ジョシュと紹介された男は、下手くそな笑顔で軽く会釈した。


「あなたは以前にも……」と、ラミロはジョシュの髭面を見て言った。

「へぇ、坊ちゃん。覚えてらしたんですね、光栄です。へへ……」

「こいつと部屋は別だよな?」


 オゼイはジョシュを指して“こいつ”と言った。


「男と同じ部屋で寝させられるのは御免だぜ、坊ちゃん。これだけの屋敷だ、部屋は余ってんだろ」

「ええ、別ですよ。こういうときのための領主館ですから。ご案内しますので、付いて来てください」


 ラミロは言って、先頭に立って歩いた。降りてきた階段を今度は上がり、客間のある二階廊下を右へ折れる。客間には貴賓のために用意された部屋と、オゼイとジョシュのような御付きのために用意された部屋とがあり、階段を背にして左手の廊下のつきあたりに一部屋だけあるのが前者のための広い部屋で、右手の廊下の南側に並んでいる同じつくりの五つの部屋が後者のためのものだった。

 ラミロはこの五つの部屋のうち、手前の部屋からジョシュ、オゼイの順に案内すると、それぞれの部屋を出る前に来客向けの注意事項を二度繰り返した。


「当館の使用人が階を行き来していますので、雑事は彼らにお任せください。私は上の階にいますが、病人もいますから、御用の際はやはり使用人を通してください」


 ジョシュは恐縮がって頷き、オゼイは上の空で聞いたあと、振り向いてこう言った。


「音はどのくらい響く? 上や下に丸聞こえか?」


 ラミロは怪訝そうに眉をひそめた。


「出す音の大きさにもよるかと思いますが……。怒鳴り声などは上下階に聞こえるかもしれません。……あの、どういった意図の質問なのか……」

「わかんだろ? 俺のナニがデカいって話だよ」


 オゼイはけたけたと笑った。下品で、不愉快な声だった。


「あの、当館の使用人に手を出すのは……」

「なんだよ。全員、親父さんのお手付きか?」


 ラミロはぎくりとしたが、表情には出さなかった。


「そうではなく……」

「わーった、わーったよ。外で済ませるぜ、商売女の一人や二人、この村にもいんだろ?」

「村の南にある風呂屋なら」

「風呂屋ね。ありきたりだが……、まぁいいか」と、オゼイはふてぶてしく無精ひげを擦り、腰のベルトから萎んだ革袋を外して言った。「じゃあ酒だ。葡萄酒をこいついっぱいに持ってきてくれ。道中で切らしちまってな、俺はこれがねぇと……自分でもなにをしでかすかわからんぜ」

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