Part.2 『ベラングラーシェ』
『ベラングラーシェの人々』・上
村に唯一のタリ・エスヌ教会は、村の北東にぽつんと建っている古ぼけた青い塗装のこじんまりとした木造で。
そこでは壮年の神父が一人、果てしない精神の旅に老い疲れた渡り鳥がごとく、人生の断崖がせまった変人に向けられる人々の視線という強烈な海風に耐え忍び、座して滅多にない信者の訪れを待ちぼうけているだけだった。
この平和な集落に暮らす人々の多くは、罪深い考えに囚われることも、愛する者と不合理に死別する恐怖と闘うこともなく、日々を安穏と過ごしている。彼らが神を必要とするときは冠婚葬祭、またはミニチュアの罪に対する因果応報すら奇跡によって回避しようと躍起になったときだけで、神の代行たる神父の出番も(定時に鐘を鳴らす作業を含めないとするならば)あたりまえにその程度だった。
それでも終戦以前はこの小教会もそれなりに賑わっていた、と神父は思った。
人々が悲しみや苦しみ、恐れから解放されたいと願いに来るのを賑わうと表現するのは、いささか皮肉が効きすぎているとは思えども、彼はあのころの自らの活力と信仰に勝る栄光をこの九年あまりまったく見出せずにいた。
「“タリ・エスヌ”とは……」と、言いかけて、彼は叱られた子供のように首を竦めた。
ここでそれを言うつもりだったのか?
彼は自分の口から飛び出しかけた句に、驚きを隠せなかった。いまのは本当に自分の声だったのだろうか?
「ここには誰もいない」と、彼は思いついた言葉を口にした。間違いなく自分の喉から出た声で、ガランとした室内に響いた音は先のものとも一致している。「……私は、どうかしてしまったのか」
彼は、薄々と勘づいていた残酷な真実を目前に叩きつけられた気がした。そのときだった。ほとんど開かずの間と化していた教会の扉を開けて、入って来た者がいた。
「――ブロイエル神父」
べラングラーシェで差配人を務めているイルジア・ザウアーは、聖堂に神父の姿を見つけると強張った声で名を呼んだ。扉を閉める前に一度外を窺って、ゆっくりと扉を閉める。彼はなにかに怯えている、とブロイエルは考えた。それか、しばらく見ないうちに神経質に磨きがかかったのだと思った。
「ブロイエル神父」と、イルジアは聖堂を振り返るなり再び言った。
「ここですよ」
ブロイエルは信者席から立ちあがり、両手を広げてやむなく歓迎の意を示した。
イルジアは切羽詰まった顔つきで早足に聖堂の通路を移動して神父のすぐ横までやってくると、教会の入り口を警戒しながら言った。
「神父、あなたに話が……いや、相談がある」
「まずは落ち着いてください」
「私は落ち着いている!」
聖堂内にイルジアの声が反響する。彼の目は大きく開かれ、息も上がっている。
ブロイエルは明らかな興奮状態にある彼をなだめようとするのは、かえって逆効果になると判断した。
「……わかりました。私で力になれるかは怪しいですが、聞きましょう」
彼は定位置に座り直し、イルジアにも座るように促した。
「ここでか?」イルジアは戸惑っていた。
「問題はないでしょう。大丈夫、誰も来やしませんよ」
イルジアは長々と迷ったあとで仕方なく座ったが、落ち着かない様子で、そわそわと周囲を気にしていた。
「話と言うのは?」と、ブロイエルが尋ねた。
「あ、ああ……。実は今度……」と、口を開いて、彼は頭を低くした。
彼はジェスチャーで神父にも頭を低くするように指示して、二人は信者席の背もたれの高さよりも低い位置で顔を突き合わせることになった。彼はまた声を潜めて続けた。
「……実は今度、アールベックが村に来る」
「アールベック……」と、釣られて声を潜め、ブロイエルは記憶を手繰り寄せた。「リネー・アールベック男爵? サスキア伯の家令の?」
「そうだ」イルジアは確と頷いた。
「なぜ彼が? いまベラングラーシェは……」
「実質、サスキア伯の管理から外れている」と、イルジアが先回りして言った。「だからだろう。表向きはサスキア領だ」
「……ただの視察が目的ではない?」
「私はなにも言っていないぞ」
突き放すような言い方で予防線を張るイルジアに、ブロイエルは少しだけ顔を顰めた。
「私もなにも聞いていませんよ。でもいいですか、この話を持ってきたのはあなたなんですよ」
「言われなくてもわかっている。ここでの会話は、すべてなかったことになる。なぁ神父」と、彼は猫なで声を出した。「私はあなたを見込んでいるんだ。あなたは頑固で、日がな一日ここに籠って、信者たちとの交流を放棄しているが、悩みを抱えて尋ね来る者には誠実だろう?」
イルジアはブロイエルの青い瞳をじっと見て言った。その言葉は、彼の衰えかけていた自尊心を刺激した。
「わかりました。それで、あなたは……なんらかの板挟みになることを危惧している?」
「そうだ。三年前……モロー男爵の統治が始まる前は、アールベック男爵の指示で動いていたのが私だ。彼にも色々なところで世話になっている。もし彼になにか……頼みごとをされたとして、私は断れる立場ではない」
「だが、あなたはいまモロー男爵のもとで働いている」
「そういうことだ」
暗い顔で俯いて、イルジアは頭を抱えた。
「私はアールベックに逆らえない。いくつか弱みも握られているし、やつの言葉はサスキア伯の言葉だ、大領主の不興を買っていいことなどあるはずもない」
「ならば……」
「だが、ドニシエラ・モローは未知数だ。私は彼も恐ろしい」
聖堂内に一瞬、静寂が戻った。
「それでもあなたは選ばなければならない、ということですね?」
「……ああ、どうすればいい? これが何事もなく……滞在のあいだ貴族に媚びへつらい、夕食に出したご馳走を豚のエサかなんかのように『田舎料理だ』と、大半を残されるのを笑顔で見ていればいいだけで終わることを祈るか?」
ブロイエルは項垂れるイルジアの後頭部を神妙な面持ちで見下ろしていたが、やがてこう切り出した。
「本来、私は聖職者としてタリ・エスヌの教えに則り、ものの道理を守りなさいと言うべきなのでしょう」
彼はおもむろに顔を上げるイルジアを正面から見据えて言った。
「つまり、いまのあなたの主……モロー男爵に義理を通すべきだと。あなたはあなた自身の不利益を顧みず、正しい行いをするべきだと言うのが筋なのでしょう」
ですが、と彼は自分でも驚いたことに正当を覆すことを躊躇わなかった。
「欲に従うのもまた道理。それは人の道理です。神は……神は、己が歩いた道を人々が辿るのかを見ているにすぎない。母が子の手を引いて歩くように、神は我々に手を差し伸べてはくれない。あれは――」と、彼は祭壇に置かれた大きな神像を見た。「我々を見ているに過ぎないのです」
イルジアはブロイエルの視線を追って祭壇を見た。なにか、見えざる手で頭を押さえつけられていると思うほど、彼はタリ・エスヌの神像から目を逸らすことができなかった。
そして、ブロイエルの声が天啓のように聖堂に降り注ぎ、彼の耳朶をうった。
「信じるものは自分で決めるべきですよ」
二人は結局、はっきりとした答えを提示しなかった。
けれどブロイエルは、教会を出て門へ向かって歩いて行くイルジアの背中を見送りながら、彼は間違いなくアールベックに従うだろうと確信していた。
もともとあれは強い男ではない。
それよりも、彼は自身の身の上に起きた大きな変化に興奮していた。
彼は自らの信仰が風前の灯火にあると思っていたが、それが大きな過ちだった。彼の信仰はとうに死んでいたのである。彼はいっそ清々しい気持ちで外の空気を堪能すると、教会の裏に建っている司祭館へと歩いて行った。これほど晴れやかな気持ちになるのは十数年ぶりのことだった。
司祭館に入ると、彼はまっすぐ寝室へと向かった。入り口から右手奥の角にある書き物机に近づいて、鍵付きの引き出しの最奥から年代物の手帳を取り出した。それは無茶な使用に耐えて丸々と太った革張りの表紙を持ち、綴じ紐を解くと無数についた開き癖から自ずと開いた。目当てのページに辿り着くのは早かった。
ブロイエルは褪色した筆記に指先を這わせながら、朗々とその一文を読み上げる。
「“タリ・エスヌ”とは、神の鋳型。人が創りし神、願いの権化、概念である。ゆえに教典に示される救いは嘘であり、まったく無意味な言葉の羅列に過ぎない。
しかしいま、巌のごとく確固とした我らの信仰は実を結び、タリ・エスヌは大いなるものの母、新時代の卵として真なる神を宿された。真なる神は唯一にあらず、異なる方法でこの世界に完全をもたらすために地上へと降臨する。
我々の信じた救済は、これより出ずる新しき神々のいずれかによってなされるが、どの道も長く険しく、我々には試練の時となるだろう……」
読み上げるごとに、彼は未知の力に満たされていくのを感じた。
「いまならわかる……曽祖父がどんな気持ちでこの句をしたためたのか。時を越え、あなたの子孫もまた聖バエンディリの予言に導かれている」
――ゆえに、私は未来の人々に尋ねたい。
――いま。きみはあの聖バエンディリのように、大いなるものの存在を近くに感じているだろうか。
「ああ……、感じているとも」と、彼は恍惚とした表情を浮かべた。「真なる神は存在している。タリ・エスヌのような抜け殻ではない、力強さを感じる」
ブロイエルは手帳を閉じ、教典を扱うように胸に抱いて感嘆した。
二百年前、聖バエンディリは第一の神“淘汰”の訪れを予言したが、これにはまだ続きがあった。
彼は死の間際に、続く神々の存在にも言及していた。
曰く、“淘汰”による完全の道程には数えきれない犠牲と悲しみが生じ、絶望の果てに世界は“永遠”を求める。なにも生まれないが、失うことを拒絶する完全な世界を。
そして拒絶の陰に“受容”が生まれる。それは悪魔のささやきか、神羅万象の境界を曖昧にする混沌のなかにこそ、完全を見出さんとする世界。
だがいずれ許容を越えて溢れ、世界が限界を迎える可能性に目を瞑ってはならない。そうなれば最後の神は秩序を失った世界を放棄して、新たな世界の“創造”にとりかかる。そこには人類に代わるより優れた生命が宿り、完全をなさんとするだろう。
「二百年……神々にしてみれば、
ブロイエル・ビシスは人の与り知らぬところで始まって、すでに終わってしまった超常の業による世界の変容に想いを馳せて、歓喜に震えた。
◇◆◇
予定通りの片道三日でベラングラーシェまで馬車を走らせた御者のジョシュは、数年前の前回、前々回からルートを変えず、メルキン家の正面で街道を逸れて農場内を経由し、集落の南から大通りに馬車を乗り入れた。
彼の馬車は貴族を乗せるための高級なもので、辺鄙な田舎道を走っていると、いつも注目の的になった。彼はこのときに御者台で浴びる人々の困惑や畏敬、憧れの混ざった視線が好きだった。
「どいたどいた! 道を塞ぐな!」
彼は唾を飛ばす勢いで怒鳴り散らし、往来の真ん中を巧みな手綱さばきで駆け抜けた。農民風情の迷惑など、考えるのもアホらしい。
俺の馬車には貴族様が乗ってんだぜ。
顔の下半分を覆い隠している無造作な髭には白いものが混ざり始めていたが、今年で40歳になる彼は衰えや円熟とは無縁だった。馬の扱いくらいしか取り柄がないと親兄弟に言われて育った彼はそのころから変わらない、運よくリネーに拾われたどうしようもない21歳の青年のままだった。
酒場を横目に大通りを進み、ほどなくして村の中心に位置する広場の手前までやってくる。右手角に建つ領主館の、二つ並んだ石造りのアーチ梁前で馬車を止めたジョシュは、御者台を降りて乗客席のドアを開けた。乗客は二人いて、向かい合って座っている。後部座席の派手な身なりの男がリネー・アールベックで、彼はカールした長い口ひげの先端を整えるために真剣な表情で手鏡を覗き込んでいた。
「――到着か?」
ジョシュが口を開きかけた矢先、リネーが言った。
「……へぇ、そうです旦那様」と、ジョシュは下手な愛想笑いで頷いた。
「そうか」と、リネーはすげなく返事して、手鏡を分厚い上着の内ポケットに仕舞った。「田舎の道はよく揺れるな」
「そりゃもう、なんたって……え、田舎ですから」
ジョシュは適当な相槌を打つと、馬車を降りるリネーの邪魔にならないように横へ退いた。そして馬車を降りたリネーがさっそく顔を顰め、お気に入りの香水を首のあたりに左右から吹き付けるのを黙って見ていた。
「田舎の空気は臭くてかなわん」
「そのとおりで」
とは言うものの、ジョシュは貴族たちがこぞって使う香水というものがあまり好きではなかった。傍にいて香ってくるだけでも頭がくらくらするのに、あの香りに包まれていてよく平然としていられるものだと思う。彼にしてみれば、肥料の匂いが微かに混じったベラングラーシェの空気のほうが何倍もマシだった。
「荷物を持て」
「へぇ、勿論です」
「それからオゼイを起こせ」
「へ……」頷きかけて、ジョシュの表情が強張る。「あっしが……?」
リネーが険しい顔で振り向いた。
「私にやれというのか?」
「い、いえいえ! 滅相もございませんで、いますぐ……!」
「さっさとしろ」
ジョシュは大慌てで乗客席に頭を突っ込んだ。彼の視線の先では、上等な服に身を包んだ屈強な男が一人、腕を組んでいびきをかいている。このオゼイ・ラドヴィンという男のことが、彼はどうも苦手だった。
オゼイはリネーの護衛で、去年の夏にサスキア伯の居城・カッソロー城で開かれた武闘大会の決闘種目において、初出場にもかかわらず全戦全勝の成績をおさめた男だった。サスキアの武闘大会と言えばエルタンシアでも一、二を争う大規模な大会で、毎年大いに賑わうが、去年ほどの盛り上がりは稀だった。
サスキア伯はオゼイの舞うような身のこなしと、対手を翻弄する剣裁きを“落ちる葉”と称え、騎士に取り立てるとともにリネーに下賜した。これだけ聞けば頼もしい限りだが、彼にはとある問題があった。
ジョシュは喉を鳴らして唾を飲み、オゼイの肩に触れようとおそるおそる手を伸ばした。しかしあと少しで指先が届こうかというそのとき、彼が突然目を覚まし、蛇を思わせる俊敏さでジョシュの手首を掴んだのだった。
「い、いてぇ!」と、ジョシュは思わず悲鳴を上げた。「手を放してくれ、旦那! 折れちまう!」
「……ん? おい、なんだよ……」
オゼイは寝起きとは思えない、戦意にぎらついた瞳を一瞬で曇らせた。
「てめぇか。てっきり襲撃だと思ったのによ、つまんねぇ……」
彼はそう言ってジョシュの手首を離すと、大きなあくびをして無精ひげの生えた顎を擦った。
この切り替えの早さは、彼が人を斬るときにも発揮される。
ジョシュは痛む手首に反対の手を添えながら、オゼイと一緒に仕事をするようになって初めて野盗の襲撃を受けた日のことを思い出した。相手は傭兵崩れの三人組だったが、オゼイは数的不利をものともしないで蹂躙した。嬉々として人の肉を斬り、血を浴びながら哄笑する。そのときも彼は寝起きだった。
御者台で丸くなっていたジョシュは、油断して乗客席のドアを開けた途端、首にオゼイの一突きをもらって死んだ野盗が一番の幸運の持ち主だったと思っている。
「仕事だぞ、オゼイ。起きたならさっさと降りて、私についてこい」
馬車の外からリネーの声がして、オゼイが小さく舌打ちをする。
「へーい、へい……」
ジョシュはずっと怯えている。このどこか不穏で、気まぐれな狂犬がいつ主従の鎖を噛みきって剣を抜くのかを考えだすと、野営の晩には瞼を下ろすのも怖かった。
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