『影のごとく縋るもの』・下
雪融け水の混じったウタシ川の流れが、清らかな山の空気を運んで来る。
川べりの淀みないせせらぎはラウダの耳元までやって来て、けれども頭のなかへは入ってこない。対岸で小気味よく軋みを立てる粉挽き小屋の水車の音もそうだった。
彼の頭のなかは、隣にいる少女の息遣いのことでいっぱいだった。彼女がいつ、なにを言ってもすぐ反応できるように。結局、洗濯が終わるまで二人はまったく話さなかったが、作業は交代で進んでいった。
そして最後の一枚をラウダがやっつけると合図もなしに撤収作業が始まって、馬車まで戻ってきたところでやっとイムカが口を開いた。
「ねぇ、ラウダ」と、彼女の声は掠れていた。荷車の横で頬をほんのり朱に染める。
「ん?」と、ラウダは気にしていない風に言って、河原から持ってきた洗濯桶を担いで荷台に乗せながら続きを待った。
彼女は軽く喉の調子を整えると、緊張した声でこう言った。
「あなた、私のこと……どう思ってるの?」
ラウダは衝動的に口を開いたが声は出なかった。ここ一番、はっきりと言葉にしないといけない強い想いは、彼の腹の底で神経質な顔をして外へ出るのを躊躇った。
イムカは侘しい微笑を浮かべると、息を吐いて額に手のひらを当て、足元に視線を落とした。
「ごめんなさい。言えないのよね」と、彼女はお腹の前で、左手を右手で包むように握った。「私に変な望みを持たせたくないから。そうでしょう?」
彼女は困ったような、寂しいような目でラウダを見つめる。図星を突かれて、ラウダは彼女の顔を見ることが出来なかった。
「昨日は、いますぐじゃなくてもいいなんて言ったけど……。私は焦ってる。タイムリミットはもうすぐそこよ。私は豪農の娘だから。成人すれば、きっと相手はたくさんいるわ」
ラウダは手で目元を覆って首を前に傾けた。鼻から大きく息を吐き出して、激情を抑え込む。彼は彼女の言う未来をこれまでに何度も想像してみて、そのたびに苦しんだ。苦しんだが、どうしようもなかった。
「きみは、俺たちなら大丈夫だって考えてる」と、やっとの思いで彼は言った。「俺たちの、互いを想う愛さえあれば、どんな困難も乗り越えられるって」
「……そうよ。ええ、そう。違う?」
「違う」
ラウダは喉を詰まらせて、息苦しそうに答えた。
「もし、俺の抱えてる問題が、生まれてくる子にも受け継がれるようなものなら?」
「両親の愛があればそんな問題なんて――」
「子供も、そう考えてくれるのか?」
彼は叩きつけるように言って、しかしイムカがどんな顔をしているのかを見る勇気は出なかった。
「俺の問題を知っているのは、きみとレムバンだけだ。そんな狭い世界に生まれてきた子供は? 幸せだと言って心から笑えるのか?」
「笑えるようにするのよ」イムカは一歩前へ踏み出して、痛切に訴えた。「それが出来るのも私たちだけだわ」
しかし彼は納得できない。彼女の言葉はどれも耳障りがいいだけに聞こえてしまう。彼は首を横に振った。
「俺は、きみと結婚して、子供をつくって……そんなすべてのことに一生負い目を感じることになるかもしれない。そんな夫と、きみは、子供は、本当に幸せになれるのか?」
「私が支えてみせるわ。どんなことになっても、私があなたを後悔させない……」
「それでもだめだったら?」ラウダは猜疑心に唆されて、突き放すように言った。「俺は俺だ。ずっとこのままだ。忘れることは出来ても、変わるなんてできない。俺じゃきみを不幸にするだけだ」
そう言い切ってしまうと、不意に不安と心配が押し寄せて、ラウダはイムカの顔を見た。そしてすぐに後悔した。彼女は静かに泣き出していた。顔を赤くして、ぽろぽろと涙をこぼして、噛み締めた唇を震わせて。皮肉にもその光景は、彼の発言の内容を裏付けた。
「だから、俺は……きみを求めちゃいけないんだ」
彼は大きな喪失感に翻弄されて、心ここにあらずだった。
イムカは鼻水を啜って、がむしゃらに目元を拭いつつ、ラウダからは絶対に目を逸らさない。
「じゃあ、諦めさせてよ」と、彼女は涙声で言った。「いまここで諦めさせて……!」
彼女に与えた心痛が、それ以上のものになってラウダの心に返ってくる。けれど彼女の言葉は諸刃の剣で、決して一方的に傷を与えるものではなかった。二人は同じように、もしくは言い出した側がより深く傷ついた。
「あなたは、それをしない。私にそれが出来ないように」
なぜなら、と彼女は自分の左胸に手を当てて言い募る。
「私のここにある想いが、あなたのここにもあるからよ。私たちは同じなのに。時間に身を任せて傷つき続けるところまで、全部……」
「だけど、俺はふつうじゃない。きみや――」と、彼は嗚咽に似たなにかを飲み込んで、興奮から赤くなった目元を手で擦って続けた。「レムバンとも違うものだ」
ラウダは顔を上げて、イムカを見つめた。彼の右目から、たったひとしずく涙がこぼれ落ちた。
「……そうだろ?」彼は儚い笑みを浮かべた。
二人はしばし見つめ合った。風呂屋の周辺の喧騒や、路肩の草地に生えた草木を風がさわさわと揺らす音がよく聞こえた。彼女はチュニックの袖を右と左の目元に当てて、また鼻を啜ると顎をあげて口を開いた。
「……帰るわ」
それは弱った、けれど断固とした意志を感じさせる声だった。振り向いたその背中に声をかければ返事くらいはしたかもしれないが、引き留められそうな雰囲気ではなかった。
ラウダは小心者の足取りで馬車から離れ、イムカが御者台に上がるのを見守った。彼女は危なげなく座席に付いて手綱を握ってから、僅かに彼を振り向いた。
「……それじゃあ、いい休日を」
「ああ……」
イムカは手綱を操って危なげなく馬車を反転させると、そのまま一本道を南へ向かって去っていった。馬車が林道をずっと進んで小さくなっていくのを、彼は試練のように捉えて見ていたが、間もなく切ない想いがこみ上げて、彼に顔を背けさせた。こんなことでは、彼女が自分以外の誰かと結ばれる未来を生きていけるわけがない。
「わかってるよ、くそ……」
彼は珍しく苛立って、足元の土をつま先で削り飛ばした。
彼女と幸せになる未来。それは彼女と、彼女とのあいだに生まれる命に不幸をもたらす恐れのある未来。決して許されない結末で、避けなければならない未来。
俺は、彼女の想いを受け容れちゃいけない。
だって、その資格がないのだから。
◇◆◇
ラウダが背後に人の気配を感じたのは、根拠のない希望に縋ろうとする弱い心を鎮めるために重宝している自戒の句を、心の中で繰り返し五回ほど唱えた直後のことだった。
「――すまない、ちょっといいかな」
彼は、背後で発せられたその声に聞き覚えがないことや、ややくぐもって聞こえたこと、また男女どちらのものであるか曖昧な声質であったことを認識する前に、無防備に反応した。
彼の頭のなかはイムカのこと、彼女に関わる将来への大きな不安で埋め尽くされていて、別の物事に割く余裕がまったくなかった。
「ラウダだね?」
そう言った人物は重厚な円筒型の鉄兜ですっぽりと頭部を覆い、べラングラーシェ正規兵の装いに身を包んでいた。
「……ええ」と、ラウダは顔の見えない、おそらく初対面であるはずの人物に迷いなく名前を言い当てられて、条件反射的に身構えた。「そうですが……」
「よかった。偶然にも見かけてね、そうじゃないかと思ったんだ」
そう言う声にはまるで旧知の仲であるような親しみを感じるものの、やはりラウダには心当たりが一切ない。
「えっと……なにか……」
彼はこの状況に納得のいく理由を与えるために必死だったが、そのためのなにもかもは結局のところ徒労に終わった。
「そうだな、警戒ももっともだ」
兵士は繰り返し「すまない」と声に笑みを含ませて続ける。
「初めましてでやることでもないんだが……早い話が、私は君に“お節介”を焼きに来たんだよ」
「はぁ……」
「きみは少し前に、ここでお嬢さんと話していただろう。君のところの……イムカと言ったかな」
「聞いていたんですか?」
いつしかラウダは、無意識に兵士を彼と認識していた。動揺のあまりつい大きな声を出したラウダだが、兵士は泰然と頷いた。
「距離があって聞き取れない部分もあったが、まぁ概ねは……」と、彼はそこでラウダの責めるような視線に気づいて咳払いをした。「いや、悪気があったわけじゃない。道を歩いていたらきみたちの声が聞こえてきて、中々に深刻な雰囲気だったものだから、そこの陰から身動きが取れなかったんだ。……と、いうのは言い訳としてはベタすぎるかな……。しかし本当のことなんだ」
「当事者としては、すべて嘘なら助かるのにと思うところですよ」
その指摘に関して、兵士は困ったように唸るだけだった。ラウダは深呼吸でいくらか冷静さを取り戻すと、兵士の言葉を脳内で反芻した。
兵士が『そこの陰』と言って示したのは、林道へ入る直前にある件の十字路の交差点――風呂屋の南側出入り口前を通る、西から続く林沿いの道と、いまラウダたちの立っている道がぶつかる角だった。風呂屋の敷地を囲う木柵は、成人男性の平均的な背丈よりも高い作りになっていて、確かにそこは見通しが悪く、目の前の兵士が身を隠すのに適当だった。
「それで……」彼はまだ緊張していた。「お節介と言うからには、あなたは俺たちの個人的な問題に口を挟むつもりでいる、ということですよね」
「鋭いな。その通りだよ」
「なら、その必要はありません」
兵士は少しのあいだ黙り込んだ。ラウダはその沈黙を不満のあらわれとして受け取ったが、事実とは違っていた。兵士はラウダに対して抱いていた第一印象に大きな誤りがあったことを認めざるを得なかったが、理解には及ばなかった。
「きみは……」と、兵士は逡巡した。
「なんです?」と、ラウダが率直に訊いた。
「いや、なんでもない。私は……」
またも口ごもった彼は、再び口を開こうとして急に愉快な気分になった。
「不思議な感じがするな、きみは」
「……は?」
呆気に取られて、ラウダはぽかんと口を開いた。兵士がさらに声をあげて笑うので、彼はますます困惑した。
「いやはや……、私はきみになにを言うべきだろうか」
「こっちが訊きたいですよ。いったいなんなんです?」
「わからない」と、兵士はきっぱりと答えた。「いや、わからなくなってしまったよ。きみに声をかけたときは、はっきりと価値を持っていた言葉がね、いまはなんだか怪しいんだ」
ともかく、と彼は言う。
「きみが単に自信を失くした若者ではない、ということはわかったよ。彼女と話していたときのきみは間違いなくそう見えたのに、いま私の目の前にいる青年は別人だ。……お節介だ、などと軽率だったね。謝ろう、すまなかった」
「い、いえ……」
丁寧な謝罪に毒気を抜かれて、ラウダはじわじわと罪の意識に囚われた。考えてみれば相手に悪気があったわけもなく、彼はなんだか気まずさを覚えた。
「あの、俺のほうこそ……すみません」
「いいや、私が踏み込みすぎたんだろう。きみとは一度話をしてみたいと思っていたばかりに、焦って話題の選び方を間違えたようだ」
「え……」
予想外の一言にラウダは弾かれたように面を上げたが、声になったのはどうでもいい一音だけだった。そのあとは長いような短いような時間の中をさすらって、脳内でひたすら言葉の意味をこねくり回した。しかしどれだけ考えても、それがわかりにくい皮肉だとか、隠された意味のある台詞であるようには思えなかった。
かと言って彼には、自分が特別に面白い人間ではない自覚があるし、村でそんな誤った風評がたつはずもない。
――いや。たった一つの“問題”を除いては。
彼の頭の中で警鐘が鳴り響いた。
「大変なんだね」と、兵士が言った。
ラウダは驚いて心臓が止まるのではないかと思った。
「……なにがです?」
「色々とだよ。人生に困難はつきものだけれど、きっと君たちの抱えている問題は、私には想像もつかないようなことばかりなんだろう」
「なにかを知ってるんですか?」
兵士は沈黙した。ラウダは心臓を鷲掴みにされたかのような息苦しさを覚えた。
「いや、なにも」と、兵士は答えた。
そして空を見上げ、太陽の位置を確認した。
「さて……と、私はそろそろ行くよ。遅くなると怒られる」
兵士はまた、ラウダを見た。
「またいずれ。次はもう少し、長く話せるといいんだが」
言葉尻から、それはもう叶わないか、実現の難しいことのような気がした。それがわかるから、ラウダは内心でほっと胸を撫でおろし、できるだけ余計なことを言わないように唇を引き結んだ。
「それでは」
そう言い残して、兵士は村へ向かって歩いて行った。
まるで白昼夢の邂逅だった。過ぎ去ってしまえば、あの兵士の言葉に刺激された感情のひとつも思い出せないのに、強く惹かれている。
このあと彼は大通りを真っすぐ行って城砦まで戻るのか、はたまた村のなかを巡回するのか――と、考えている最中に、ラウダはふと顔を顰めて鼻を啜った。
彼の敏感な嗅覚が、大気中に漂っていた匂いの残滓を嗅ぎとった。それは微かな血と脂、そして糞尿特有の刺激臭だった。
「そういえば」と、彼はその匂いについて深く考えることなく呟いた。「名前くらいは……訊いておいてもよかったのかな」
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