『影のごとく縋るもの』・中

「あなたもついに悪いことに興味が出てきたのかしら?」


 マーシャは雰囲気をがらりと変えて、口元に取り繕った笑みを浮かべた。彼女は大通り側の入り口から入ってくる客が良く見える席に座っていて、ラウダが入ってきた瞬間の小さな落胆を誤魔化すために、明らかに無理をしていた。


「ごめんよ、レムバンは夕方にならないと自由の身にならないんだ」

「なんのことかわからないわ」と、彼女は気まずそうに笑って席を立つ。「何か飲む? ここは酒場だから、お酒しかないけれど……」

「あー……」と、ラウダは視線を店内に泳がせる。


 この時間から飲んでいる人間の顔ぶれはいつだって変わらない。そして大抵、村中から“ろくでなし”の誹りを受けている。彼らに対するラウダの個人的なスタンスはブレないが、彼らの擦れ具合を見ていると、自分はお呼びではないという感じがした。


「いや。ごめん。やめておくよ」

「そうよね? よかった、黙り込むからハラハラしたわ」


 それで、と彼女は目顔で探りを入れてくる。それはどこか愉快な空気を保とうとするように、愛嬌のある仕草だった。


「ああ、えっと……。実を言えば、もうここへ来た目的の半分は達成してる」

「へぇ……」と、マーシャは難しい顔をした。「もしかして、なぞなぞ?」

「違うよ」


 ラウダは思わず笑った。彼は家族以外の人間と話すのが苦手で、誰と話していてもぎこちないが、マーシャは接客のプロであり、レムバンの恋人ということで多少は話しやすかった。


「レムバンにマーシャの顔を見て来いって言われてきたんだ。あいついま畑を離れられないから、俺が代わりに」

「ああ。そういうこと。まめね……彼らしいわ」


 マーシャは微笑み、意味もなくつま先で地面を蹴った。


「そっかぁ……。今朝は会えないか……」


 でも、と彼女はすぐさま声を励ました。


「ラウダの顔を見られたから良しとします」

「全然、似てないと思うけど……」

「うーん……、そういうことじゃあないんだなー」彼女は微苦笑を浮かべた。「これはイムカも大変だ」


 どうしてここで彼女の名が出るのかと、ラウダは困惑する。二人はお互いに『うまく煙に巻かれた』心境だった。


「ところで、用事っていうのはそれだけ?」

「ああ、えっと。伝言はもう一つあって。叔父さんからなんだけど」

「メルキンさんから?」


 クライヴの名が出るとは予想していなかったのか、マーシャは少し緊張した顔つきになる。ラウダは惨めっぽい気持ちを家族への義理でかき消した。


「これからもレムバンをお願いします、って」


 一瞬の沈黙のあと、


「――ちょっと!」と、マーシャがラウダの腕を叩いた。真っ赤になった顔を隠すように下を向く。「き、急になに言い出すのかしら……!」

「……痛い」


 ラウダは背中を丸めて、じんじんする腕をさすった。酒場の仕事は体力仕事だとわかっていたが、それを日々真面目にこなす彼女の腕力もそれなりだった。

 マーシャは火照った頬を両手で冷やしながら、思考を掻き巡らせていた。


「……ラウダ、私からもメルキンさんに伝言よ」

「え、うん……」


 彼はもはや、自らがメッセンジャーとして奔走することになんの疑問も抱かない。


「私でよければ、そう伝えて。出来るだけよ。先のことを考えるなら、自己評価が低いと思われてはいけないの。かと言って不遜だと思われてもよくないわ。そのあたりの塩梅はあなたにかかっているからね」

「えぇ……」

「くれぐれも頼むわね」


 無茶だ、と思ったが、断わる理由を探すほうが大変そうだった。ラウダが諦めて了承すると、マーシャは満足げに頷いた。

 そして今さらながら、彼女はきょとんとして言った。


「そういえば、あなた……畑仕事は?」


 強引な頼みごとを引き受けたあとで、彼は思った。

 ――優しい彼女のことだから、申し訳なく感じるだろうな。

 彼は自分が非番であることを説明するに、これほど気が重たくなるとは思ってもみなかった。


◇◆◇


 コーバス・リストの家――ベラングラーシェの西のはずれ、エラ山脈の山道入り口手前の、鬱蒼とした木々の中に佇んでいる――の地下室では、彼の手で一頭のダマジカの雌が解体されているところだった。


 この暗闇にある光源は、持ち手付きの燭台に一本刺さった蝋燭だけだが、血走った彼の両目には部屋中のすべてが見通せた。ダマジカは全体の七割ほども解体が進み、肉は部位ごとに丁寧に分けられて、本体はほとんど原型がない。


 多くの村人はコーバスを陰気な男、あるいは不愛想、悪臭がすると嫌っているが、それらの大半は建前である。彼を嫌う者たちは、新参者でもある彼のに触れるほど、彼と関りを持とうとしない。なにしろ貴族を除いては、大型の獣を狩ることが許されるのは狩人だけだ。そうした特権も妬ましければ、毛皮も肉も金になる。平民以下の生まれでありながら高給取りである彼らのような人種を、大衆は揃って遠巻きにする。

 ただ悪臭についての噂は事実以上でも以下でもなかった。獲物の毛皮をなめすのに糞尿を使うから、彼の小屋の周りや衣類はいつも臭う。彼が狩った獣を暗い地下で解体するのも、そうした理由からだった。

 せっかくの肉に、悪臭が付いては台無しだ。


 彼は不意に手を止めた。解体に使っているナイフの切れ味が落ちていた。彼はしゃがれた声で小さく唸って、解体台の縁に置いてあった手拭いで刃に付いた血と脂を拭き取った。日々の手入れの賜物で、その一手間が刀身に美しい輝きをよみがえらせる。彼はまた黙々と作業を開始した。


 コーバス・リストの家――カヤ葺き屋根の頭上を覆う枝葉のなかには、カラスたちがびっしりと止まっていた。真っ黒い群れが一斉に鳴くと、不吉な大合唱が地下室でもこだました。


◇◆◇


 ラウダがフロー・フェルダルと出くわしたのは、彼が休暇中だと知って気まずいマーシャが、後ろめたさから延々と続く会話の切り上げどころを探っているときだった。


「ほら! 言っただろ、今日は嫌な予感がするって!」


 突然の大声に驚いて振り向けば、大通り側の入り口に彼らの姿があった。

 フロー、ヴィクター・ドール、ラミロ・ザウアー。一番腕っぷしの強そうなのがフローで、背が高く目つきが悪いのがヴィクター、一見して不良には見えない色白で線の細いのがラミロである。


「ここまで来ると運命だぜ」と、ヴィクターは愉快そうに言った。

「なんだったか」と、ラミロが続く。「嫌な予感の根拠」

「朝、家を出るときにクソ親父と目が合ったんだ。おい――!」


 フローはまた怒声をあげた。


「てめぇみたいなが来るようなところじゃねぇぞ、ここは!」

「バカが馬鹿言わないで」と、そう言い返したのはマーシャだった。「どの立場から言ってるのか知らないけどね、ここはお父さんのお店よ。店側が客を選べるなら、あんたじゃなくて、ラウダみたいに行儀のいい人を選ぶわ」

「なにィ……?」


 額に青筋を浮かべて、フローが鼻息を荒くする。ヴィクターが忍び笑いをした。


「そいつと口喧嘩は分が悪いぜ」

「うるせぇ!」

「いいから席に着こう。飲みに来たなら客は客だ」


 荒れるフローを巧みに宥めて、ラミロはマーシャに目配せをする。マーシャは不満げに鼻を鳴らしたが、追い出すようなことはしなかった。彼らのお定まりの注文がすっかり頭に入っているらしく、それ以上は口も利かずに店内へと入っていく。

 事態は丸く収まったかに見えたが、フローは気が済まない様子で、


「さっさと失せろ」と、わざわざラウダを押しのけて、いつものテーブル席に向かって行った。


 その後ろにヴィクターが続き、ラミロはラウダの傍で立ち止まる。


「悪かった、またフローが噛みついて」

「……いや、いいよ」

「ほんの一面なんだ」と、彼は言う。「根はいいやつさ」


 わかってる、と言いたかったが、頷くだけで言葉は出てこなかった。人に様々な側面があることをラウダは信じているけれど、フローに関して彼が知り得るのは昔から乱暴な一面だけである。


「じゃあな、ラウダ」


 ラミロは虚無的な笑みを浮かべて去っていく。

 ラウダはマーシャに一言挨拶をしたかったが、これから忙しくなる彼女のことを想えば、ひっそりと姿を消すほうが迷惑にならないと考えて酒場を出た。


 やることがなくなって、彼はまた途方に暮れる。

 それが農場を出てから、ようやく一時間後のことだった。暇をつぶすあてもなく、大通りを南へ、寄り道なしで元来た道をまっすぐ引き返して農場に戻るつもりでいた彼は、橋を渡っている途中、ふと視線を向けた先の上空に白い蒸気が立ち上っているのを見た。


「……風呂屋か」


 彼は自らの閃きを悪くないと感じた。

 平民以下にも月に一度の入浴が義務づけられているエルタンシアでは、その機会も保証されている。これは貧民であっても例外ではなく、病気などの蔓延を防ぐ目的でもあるのだが、多くの者はそのような建前とは無関係にこの制度を利用した。


 べラングラーシェにはウタシ川沿いに白いテントが密集している区間があって、“風呂屋”と言えばこの一帯を指す。メルキン家では週に最低でも三度の入浴が鉄則で、それ以上通うのが習慣だった。みな普段から身だしなみには気を遣っているけれど、日々の汚れを落とすのに毎日の水浴びだけでは追いつかない。やはり熱い湯を用い、徹底的に身体に溜まった垢を落とす必要がある。


 彼が最後に風呂屋を使ったのは一昨日のことだった。

 週に通う頻度を考えれば明日でも問題ないが、これといって他にやることもないのだから悩まない。幸いにも、ズボンのポケットに入っているエルト硬貨が足りていた。問題があるとすれば、彼は風呂屋で働く湯女たちの裏のサービスや、そういったサービスを求める客は必ず一人で利用するということをレムバンから聞いて知っていることだった。

 そのことを意識すると、風呂屋の近くにいるだけで人の目がいつもより気になってくる。

 明日の朝、レムバンと来ればいいじゃないかと頭の中で声がして、議席の十割をラウダが占める頭のなかの議会では決が賛成票に傾いたが、いつまで従兄に甘えているつもりなのだと自問する声も無視できない。レムバンとマーシャが結婚すれば、二人は実家を離れて新居に越すだろう。そうなればいまみたいに彼と同室で寝起きすることはなくなるし、


『マーシャに、プロポーズするんだ』


 あれは本気の声だった。

 ラウダには残酷だった。従兄が臆面もなくそう宣言できた理由がわからなかった。悪意があったわけではないと思っているが、それ以上の期待をするのは怖かった。

 きっと通じ合っているなんて考えるのは、もうよしたほうが良いのかもしれない。自分自身がそうであるように、歳月と共に人は変わる。家族であっても、いつまでも良好な関係性でいられるとは限らない。

 ――あいつは自由なんだから。

 ラウダは前向きなのか後ろ向きなのかわからない覚悟と共にポケットのなかの小銭を握りしめ、風呂屋へと歩き出した。


 風呂屋の敷地全体は目隠しのために木柵に囲われていて、北と南にそれぞれ一か所ずつ出入り口となる場所がある。彼は橋を渡り切ってすぐに右へ曲がり、ウタシ川沿いの道から北の出入り口を目指した。この道から北の方角を向けば、河原の様子が一望できた。いまは村の女たちが洗濯に精を出していた。


「いらっしゃい!」


 午前が稼ぎ時の風呂屋では、朝から女将が客の呼び込みをやっている。彼女はラウダが近寄ると、独特の声質で歓迎した。


「テントを一つ借りたいんだけど」


 女将はラウダをじろじろ見てから、瞳を左右に動かした。


「あんた一人?」

「……はい」ラウダは鯱張って頷いた。


 裏サービスのことが気がかりでなかったと言えば嘘になる。断る準備ならできていた。


「そうかい」と、女将は素っ気なく頷いた。「はいよ。1エルト銅貨」


 ラウダは、上向きに差し出された彼女の手のひらを見て、狐につままれたような顔をした。彼女は、ぼうっとしている彼に「ん」と、ぶっきらぼうな催促をした。


「あ……!」と、彼は慌ててポケットに手を入れて硬貨をつかみ取る。


 手のひらの上でエルト銅貨(1エルト金貨=6エルト銀貨=216エルト銅貨)を一枚つまんで、女将に手渡す。


「まいどあり。向かって右から三つ目のテントが空いてるよ。湯の交換も済んでるから、すぐに使える」

「……ありがとう」


 お礼を言って、ラウダは足早に女将の横を通り抜け、テントに入った。なかには熱気が充満している。彼は鼻から思いきり息を吸い、ため息に変換した。


「訊かれもしなかった……」


 呟いて、気が付いた。そもそも裏のサービスなのだから、向こうから提案することはないだろう、と。彼はてっきり、一人で来る男性客に対して店側もつねに身構えているものだと思っていた。


 彼は頭を振って気を取り直し、テントのなかを見渡した。空間の真ん中に湯の張られた大きな木桶が一つと、桶を挟んだ両脇に衣類や貴重品をしまっておくための小さなチェストが一つずつ置いてある。

 彼は一方のチェストの前まで移動して服を脱ぎ、脱いだ衣類を折りたたんでしまう代わりに、チェストの底から乾いた手拭いを取り出した。それを使って湯船のなかで全身の垢を落とし、隈なく綺麗にすれば入浴はおしまい。

 総じて、十分もかからない。

 身体を拭き、服を着る時間を合わせても大した時間稼ぎにはならなかった。テントを出て見上げた空には、来たときと同じような雲が浮かんでいた。


「一日ってこんなに長かったっけ……」


 ラウダはまだ午前中だという事実に愕然としながら、南側の出入り口から風呂屋を離れ、林道へ入る手前の十字路まで道を進んで、なにげなく村へ続く道を振り向いた。

 すると風呂屋へ入る前には見なかった、やけに見覚えのある馬車が路肩に止まっているのが見え、もしやと思って馬車の後部から回り込むように近づくと、スリスリが足元の土を蹄の先で引っかいて退屈そうにしていた。


「おばさんか……、イムカが洗濯に来ているんだ」


 この際、時間を忘れられるなら何でもよかった。

 ラウダは首を伸ばして、河原に並ぶいくつもの後ろ姿から目当てのものを見つけようとした。いまなら二人とも、仕事の手伝いを拒まないだろうという確信があった。

 やがて胡桃色のくせ毛が衣類を洗濯板に擦り付ける動きに合わせて揺れているのを見つけると、彼はその背に向かって慎重に歩いて行った。彼女とは昨日の昼から一言も口をきいていなかったので、彼はかなり緊張して、彼女の真後ろで喉の調子を整えるために咳払いをしたときも、それで相手が振り返るとは考えなかった。


「……ラウダ」


 イムカは洗濯の手を止めて、小さな声で呟いた。彼は縫い留められたようにその場から微動だにしなかった。極度の緊張による全身の硬直は、彼女が手元に視線を落とし、再び手を動かし始めると次第に解けた。河原にいる女たちのなかに男が一人混じっているのは目立ったけれど、そんなことは承知の上で、彼は彼女の顔色や雰囲気などを注意深く観察しながら傍らにしゃがみ込んだ。

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