『影のごとく縋るもの』・上

 燃えている。家が燃えている。

 畑が燃えている。人が燃えている。家畜が、村が燃えている。


 大きな炎が煌々と、曇天の夜の闇を、道端に散乱する人の骸を、血の海を照らし出し、木材の爆ぜる音と重なって梁が落ち、その風圧で、塗ったような黒に火の粉がパッと散る。ごうごうという炎のうなりが、路上に押し倒された女性の金切り声をかき消した。襲われているのは彼女一人だけではない。恐怖でパニックになって逃げ惑う生き残りが、あちらこちらで一人、また一人と追い詰められて、命や尊厳を無慈悲に奪われていた。


 それは恐ろしい光景だった。邪悪で陰惨な儀式を目の当たりにしているかのようだった。彼はそこにいた。そしてほとんど反射的に、ここには居たくないと考えた。途端に臨場感がぐっと増して胃がむかつき、彼の視界に突然、銀色の光が飛び込んできた。村を包む地獄の炎を刀身に映して、死をかたどった狂気の剣。屈強な男の手に握られているその剣は、無言にも殺意を滾らせていた。


 男が不意に怒号を発した。異国の言葉で、なにを言っているかはわからない。

 だが、男がなにか言葉を発するたびに、全身の筋肉が強張った。逃げなくてはいけなかったが、恐怖で身体は動かなかった。心臓がバクバクと鳴って、荒い呼吸を三回、四回と繰り返すあいだに、異国の兵は彼の目前に迫っていた。


 異国の鎧は魚の鱗のようだった。精緻に彫刻された金属製の面頬が、悪鬼の形相で見下ろしていた。彼が命乞いをすると、言葉もわからないだろうに、男は低い声で笑った。それから彼の顔を乱暴に掴み、しげしげと見つめたあとで放り投げた。


 彼は地面に投げ出され、這いつくばった身体を起こそうとした。そこへ背後から、脇腹のあたりを冷たいものが貫いた。

 なにかと思って見れば、自分の腹から剣の先端が飛び出している。

 切っ先から鮮血を滴らせ、地面にぽたぽたと染みをつくっている。


 彼は、喉が張り裂けんばかりの悲鳴を上げた。


◇◆◇


 久方ぶりの悪夢は、ラウダに眠れない日々を思い出させた。

 彼は藁敷きの寝床から飛び起きて、いましがたの体験が現実ではなく、自分は安全な場所にいて、腹に穴も開いていないことを確かめると、茫然と二階を見上げた。

 土間から梯子をのぼって上がる狭い二階である。そこには鎧戸があって、外が見えた。外はまだ薄暗かった。

 剣を持った男の陰が脳裏にちらついて、すぐに目を逸らした。

 体中が汗ばんでいた。首筋は湿っているというよりか濡れていて、隙間風が吹くと鳥肌が立った。激しい脈動が頭のてっぺんにまで響いてくるかに思えて、彼は寝起きとは思えないほど疲れ切っていたが、二度寝をする気にはならなかった。目を閉じるのも怖くて、気分が落ち着くまでずっと天井を見上げていた。


「……どうして、いまごろ」


 ベラングラーシェに来たばかりの頃は毎晩のように見た悪夢だったが、ここ数年はすっかり忘れてしまうくらい見なかった。心が強く成長したか、過去を過去として受け止められるようになったかのどちらかだと思っていたが、どうやらそのどちらでもなかったらしい。正確かどうかの判断も難しい断片的な過去と、夢という形で数年越しに相対して、こうしてガタガタと震えているのがその証拠……。


 どす黒い絶望が押し寄せた1286年。心の中で育った闇は、健在だった。


 エルタンシアの建国以来、マスケニスのあいだに勃発した通算五回目の大戦争――第五次東西戦争の終結から十年が経ち、消耗した土地や経済は目に見えて復興しても、人の心はそうもいかないのだと改めて実感させられる。ラウダはやるせない気持ちになった。じっとしていられなくなって、シーツを剥ぎとる。枕もとの着替えを引き寄せて、座ったまま長袖のチュニックとズボンを身に着けた。


「おぉい……。早すぎやしないかぁ」


 一枚の衝立の向こうから、もごもごと掠れたレムバンの声がした。

 血縁にあるとはいえ、年頃の男女が一つ屋根の下では不都合があるだろうという判断で、二人は母屋ではなく、はなれで寝起きしている。ここは母屋と比べて手狭だが、寝て起きるだけの場所なのでさしたる問題はなかった。


「起こしてごめん。目が冴えちゃって」


 ラウダが見る悪夢を、レムバンは知っている。彼を心配させないためにも、もう少しちゃんと誤魔化すべきだっただろうか、と考えながら返事を待つこと数秒。耳を澄ましていると穏やかな寝息が聞こえてきた。

 ラウダは静かに着替えを続けた。襟元が隠れる丈のフードを被り、チュニックの上から腰のところをベルトで留める。寝床から離れ、寝室の縁に腰かけて、土間に置いてある厚底の農民靴に手を伸ばした。片方ずつしっかりと履き、膝下からくるぶしまでを覆うなめし皮の脚絆を巻いて上からひもで縛る。立ち上がって具合を確かめる。


「……よし」


 彼は物音を立てないようにはなれを出た。

 外の空気は暗い青色だった。早起きの鶏が、家畜小屋の中でコッコと鳴いていた。東の地平線がほんのり白く明るくなって、星々の輝きは失われつつあった。

 彼はひとまず屋外の水溜桶で顔を洗った。一晩中、外気で冷えた水は痺れるほど冷たい。微かに残っていた頭の中の靄をそれで晴らして、かじかんだ指先を白い吐息で温めながら、彼は家畜小屋へと足を運んだ。


 メルキン家では鶏を数羽、乳牛を一頭と、月毛パロミノの牡馬を一頭飼っている。馬は耕作用の作業馬ではなく、ちょっとした遠出や荷車を引かせるための乗用馬で、一年前に寿命を迎えた先代のかわりにクライヴが隣村から買ってきた若くて丈夫な馬だった。とんでもなく人懐こい奴で、人が近寄ると誰彼構わず鼻面をすり寄せるので“スリスリ”と呼ばれている。


「おいおい、わかったよ。おはよう」と、早速の洗礼にスキンシップで応じながらラウダは言う。「いまから、お前の部屋をきれいに掃除してやるからな」


 スリスリは返事かどうか鼻を鳴らすと、頭を上下に振った。それからラウダは黙々と家畜たちの世話をして時間をつぶした。やることがなくなるころには空気が暖かくなっていたので、家畜小屋の外に置いてある木箱に腰を落ち着けて朝を待った。


 クライヴ、カルラ、イムカの三人はいつも日の出とほぼ同時に起きてくる。彼らは顔を洗うために順番に外に出てきて、大人たちはすでに一仕事終えているラウダを見ると、半分呆れ混じりに笑って彼をねぎらった。イムカはなにか言いたそうにしていたが、結局はなにも言わずにカルラと朝食の準備のために母屋に戻り、クライヴは毎度のことでレムバンを叩き起こしにはなれへ向かう。


 やがてクライヴの野太い声と、悪びれる様子のないレムバンの眠たそうな声が本格的な朝の訪れを告げるのを見守って、ラウダはほっと息を吐き出した。

 彼はようやく悪夢から醒めた心地だった。


◇◆◇


 タリ・エスヌを信仰する信心深い者は、食前にかならず神像に祈りをささげる。

 だから私財をもつ家庭の食卓には、が置かれているのが当たり前だった。


 だが、このタリ・エスヌであるとされる美しい男性が、自らの体積を超える球に右頬をくっつけて、穏やかな表情で両瞼を閉じている画が世界共通であるということが、ラウダにはなんだか信じがたい。エルタンシアもマスケニスも同じものを見て祈り、死後に魂がその存在によって天国と地獄に振り分けられるという、とんでもない仕組みを甘受していることが不思議でならなかったが、そもそも彼の信仰心には少々欠けたところがあった。

 今朝もクライヴがお決まりの聖句を真摯な態度でそらんじるのを近くで聞いて、形だけ祈りながら、それ以上にやる気のないレムバンの欠伸を盗み見る。


「じゃあ、いただこうか」


 そうクライヴが言うと、待ってましたと言わんばかりにレムバンの手が伸びた。彼が皿からパンを一つ手に取るのを待って、ラウダもあとに続く。

 朝食はパンとチーズ、少量の塩漬け肉をふやかしたスープだった。

 夕飯時と違って、朝はみな口数が少ない。今日の仕事に関わる報告や指示だけがテキパキと食卓の上を飛び交って、さっさと腹ごしらえを済ませると慌ただしく動き出す。


「レムバン、俺と倉庫に来い。ラウダ、お前はしっかり羽を伸ばせよ」


 しっかりだぞ、と念押ししてクライヴはレムバンと母屋から出ていった。

 カルラは洗濯物の仕分けをやりだして、イムカは食器を洗い始める。手持無沙汰で近づこうとすると、「休むのも仕事の内よ」とカルラが機先を制してそう言った。

 本当に寝るくらいしかやることがないのだと食卓に着いたまま途方に暮れるが、女たちの気遣わし気な視線に耐えかねて、ラウダはついに重い腰を上げた。行く当てもないけれど、とりあえず母屋から出てとぼとぼと中庭を歩いた。


「どうしよう……」と、迷いが口をつく。


 このまま村へ出ようか、と考える。

 いや、出たとしていったい一人で何をすればいいのか、と即座に思う。前の休日をどう過ごしたかも思い出せず、ラウダはため息を吐いた。


「――おい! ラウダ!」


 見かねたレムバンが声をあげた。彼はラウダが肩を落として母屋を出たところからずっと横目に様子を窺っていたが、いよいよ我慢の限界と見えて、父の話もそこそこに鍬を持ったまま倉庫から中庭へ駆けてきた。


「お前、これから暇だろ? 俺の代わりにマーシャの顔でも見てきてくれよ。夕方になったら会いに行くからってさ」

「お前なにを勝手に……」と、息子のあとを追ってきたクライヴが顔を顰める。

「いいだろ、親父。仕事の手は抜かないぜ。今日の分が早く終われば文句はねぇだろ」


 彼の威勢のよさに、クライヴは頭を掻いた。


「ったく……、いつもこれくらいやる気になってくれりゃあ……」

「ってことだ。ラウダ、頼んだぜ」


 レムバンは得意そうに笑ってラウダを振り向く。肩を叩かれて、ラウダは咄嗟に頷いた。


「あっ、俺はまだいいなんて一言も……!」と、クライヴが突っ込んだ。

「察してやったんだろ」レムバンは憎たらしく笑って鍬を担いだ。「さ、行こうぜ親父。仕事だ、仕事! ちゃちゃっと終わらしてやるさ」


 調子のいい台詞を吐いて意気揚々と畑へ向かうレムバンと、その背中を困ったように見送るクライヴ。若さに押し負けた彼は、助けを求めるようにラウダを一度振り向いて、やれやれとばかりに頭を振った。


「……お前が言うな、お前が」


 クライヴは愚痴を零しつつ、息子が畑仕事に前のめりなのは喜ばしいのか、頬は緩んでいる。そんな微笑ましい横顔を見て、ラウダは唇の端を意図的に持ち上げた。


「それじゃあ、叔父さん。俺、村まで出てくるよ」

「ん、ああ」と、彼は表情を引き締める。「ついでに俺からもマーシャに伝言を頼む」

「かまわないよ、なんて?」

「『バカ息子だが、これからもよろしく頼む』と伝えてくれ。あんなにいい娘はなかなかいないからな」


 ――これから。

 阻むもののなにもない、幸せな未来を連想させる何気ないその言葉に、ラウダの胸がチクリと痛む。


「……ラウダ?」と、クライヴが心配そうな顔をした。

「えっ?」

「いや、大丈夫か? ぼーっとして……」


 抱えている悩みを吐露するわけにもいかなくて、ラウダは笑った。


「平気だよ」

「そうか……」

「うん、じゃあ……」などと、彼は言うが早いが逃げるみたいに後ろに歩きだしている。「……またあとで、叔父さん」


 クライヴが片手を挙げる。ラウダはそそくさとその場をあとにした。

 中庭を歩きながらちらりと家畜小屋のほうを見る。スリスリに乗っていくことも考えたが、時間に追われているわけでもなしに、歩きたい気分だった。


 農場から村へ向かうには、一本道を辿っていけばいい。


 中庭を囲う石垣の外に一歩出たところから、だだっ広い農地を突っ切って真正面――北へと伸びる道がそれであるが、メルキン家の敷地は田舎で言うに面してもいた。

 街道は村へ向かう農道と垂直に、東西に横たわっている。左へ進めばエラ山脈を抜けてサスキアの南西にあるフラガ領へ続く山道へ、右へ進めばバリオンという隣村に出る。

 バリオンはべラングラーシェのような農村とは少し雰囲気の異なる村で、商いが盛んである。田舎とされるサスキアの西部では比較的に賑わい、周辺の集落はこのバリオンで物品を交換したり商売をしたりして、生活を豊かに彩った。


 ラウダはベラングラーシェの村を目指すので、迷わず北の農道を進んで行った。

 村までは人の足であれば片道でおよそ半時、全速力で馬を走らせれば十分もかからない。途中で林の中を抜ける必要があるが、農場を出るまでがそこそこ長いのに比べれば、林道は大した距離ではない。

 両脇の林は炭職人たちの手によって一部が切り開かれたままになっていて、日中は日当たりもいい。切り株地帯を囲う木々は山側の西へ行くほど鬱蒼として茂っているが、道を逸れたりしなければ、それほど物騒にも感じない。

 この林は、徒歩でも数分で抜けられる。


 視界がひらけると、ベラングラーシェの集落が目前に現れる。人々の営みと、水の流れる音。サスキアの大河として知られるスーリャの支流、なじみ深いウタシ川が東西に寝そべって、それを跨ぐように二つの橋がかかっている。

 一つは林を抜けた道の先。もう一つはここより西へ、川沿いの土地を埋め尽くす風呂屋の白いテントがちょうど途切れるところにあった。

 ここからさらに村の中央を南北につらぬく道と、街道へ通じる道とが交差する十字路をまっすぐ行って、風呂屋を横目に橋を渡れば、対岸の左手には粉ひき小屋と立派な石窯を貸すパン屋が並んでいる。


 ラウダはちょっと立ち止まって漂ってくる焼き立てのパンの香ばしい匂いを嗅いだあと、その先の分岐路へと歩みを進めた。


 村のなかを通る三つの道。どれも最終的には一つになって、フェルダルの鍛冶屋前を横切り、城砦を囲う堀の上を渡す跳ね橋へつながっている。地元の人間は、それぞれの道に名前を付けて区別した。

 三本の真ん中が、もっとも賑やかな“大通り”。馬車がすれ違うだけの幅員がある。

 西側の道が“酔いどれ小路”。酒場の裏を通るのでこう呼ばれるが、誰が言い出したかはわからない。残る東の小道は単に東通りと呼ばれるか、個性の薄さをからかう者が“名無し通り”とこう呼んだ。とある爺さんがこの道を通って自分の名前を忘れてしまった、なんていう話があるが、これは実話で、いまとなっては笑い話だ。彼は数年前に多くの人に惜しまれて亡くなったが、最後には孫の顔もわからなくなっていた。


 ラウダは大通りを進み、通りに面した入り口から酒場の敷地に入って行った。入り口の頭上には、アーチ型の看板が出ている。長年風雨に晒されて掠れた文字で、。味があると言えば聞こえはいいが、間違いなくガタは来ている。それでもこの店が閑古鳥と無縁でいられるのは、ここが村で唯一の盛り場であるということと、なによりの存在があったればこそだろう。


「――あら、ラウダ。珍しい」


 柔和に垂れさがった目元。女性らしいふっくらした体つきに、落ち着いた佇まい。亜麻色のポニーテール。チュニックの胸元にはキンポウゲを象った木彫りのブローチ。

 マーシャ・リオッカは、困惑の微笑を浮かべてラウダを迎えた。

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