『メルキン一家』・下

 その晩、メルキン家の食卓は妙な緊張に包まれていた。

 夕食の献立はクライヴの妻カルラ・メルキン特製の『燻製肉と根菜のスープ』に、彼女が村のパン職人に農場で採れた小麦を使って焼き上げさせた、香ばしくずっしりとした黒いパン。これをスープに浸して頬張れば、熟成された肉と野菜のうまみが溶け込んだ優しい味がじゅわっと口いっぱいに広がって、それはもう至上なのだが、場の空気は穏やかとは言い難く、そこにあるのは淡々とした食器どうしのぶつかる音と、炉で爆ぜる薪の音だけだった。


 夕食の空気が重たい原因ははっきりしている。イムカだ。彼女の口数が少ない。

 そして彼女の機嫌が悪くなる原因についても、おおよそのところで一家全員の見解が一致していた。かといって「なにかあったの?」なんて直接的な物言いで問題を明らかにしようものなら、この息苦しい食卓が今夜限りで済まなくなる恐れもある。

 だからこそ皆して黙々とパンをちぎり、苦し紛れにスープを掬ってことのなりゆきを見守るしかなかったし、三方からひっきりなしに送られてくる視線にラウダはひたすら耐え忍ぶしかなかった。


「……ごちそうさま」


 最初に席を立ったのはイムカだった。手早く空いた食器を纏め、台所横に水を張って置いてあるに浸けると、カルラの心配そうな視線に目もくれず母屋を出て行く。

 男たちは母屋の戸が閉まるなり、無自覚にひっそりと背中から力を抜いた。


「……このスープ、美味いよ」


 皿がほとんど空になってからクライヴは呟いた。ラウダは叔父の第一声が自らへの追及でなかったことに安堵し、奥深い旨味を含んだスープを木匙で口へ運んだ。

 カルラは夫の言葉に手を合わせて喜んだ。


「そう、良かった」

「母さん、パンもう一個食っていい?」

「ダメよ」皿に伸びたレムバンの手を叩き落として、彼女は言う。「満足するまで食べたかったら、ラウダを見習って働くこと」

「うぇ~」と、彼は嫌そうな顔をした。

「レムバン、レムバン、レムバ~ン」


 そのとき、クライヴが裏声を使って息子の名前を歌い上げ、それから急に声を低くした。


「……明日は逃がさんからな。ラウダのぶんまで働けよ」


 レムバンが「え、いや……」と目を泳がせると、クライヴがすかさず追い詰める。


「まだグダグダいうつもりなら、明日はお前を棒にでも縛り付けて。それが嫌なら……」

「わかったよ、やるさ」小さな舌打ちが鳴った。

「え、それじゃあ……」


 やりとりを聞いていたラウダが心細そうな声をあげると、クライヴは頷いた。


「明日は一日休むと良い。お前が真面目に働くおかげで、今年も春の仕事は早く終わりそうだからな」

「だったら明日は俺も働くよ。そしたらもっと早くに終わるよね?」


 クライヴはゆるゆると首を左右に振った。


「仕事を早く終わらせたって、夏が急いでくれるわけじゃないぞ」

「そう、それに……」と、カルラは前のめりなラウダの手の甲に優しく触れた。「もう十分、あなたには助けられてるわ」


 親愛の情のたっぷりと籠った視線をうけて、ラウダはなんだかこそばゆい。水仕事であかぎれた彼女の手のひらも、とても暖かくて気持ちが和んだ。


「さて、と……」レムバンが席を立つ。「食ったら一緒に外の空気でも吸いに行こうぜ、ラウダ」

「外か……」


 ラウダは眉をひそめて宙を睨んだ。

 外にはイムカが出ている。母屋から出ればすぐのところに中庭があって、この時期の夜は寒すぎもせず、星が綺麗に見えてよいのだが、なんとなく気分が乗らないままレムバンを見上げると、彼は「先に出てる」と言って意味深にウインクをした。

 最後の一匙を平らげるまで悩みに悩んで、食器を片付けると、結局ラウダは母屋を出た。外はすっかり日も落ちて、満天の星空が広がっている。広々とした中庭の空気は澄んで、温まった身体に心地いい。庭の中央には楢の木が植わっている。どっしりとした幹から野放図に伸びた頑丈な枝の一本から、ブランコが吊ってある。母屋を背にして左手にはと倉庫があって、右手には家畜小屋が建っている。

 家畜小屋には、ぼうっと橙の明かりが灯っていた。牛と馬の柵と向かい合う形で、椅子に座ってぼんやりするイムカの横顔が遠目にも見えていた。


「――よう」


 母屋の戸のすぐ脇の暗がりから聞こえた声にラウダは驚き、半歩ほど飛び退いた。彼は悲鳴も上がらないほどゾッとしたが、笑い声が聞こえてくるとそちらを振り向き、胸に手を当てて笑顔になった。雲に隠れていた月が顔を出して地上を照らし、すぐ傍にしゃがみ込んでいたレムバンの姿を暴き出す。


「なんだよ! 脅かすなよ、レムバン!」

「はは、悪い。そんなつもりはなかったんだ」


 肩を竦めて笑うレムバンは右手に小刀、左手に木片を持っていた。よくよくラウダが見てみれば、木片は既にかなり形になっていて、誰にも馴染み深い動物が象られている。手元をじっと覗き込むラウダに、レムバンは得意げに笑ってみせた。手のひらに載せた木片を、彼にも良く見えるように高く掲げる。


「どうだ、なかなかだと思わないか」

「……ウサギ?」


 そうだ、とレムバンは嬉しそうに頷いた。

 耳をたたんだ木彫りのウサギは器用に象られていて、青白い月明かりが凹凸に影を作ると、まるで生きているかのように見えるのだった。


「すごいじゃないか、レムバン。すごく上手いよ」

「凝ってるんだ、木彫り細工。これは割と初級編。最近は花とか……複雑な造形のものも作れるようになったんだぜ」


 レムバンは手のひらでころころと転がすウサギを、穏やかに見つめている。

 ははあ、とラウダは顎を擦ってニヤついた。


「花の木彫りは、マーシャへのプレゼント?」

「まぁ、な……。ブローチとかにしてやると具合がいいんだ」

「ふんふん」


 興味津々に頷くラウダに、レムバンは頬を赤らめて抗議する。


「なんだよ、評判良いんだぜ」

「疑ってないよ。実際かなりの出来だもの」

「くそ。こういうところはお前、素直だよな」


 恥ずかしそうに一度顔を逸らしたレムバンは、思い出したようにラウダを見上げた。


「そんなのはどうだっていいんだ。いまはお前らのことだ」

「お前ら?」

「惚けるなよ」


 レムバンは顎で家畜小屋のほうを示した。


「イムカとまた、なんかあったんだろ」

「それは……」


 ラウダが言葉に詰まると、レムバンは綻ぶように笑った。


「最近はこういうことも増えたしな……。ま、なにで揉めたかについても大体のところで察しがつくさ」


 気まずそうに、ラウダはまじまじとレムバンの横顔を見た。

 レムバンはその視線に気付いているのかいないのか、手のひらの木彫り細工から目線を上げずにこう言った。


「イムカは成人したらお前と正式な関係になりたがってる。で、お前はもうちょっと先のことを考えて怯えてる。例えば……、とか」

「……凄いな、レムバン。お見通しだ」

「当たり前だろ、お兄ちゃんだぞ」


 彼は誰に向けたものか気持ちを励ますように言ってから、甲斐もなく沈鬱な面持ちで足元を睨んだ。


「イムカは、一途だ。十年前、お前が家に来てからずっと、俺よりもお前のあとをついてまわってた。兄貴として、正直妬けるくらいには」

「うん……」

「あいつが胸の内の恋心に気が付いたのは、ここ数年のことだろうけど……な」


 小さく笑って、レムバンは家畜小屋に目を向けた。ラウダも釣られてそちらを見る。すると一瞬、イムカと目が合う。彼女は盗み見ていたことがバレて気恥ずかしいのか、椅子から腰を上げるとそそくさと二人の死角に引っ込んでしまった。


「見たか? 俺たちと一緒になってそこらへんを走り回ってたあのお転婆が、いまやすっかり変わっちまった。髪だって伸びて、年々女らしくなってくる」

「……寂しそうだな」

「まぁなぁ……。兄貴らしいこと全然してやれてないけど、こういう感傷にゃ一人前に浸れるもんだ」

「そういうものなのか」

「そういうもんらしい」


 春の夜は、しんと静まり返っている。

 ラウダは、母屋の出入り口を塞いでいることにいまさらながら気が付いて、レムバンの前を通って彼の右側に移動した。そして母屋の壁に背中をあずけて腕組をした。


 この位置から見えるのは、明かりの灯った家畜小屋周辺の中庭までで、4棟の家屋をかこむ垣根の、そのさらに向こうには広い畑と農道がひろがっているはずだが、いまはそのすべてが濃い闇の中に沈んでいる。風が吹くとざあっと音を立てるのは、昨年の秋に植えた麦だろう。ベラングラーシェの厳しい冬を越え、過半数が出穂して、黄金に色づく季節をいまかいまかと待ちわびている。


 これらの畑はすべて、クライヴの曽祖父の代から、メルキン家が代々手を入れ、広げてきた開墾地である。


 本来はクライヴの兄であるラウダの亡き父が受け継ぐはずの土地であったが、彼は父親――つまりラウダにとっての祖父にあたる人物とそりが合わなかった。

 結局のところラウダの父は、いまのレムバンと同じくらいの歳頃にこの家から、果てはサスキアからも飛び出して、新しい土地で一から畑を作って定住した。そこで運命の女性と出会い、ラウダが産まれた。


 彼の父はサスキアにいる親族のことを話したがらなかったし、彼も訊かなかった。祖父との面識もなかったから、彼は自らの祖父に対してなんとなく怖い人物像を抱いていたものだが、ここへ来て叔父のクライヴからあれこれと話を聞くと、父と祖父とが似た者同士の頑固者で、父の家出は逐電というよりも猛烈な反抗だったという事実が判明した。

 最終的にはラウダの父も、祖先と同じく自らの手で大地を耕し、農業を生業としたのだから、畑仕事には並々ならぬ情熱を持っていたのである。それゆえに祖父と仲違いしたのだとラウダは聞いていたし、父は実際、家族三人が暮らしていくに十分なだけの土地を持っていた。さすがに何代にもわたって管理されてきた農地にはかなわないけれど、ラウダの記憶にある父の畑も素晴らしかった。


 ともあれ、一度は離れた二つの運命は、いまこうして故郷で再び結びついた。月光のもと、二人の男は奇縁というべきものを感じながら、慣れ親しんだ風景を前にして、しばし各々の感動に没頭していた。


「なぁ、ラウダ」と、レムバンがだしぬけに口を開いた。「あいつが変わっていくのは、お前のためなんだぜ」


 レムバンの声色に、冗談めいたところはない。ラウダは甘く光栄な気持ちと、そこへ鬱陶しく付きまとう冷徹と対峙して黙っていた。その沈黙は了解であり、自罰的な催促だった。


「父さんも母さんも、お前を気に入ってる。もちろん俺もだ。他の男が相手なら黙っちゃいられないが、お前がイムカの相手なら、なにも言うことはないんだ」


 ラウダは沈黙を貫いている。レムバンはそわそわして、彼を一瞥した。


「お前のことだって、俺たち三人が黙ってさえいれば父さんたちには……いや、村の誰にもバレやしない」

「そういう問題じゃない。わかるだろ、レムバン」


 声は強張っていた。感情に振り回されそうになって、ラウダは下唇を噛み締める。一つ深呼吸をして、怒りなのか、哀しみなのか、憎しみなのか……判然としない心の動きを封じられるように努力した。


「もしもがあってからじゃ遅いんだ。俺が抱えてる俺自身の問題さ。特に子供なんていうのは、親に祝福されて産まれるべきだ、もしそうでなかったら……」


 恐ろしいことを口走りかけて、彼は口を閉ざした。彼は基本口下手で、だがその従兄は聞き上手だった。


「親が子を呪うこともある、か……」

「……そうだ。その逆もまた然り……」

「難儀だな。そんなことばっかり考えてるからお前、その歳で白髪になんてなるんだぜ」


 レムバンに茶化されて、ラウダは祈るみたいに目を閉じた。らしくないとは思いつつ、ちょっぴりおどけて不満げな声を出す。


「うるさいなぁ。それとこれとは関係ないよ」

「冗談だって」

「わかってる」


 矢継ぎ早に言葉を交わして、どちらからともなく破顔した。二人して腹を抱えて笑う。楽しそうな声は夜のべラングラーシェに響き渡り、ラウダは農場内に点々と明かりを灯す家々にも、この騒々しさが届いたかもしれないと思った。少なくともイムカは興味を惹かれて家畜小屋からひょっこり顔を覗かせたが、笑い合うラウダやレムバンがそうと知ることはなかった。


「――よし、決めた」


 矢庭にレムバンが膝を叩いて立ち上がる。


「なにを」

「プロポーズする」


 ラウダの表情筋が、半笑いのまま固まった。

 レムバンは顔中、体中に決意を漲らせている。いつもの冗談ではない。その証に彼はもう一度、


「マーシャに、プロポーズするんだ」


 聞き間違えようのない、落ち着いた声で言った。

 その横顔は、天上の星々にも負けないくらい輝いてラウダの目に映り、彼の内側に濃い影を落とした。

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