Ep1. 『東を向いて考え、西へ向かって歩く』

Part.1 『彼の世界』

『メルキン一家』・上

 晩春、ベラングラーシェの空が青々とするのを見ると、ラウダ・メルキンは決まって昔を思い出した。


 生まれ故郷の空を見上げて、ただぼうっとするのが好きだった当時4、5歳の彼に、『ラウダは本当にのんびり屋さんね』と母は幸せそうに微笑みをくれた。母が嬉しそうだとわけもなく嬉しくなって、彼も笑った。優しい両手が彼の頬に触れ、『お母さんはこっちの空のほうが好き』と双眸を覗き込んでくる。

 それは色褪せた記憶。母の笑い声がセピア色の空気とともに遠のいていく。彼女の仕草や表情がぼやけて、でたらめな絵画のように輪郭が溶ける。風が吹いて、彼は現実に引き戻された。


 エラ山脈の峰を降りてきた透き通る西風は、ラウダの全身にまとわりついていた堆肥混じりの土の匂いと、べたつく汗の酸っぱさを東の雄大な地平へと攫っていった。エラ山脈は、エルタンシアの大きく七つに分けられる領土の中央を南北に横断する山岳地帯で、その北端が――サスキア領のなかほどに位置する麓の農村、べラングラーシェの西にそびえている。

 残雪の頂きを越えて吹く風は、微かに鋭く新鮮で、昼間でもまだ少し肌寒い。

 ラウダは再び鍬の柄を両手でしっかりと握りこみ、畑の土を耕し始めた。

 彼にとって、いまやここが故郷だった。思い出すたびに心が囚われ、呼吸が苦しくなるようなつらい過去を克服するには、献身的な誰かの支えと、たくさんの時間、新しい日々が必要で、ベラングラーシェにはそれらすべてが揃っていた。


 理想は忘れたい事柄だけをきれいさっぱり消し去ることだが、そう都合よくはいかない。時間が連綿と続いているということは、良いことも悪いことも結局はいまに結び付いている。

 両親との思い出が風化していくことを寂しいと感じつつ、彼はそういった変化さえも肯定できる程度には回復していた。


 あれから十年の歳月が流れ、過去を振り返る時間は減っている。生きることのほとんどは正面を向いていなければ成功しない。ならば、それほど悪いことではない。乗り越えなくてはならない障害は、この先にもっとある。

 16歳のラウダは、皺の寄った鼻筋につたう汗を飛ばして、鍬の刃を思いきり土に打ち付けた。


「おーい」と、誰かの呼ぶ声が響き渡ったのは、それから数時間後のことだった。「ラウダ、イムカ! そろそろ休憩にしよう!」


 隣の畑で叔父のクライヴが逞しい腕を振っている。彼はベラングラーシェで最も大きなこの農場の所有者で、ラウダの後見人でもあった。


「さぁ、みんなも手を休めてくれ! 休憩だ!」


 続けて彼は分厚い手を打ち鳴らし、口元に両手を添えて大きく声を張り上げる。まもなくラウダの視界の奥で人影がばらばらと動きだし、農場内のあちらこちらにまばらに建っている木造小屋へと三々五々に引き上げ始めた。


 大きな農場となればどこだって、労働力の大多数を彼らのような農奴に頼ることになるけれど、メルキンの農場は彼らにとってありふれた環境ではなかった。

 彼らはベラングラーシェ領主の持ち物だが、クライヴは自身が所有する奴隷たちも含めて、必ず大切な仲間として扱った。

 また、この農場は山裾から続く森の一部と、サスキアの大河スーリャの支流の一つであるウタシ川を挟んで集落から南へ少し離れた場所に位置するが、村と同様にベラングラーシェ城砦の庇護下にある。時代とともに外界から忘れ去られてしまった歴戦の勇士のような哀愁をもって、数世紀ものあいだ北の断崖から人々の暮らしを見守ってきた古城は、わけあって二年前に大規模な修繕が行われて以降、村の守護神としての威厳を取り戻していた。

 現在は農場内にも城砦の戦力が一部駐在しているため、不自由な人生を強いられた農奴たちにとって、ここはまさに飢えず奪われずの楽園だった。これはラウダにとっても同じようなもので、クライヴと血のつながりのあることは彼の誇りだった。


 ラウダは、そんな自慢の叔父が家へ向かって畦道を歩いて行くのを目で追いながら、片手を腰に添えて左右に捻り、深く息を吐きだした。ついでに胸を反らしてうんと背伸びをしたところ、喉からおかしな声が出る。


「――やだ、ラウダったら年寄りくさい」


 くすくす笑いに振り向くと、いつの間にか従妹のイムカが近くまで来ていた。

 去年の暮れから「伸ばすことにした」というのある胡桃色の髪を肩の上で揺らす彼女は、日中ラウダがせっせと耕したところを踏んで固めてしまわないように、ひょいひょいとうねを跨いで近寄ってくる。彼女が跳ねるたびに、黒土で薄汚れた白いスカートの裾がひらひらして、そのほっそりとした足首をとりまいた。

 ラウダは眠たそうな目で彼女を見据えて、のんびりと頷いた。


「よく言われる、俺は若い男の皮を被ったおっさんだって」

「フロー達ね?」


 ラウダのすぐ傍で立ち止まり、イムカはぷくっと頬を膨らませる。

 フロー、ヴィクター、ラミロ、ラウダ、レムバン。村の若い男たちはなにかと関わらずにはいられないが、中でも前の三人はよく一緒になって遊びまわっている。

 家の仕事を放りだして昼間から飲んだくれ、いさかいを起こすことも多いので、村中の評判はあまり良くないものの、イムカが彼らを嫌う理由の根源はそういったところにはない。特にフローのちょっかいの出し方は乱暴で、彼女はそれが気に障るらしかった。

 ラウダは、話題の展開について慎重なフォローの必要性を感じた。


「彼らに限らずさ。この間はマーシャにも似たようなことを言われたよ」


 あら、とイムカは丸く大きな鳶色の目を瞬いた。

 マーシャはレムバンの恋人で、レムバンはイムカの兄。つまりラウダにとっての従兄にあたる。

 色男の宿命か、彼は彼で労働より恋愛に心血を注ぐ傾向にあって、場合によっては夕飯にも帰ってこないほどの夢中ぶりだった。そのせいでフロー達と同一視されがちであるが、ラウダの考えはちょっと違う。

 例えば、今日もレムバンは愛しのマーシャに逢うために朝から姿を消していて、ラウダは彼のぶんまで汗を流している。これを不平等だと捉えるからクライヴ達はそのうちレムバンの首根っこをつかまえて、彼を強制的に働かせる日を用意し、代わりにラウダを労い休ませる。

 しかし休みをもらったとて、むしろ時間を持て余してしまうという寂しい現実にラウダはこのごろ気付いたのだ。レムバンやフロー達のように、心の内で熱く燃やせるなにかを自分は持っていないだけなのだと。だから畑と寝床を往復する日々に不満なんてあるはずもないし、それどころか彼は同年たちの情熱に尊敬の念を抱くことさえあった。


「みんな、真面目な働き者になんてことを言うのかしらね」

「イムカだって」


 ラウダが気にした様子もなく笑うと、彼女は唇を尖らせた。


「違うわ、私は馬鹿にして言っているんじゃないもの」

「みんなも馬鹿にしているわけじゃないと思うけど……」

「鈍感なんだ」イムカはつんとそっぽを向いた。


 ラウダは困った顔になる。たった三か月しか生まれの差がない彼女との関わり方が、彼には年々難しくなってくる。いまのように、なんでもないやり取りのなかで摩擦を起こすことが増えていた。


「……ごめん」

「どうしてあなたが謝るの!」


 まったく、とイムカはため息を吐く。


「私としては、ラウダにもたまにはガツンと言い返して欲しいのよ」

「言い返す?」

「だってそうでしょ? あなたは本来、見習われるべきなのに」

「いや、そんなことは……」


 過大評価だ、とラウダは首を振った。

 彼の身の回りには出来た人物が多くいて、上を見ればきりがないのは確かだが、それを差し引いても、彼は自らが誰かの手本になる人間だとは思わない。

 けれども、他の誰でもないイムカにそう言ってもらえたことが素直に嬉しくて、口元が少し緩んだ。


「胸を張るべきよ。少なくとも、人の役には立ってるでしょう」

「うーん……」


 それは確かに、とラウダは思った。

 彼はこの春に16歳を迎えたばかり。成人と認められて一週間が経ったいまも大人の仲間入りをした自覚が芽生える兆しはまったくないが、誰かに迷惑をかけたり、もめ事を起こしたりするよりはマシ、という考えはもっともでわかり易い。

 イムカの言う通り、日々黙々と働いている人間に対して「若さが足りない」と評価をくだす周辺に、少しの不満を申し立てるくらいは許されるのかも知れない。


「……怒ればいいのかな?」


 ガツンと言い返すとは、具体的にどうすればいいのだろう。

 ラウダが真剣に尋ねると、イムカはきょとんとした。


「怒る……、ラウダが?」


 言って、イムカは声をあげて笑い出す。


「ど、どうして笑うのさ」

「だって……、怒ってるラウダを想像したら……!」


 言いながら、腹を抱えてイムカは笑う。ラウダは戸惑い、彼女の笑いが落ち着くまで傍らに立ち尽くしていた。

 ひとしきり笑ったあとで、イムカは目尻を拭いながら言った。


「ごめんなさい。やっぱり、ラウダに乱暴なのは似合わないね。老けて見えるのはほんとのことだし」と、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。「……おもにその髪色のせいだけど」


 言われて、ラウダは頭髪をかきあげた。彼の髪は、ずっと昔から灰がかった白色だった。老化による白髪ともよく見れば異なるが、若白髪として扱われる機会のほうが圧倒的に多い。そしてのんびりとした彼の性格と、早熟な思慮深さを知れば、これは奇妙な調和を生んだ。


「好き放題に言ってくれるなぁ……」

「ふふ、でもね。私はそんなラウダがね――」


 言いかけた形に唇を開けたまま、イムカはじっとラウダを見つめる。

 言葉の続きを待つこと数秒、自らの間抜け具合に気が付いて、ラウダは不意に足元へ視線を落とした。


「……そろそろ行こう、叔父さんとおばさんが待ってる」


 ことさらに冷たく言い放って、鍬の柄を握る手に力を籠めると、彼は母屋へと足を向けた。


「……ねぇ、ラウダ」


 そんな彼の背めがけて、イムカは言った。背中で受け止める彼女の声は、あまりに優しい。ラウダは動揺して足を止めた。


「……なに?」

「今年の収穫祭は、一緒に過ごしましょうよ」

「一緒にって、毎年一緒じゃないか。叔父さんとおばさんと、レムバンと、みんなで」

「そうじゃなくて、


 空気が喉に詰まって、飲み込むのに苦労する。


「……どういう、意味」

「わかるわよ」


 考えてしまう。いつも祭りの途中で姿を消すレムバンが、どこで誰とどう過ごしているか、知らないわけではなかった。

 彼は、答えに辿り着きそうになる寸前で頭を振った。


「……二か月も先のことだろ。ニンジンもこれからだし、カブだって来月までには」

「そしたら再来月が収穫祭で、その次の月には――私の誕生日」


 努めて感情を押し殺した切実な声色に、ラウダは思わず振り向いた。

 彼女の瞳は熱っぽくて、切ない。


「……成人、しちゃうんだよ」

「イムカ……知ってるだろ、俺は」

「馬鹿にしないで! もなしにこんな話……私がすると思うの?」


 訴える眼差しにラウダは半歩後ずさる。

 女子が成人を迎える意味は、男のそれとはかなり違う。

 ――情けない。

 彼の男としての矜持が、自身を詰る。自然と足元に視線を落とす。


「……俺は、怖いんだ」


 情けない、情けない。ラウダは拳を固く握った。

 ベラングラーシェで手に入れた、新しい家族、新しい日々。イムカは誰よりも献身的にラウダに寄り添い、二人は当たり前に同じ未来を夢見るようになった。

 だが、ラウダが無邪気でいられたのは最初のころだけだった。彼女と結ばれること、そこから連想できるものすべてが二つの顔を持っていることに気が付いたのだ。幸福の裏の顔。それは考えるにも最悪な未来である。

 ――決して許されない未来……。


「きみは悪くない」と、彼は言った。


 愛を信じて、頑なに希望を持ち続けることは簡単ではない。諦めもときには肝心だと本心を偽る声は、日々存在感を増している。

 いつしかラウダにとっての最優先事項は、イムカを幸せにすることではなく、になっていた。


「……いいわ」


 彼女はため息交じりに呟いて、


「いますぐ答えが欲しいわけじゃないから」


 気丈に肩を竦めてみせた。

 だが、おどけた声音は長くはもたない。すぐに寂しげなものに変わってしまう。


「よく、考えておいて欲しいってだけ」


 それだけ言うと、イムカはラウダの脇をスッと抜け、そのまま畔道を渡って歩いて行った。彼女が母屋へ入っていくのをぼうっと見送っていると、ラウダの頭上で甲高い鳴き声が劈いた。

 一羽の鳥が、円を描いて飛んでいた。

 その姿は勇壮で、自然で、解放的だった。ラウダはあることを考えて自嘲した。心に吹き荒れる激情の波は不自然に、たったそれだけのことでぴたりと凪いだ。

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