灰色のラウダ

波打 犀

Prologue

『とある騎士の手記』

 まるで人類が越えることを禁ずるように天穿ち、北西から南東へかけて連なるウーステティカの山稜。この比類なき、絶大で圧倒的な山脈は、広大な大陸の西端に突出したユグンの地を、地続きのあらゆる文明社会から千年あまりも隔絶してきた。

 それはつまり、今日ユグンで広く親しまれる文化のほとんどがこの地で芽吹き、それ以外のものは地方の西岸から遠く海を渡ってきたものであることを示している。そしてそのすべては闘争の歴史のなかでゆっくりと時間をかけて浸透し、独自の文化を発展させる土壌となった。


 驚くべきことに、この地に根付くタリ・エスヌ信仰もまた、もとは海の向こうからやって来た侵略者たちによって伝えられたものである。

 彼ら侵略者はこの地に多くをもたらしたが、反面古くからの暮らしを奪われたと考えるユグンの民を多く産み落とした。


 やがてそういった純血なるユグンの民は、新しいものを取り込みつつ東の地で栄え、マスケニスという共同体となって西部のエルタンシアと対立する。二国は同一の神を信奉しながら異なる教義を掲げ、様々な文化の違いと歴史的な負債から、たびたび衝突した。


 しかし、これらは来る世界の変容の、ほんの前触れに過ぎなかった。

 時はユグン歴1068年、春。エルタンシアにおけるタリ・エスヌ信仰の中心地、王都の大聖堂で、当時国中の支持を受けていた聖バエンディリは大いなるものの声を聞いた。それは彼の信仰を粉砕するに十分な出来事だった。

 彼の人格は崩壊し、だが聖人と呼ばれるまでの知恵と精神力によって、超然とありのままを受け入れた。彼は狂乱に陥りながらも信徒たちに神託を明かしたが、その内容は無条件に人々の胸のうちに眠る歓喜を呼び起こすものではなかった。

 信徒たちは聖バエンディリの信仰が破綻したことを直観し、なかには絶望する者も現れた。


 建国以来、国内で起きた事件を記録し続ける文献『エルタンシア事件簿』によると、聖バエンディリはこの事態を嘆き悲しみ、真理を拒んだ敬虔で愚かにして、自らを崇拝した愛すべき彼らを剣で。聖堂内は37名に及ぶ信徒たちの血で赤く染まり、王都の警備が駆け付けたときには聖バエンディリの全身が返り血に濡れていたとある。


 この事件のあと、生存した信徒と駆け付けた警備隊数名の証言をもとに明らかになった『聖バエンディリの予言』は、上記に示した同著の中で以下のようにまとめられている。


『“タリ・エスヌ”とは、神の鋳型。人が創りし神、願いの権化、概念である。ゆえに教典に示される救いは嘘であり、まったく無意味な言葉の羅列に過ぎない。

 しかしいま、巌のごとく確固とした我らの信仰は実を結び、タリ・エスヌは大いなるものの母、新時代の卵として真なる神を宿された。真なる神は唯一にあらず、異なる方法でこの世界に完全をもたらすために地上へと降臨する。

 我々の信じた救済は、これより出ずる新しき神々のいずれかによってなされるが、どの道も長く険しく、我々には試練の時となるだろう』


 そして、警備隊に取り押さえられたとき、彼はこう叫んだ。


『世界の歓喜が聞こえぬか。この素晴らしき瞬間にも、耳を塞ぎ、目を閉じて、新時代の使いたる者を武力でもってねじ伏せる。いま、まさに――第一の神は“淘汰”なり!』


 聖バエンディリは断頭台のうえでその生涯に幕を閉じ、史上もっとも凶悪な宗教犯罪者として後世に名を残すことになった。

 事実、彼は非の打ちどころのない悲劇の主催者だが、事件の起こる直前までは国内に名高い聖人でもあった。にもかかわらず、誰もが彼の急変に思考をとめ、の一言で終止符を打つ。


 彼の死から早くも百年がたったいま、私は考えている。彼は本当に、単に信仰を失い、妄想にとり憑かれてありもしない幻想を語ったのだろうか。

 勘違いしないでもらいたいが、私は聖バエンディリを支持しているわけではない。どのような理由があっても、殺人が罪であるということに疑いの余地はない。


 だが、こうは考えられないだろうか?


 なんの因果か、新時代はまたしてもユグンの西部で産声をあげたのだ、と。

 私はいま、先の見えない暗黒の時代にいる。人間同士が、血を血であらう凄惨な戦いの時代を生きている。ユグンの大地が血を求め、さらなる闘争を煽っているようにも感じられる。もしこれが――と、私は近頃考える。

 聖バエンディリの予言。

 “淘汰”なる神の御業なのだとしたら。


 彼の予言を信じる者は数少ない。

 いまこうして、かつての悲惨な出来事を記憶の中に呼び覚ますことにどれほどの意味があるのかを問う声もあるだろう。けれど確かに、世界はあの日から間違いなく変化を続けているのだ。

 ゆえに、私は未来の人々に尋ねたい。

 いま。きみはあの聖バエンディリのように、大いなるものの存在を近くに感じているだろうか。彼が予言した通り、世界は完全に近づいているのだろうか。

 私は切に願っている。真なる神の導きが、真に正しいものであることを。


 ――ユグン歴1169年 イオルド・ビシス

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