第四章

第十一話 声

 果てしない紫紺に覆われた世界。

 そこには天も地もない。ただただ漠然と広大な空間が広がっている。

 少女は一人、たゆたっていた。

 海にでも浸かるかのように、その艶やかな銀色の髪が揺らめいている。穏やかな時間の流れに身を任せながら、少女は静かな眠りに落ちていた。


『……けて……』


 ぼんやりとした意識の中、どこかで声がした。


『たすけ……』


 声は耳からではなく、頭に直接響いてくる。

 始めは途切れ途切れに、かすれながら小さく。次第に明瞭に大きくなっていく。


『助けて……』


 それは幼い子どもの声だった。男か女なのか区別はつかないが、悲痛な叫びであることに間違いなかった。

 少女はうっすらとまぶたを開く。宝石のようなエメラルドグリーンの瞳が潤みを帯びて、正面に浮かぶ光を捉えた。ぼんやりとした頼りなく揺らめく輝きが、彼女から少し離れて浮かんでいた。

 本来ならば、ここには何もないはずと少女は自覚している。そういう空間、そういう時間なのだから。意識と無意識の狭間だ。

 困った様に少女が観察していると、やがて人型のシルエットへと変わる。


「誰……?」


 少女が恐る恐る光に声をかけてみる。


「あなたなの……? 私に語りかけてくるのは……?」

『助けて……』


 繰り返される懇願。心に痛みが走る。言葉と同時に、嘆きの感情までも流れてくるようだ。


「助けって……、あなたに何があったの? 私にどうして欲しいの?」


 声の主に心当たりはない。無風の宇宙のような空間であるにも拘らず、今にも消えてしまいそうな光に少女はそっと、宙を滑るように近づく。


「ねぇ、聞かせて。……あなたに何があったの?」


 少女の母性を芽生えさせるような儚いシルエットに、彼女の白い指先が躊躇いがちに伸びる。


『私たちを……』


 長い時間をかけて、ようやく触れる直前だった。

 また脳に声が響いた。ただ、少女の眼前にいる光からではない。明らかに違う声色だ。しかも沢山の数の子どもの声が織り重なって脳を埋め尽くす。


『私たちを助けて……!』


 やがて光の分裂が始まった。左右に幾つも広がりながら、真っ暗闇を光が覆いつくしていく。


「あなたたちは一体……」


 おびただしい数の光に圧倒されつつ、困惑を口にする少女。

 そこへ終焉の刻が訪れる。

 意識が覚醒していく感覚。眠りから覚めようとしているようだ。


『お願い……』


 あれだけうるさいぐらいに聞こえていた子どもたちの声が、残響のように遠ざかっていく。


「待って!!」


 少女の望みを無視するかのように、彼女の全身が浮上し始めていく。もはや闇など存在しない光の空間から、少女はどんどん遠ざかっていってしまう。

 子どもたちの光が祈るように見つめている――そんな気がした。







「う……ん……」


 微かな痙攣を伴って、マイアのまぶたが開く。

 視界が白くぼやけて霞んでいる。まどろんだ意識で始めて知覚したのは、ツンとした消毒液の匂い。次第にではあるが、景色が鮮明になっていくと、ようやく自分のいる場所を把握する。


「精……保……」


 ついこの間まで自分が入院していた精保内職員用療養室。

 見覚えがあるからいって安心感は特に抱かないが、ここに寝そべっている理由は良く分からなかった。

 身をよじりながら、マイアは上半身を起こす。


「……っ」


 頭が重く、全身が異常にけだるい。額を押さえ、疲れ切った息を吐き出す。


「あれは……夢、だったの……?」


 思い出してみようと頭を働かせるが、どうにももやがかかっていて全く映像が浮かばなかった。それでも、胸が締め付けられるような気持ちになるあたり、単純な夢だとは考えにくかった。


「――起きたようだな」


 低めの凛とした声が病室に響く。つられる様にそちらをむくと、白衣を着た眼鏡の女性が扉を開けて入ってきたところだった。


「レア先生……」


 精保の分析班と医療班を兼業する彼女とはすでに面識があった。マイアが一時的に入院している間、レアが主治医となって面倒を見てくれたのだ。粗野な口調とは逆に、親身に寄り添ってくれた恩人だ。


「調子はどうだ? 痛むところは?」


 頭頂部で結った亜麻色の髪を揺らしながら、レアがベッド脇に立つ。


「いえ……」


 マイアは、ふるふると首を横に振る。


「私はどうしてまたここに……?」

「覚えてないか。昨晩のこと」

「昨日の……夜……?」

「変な連中がお前やレイジを尾け狙っていたんだ。その後やむなく交戦。鎮圧はしたものの、リーダー格の男は取り逃がしたようだがな」

「あ……!」


 説明を聞いて、記憶が波のように押し寄せてきた。同時に、恐怖までもが付随する。身体をさすると、黒衣の男に身体を掴まれた感触が染みついているかのような気持ち悪さがあった。


「あ、あの織笠さんは……!」


 ハッとして、マイアは大きいベッドの端まで身体をずらしてレアに問う。


「アイツなら問題ない。今はオフィスで会議中だ。君が目を覚まさないのを気に病んでいたが、もう安心だな」


 ベッドに取り付けられた端末を操作しつつ、レアが微笑む。端末からは電極のコードが伸びてマイアの胸や腕に貼られていた。そこから常時計測されるマイアの状態を確認して、顎に指をあてる。


「さすがに体力の消耗は激しいな。疲労感を感じるか?」

「……はい、少し」

「精霊の過剰な発動からくる反動だな。他は特に問題なさそうだし、少し休めば回復するだろう」


 精霊を行使した覚えが自分にはない。だけど、この自覚症状は精霊使いの誰もが知っているものだ。なら、気絶しているときに精霊を発動したのだろうか。抑制できない力は危険でしかない。マイアは体を震わせてポツリと漏らす。


「どう……して……」

「ん、何か言ったか?」

「先生、あの人たちはやっぱり私を狙って?」

「……だろうな」


 重々しくレアは頷く。


「レイジは、昨晩の襲撃犯と以前君を攫った実行犯が同一グループではないかと睨んでいるようだ。君の力を巡ってな」

「私の力……」


 黒衣の男がしきりに口にしていた“女神”という言葉。

 恐らくあれは自分を指しているようだが、意味はさっぱりだ。


「私は直接現場にいたわけじゃない。レイジの報告を聞かされただけだからイマイチ信じられないんだが――」


 レアがベッドに腰を下ろして、そのスラリとした長い脚を組む。マイアの顔を覗き込む穏やかなレアの瞳に、僅かだが怜悧な光が灯る。


「あの場にいた暴漢共はプロの集団じゃない。身元もちゃんと判明している。三人が三人とも、日々を真面目に生きる善良な精霊使いだったんだ。昔はな」

「え……?」

「まともな精霊使いが、ある時を境にじゃなくなった――脳がね、バグっていたのさ」


 医療班という真っ当な職務に準じながら、科学にも傾倒するイカれた精神を持ち合わせるレアの口元が、ほのかな興奮を言葉に含ませる。


「外部からの干渉からなのか、自我を失っていた。取り逃がしたリーダー格の仕業か知らん。理性を失った彼等は、ただ命令に従い、破壊を行うマシンになっていた」

「そんな……」


 マイアの背筋が凍る。

 精霊を通して人を操るなんて。精霊は本来、自然からの恩恵を受け、そしてまた自然に返す。マイアが学んだのは、そういった常識。地上の安寧の為に精霊があるのだ。

 それを、こんな形で悪用するなんて。


「けれど、その脳のバグをクリーンにしたのが君なのさ」

「え?」

「表現が適切なのか、私にも難しくてね。君が精霊を解き放って、キレイサッパリに除去したのさ。正気を取り戻した彼等には後遺症もない」

「私、そんなことをしたんですか……?」


 愕然と、震える唇でマイアは問う。


「やはり、覚えてないか……」


 案の定といった反応で、レアは目を伏せた。


「で、でも」

「ん?」

「今、言われてなんとなくですが……気を失った直後に変な感覚があった気がするんです」

「ほう。それはどんな」


 興味深そうにレアが唸る。

 マイアは、記憶を無理矢理掘り起こそうと頭を働かせる。が、その反動からなのか、徐々に呼吸が浅くなり苦しげに呻く。シーツを強く握り締めて、立てた膝に顔を埋めた。


「無理するな。無意識化の海に眠る脳の記憶を掘り起こすのは、かなり負担がかかる。ゆっくりでいい、曖昧でいい。私なら君の言葉を理解してやれるから」


 小さく頷いて、マイアは青ざめた顔を上げた。数回、深呼吸を繰り返すと、ほどなく落ち着きを取り戻せた。マイアは、意を決したように言葉を紡ぎ出す。


「私の力については皆さんご存知なんですよね?」

「まあ、大体な。とはいっても、感応力に優れるという情報だけで詳細は知らんが」

「……物心ついた頃から、なんとなくですが、私には人のオーラのようなものが視認できるんです」

「オーラ? それは、マナや精霊とは違うのか?」


 精霊は能力者のマナと大気中のマナとの結合物。上位の能力者であればそういった特別な“眼”を持つ事例も確認されているが、マイアが視えているものはまた別種らしい。


「感情の揺らぎというべきでしょうか。その人が今、どういった気持ちでいるのかが、様々な色の波動になって現れるんです。濃ければより強い感情だったり、薄ければその逆……といったように」

「だとすると、能力者が精霊を発動する前段階で判別がつく、というわけか」


 精霊を生み出す行為というのは、少なからず気持ちが昂るもの。そこには怒りや悲しみ、慈しみ憎しみといった精神部分が大きく起因する。特に様々な精霊使いが集うこの現代では、他者の感情が視える能力を生まれ持っているのは確かに稀少ではある。


「しかし……意図せずして視えるというのは邪魔ではないか?」

「はい。だから最初は嫌でした。笑顔で話してくれていても、オーラの色は濁っていたりすると怖かったです。私の親はいませんでしたから、周りが気味悪がったんでしょうね。孤児院に入れられたのはそういった経緯です」


 自嘲気味にマイアが笑う。

 もし自分の本心が的確に言い当てられでもすれば、気持ち悪さを通り越して恐怖すら感じてしまうだろう。だから、誰もがマイアを奇異の目で見て、側に置いていたくなかったに違いない。


「しばらくして、陽の精霊使いから誘いを受けたんです。この嫌いな力が世界の為に役立てる――そう言われて、私は素直に従いました」


 後天的に精霊使いの素質に目覚めた者は、否応なしに本人や家族に少なからず影響を与えてしまう。受け入れられないケースだって往々にしてある。向こうの世界でも、精霊使いの存在すら知らない地域が多く点在する。

 そんな彼等の心を救うスカウトの常套句に感化されて、精霊使いとしての道を歩み始める者は大半を占めていた。


「でも――」


 そう否定して言葉を切ったマイアの表情が陰りを帯びる。


「里に入ってずっと修行していましたが、一向にコントロールする技術は身に付きませんでした。前例のない特異な能力をどう扱えばいいのか、里の皆も困っていたようです。仕方がないんですが」


 さしものレアも返答に窮した。

 あまりに特殊な事例だ。

 六属性総てにはテーマがあるように、精霊の能力には誰しもそのルールに従う。陽なら『光』だ。光とは希望そのもの。その為、現代の陽の精霊使いは医療機関に携わるケースが多い。

 そのトップであるレアにでも理解不能。マイアはまるで、精霊使いではなく、超能力者の類だ。


「なのに、大人側は無責任にも君を転移することに決めたのか」

「今思えば、あれがきっかけだったんでしょう」

「あれ、とは?」


 レアの形のいい片眉が上がる。


「一度、里にいたときに今回と同じようなことがありました。その人は正常な状態でしたが、お役目上、精霊を駆使していたせいかマナ残量が減少していた。そのときです、私がその人に同調してしまったのは」

「同調って……他人との精神のリンクのことか?」

「はい」


 淀みなく、マイアは肯定した。


「シンクロして、どちらともいえない溶け合う感じでしょうか」


 愕然として、言葉も出ないレア。


「私が体験して思ったのは、対象と私が同等のマナ量になったときに同期しやすいのではないのかと」

「いやはや、ちょっと想像がつかんな」


 苦笑交じりにレアは頭を掻く。


「……まあ、気持ちのいいものじゃありませんから」

「……はぁ。私が分かるのは、ソイツがかなり危険な能力だっていうことだけだな」

「里の人もそう判断したんだと思います。それ以降、私の扱いはより慎重になりました。幽閉に近い形で、外界から閉ざされました」


 マイアは自分の身体を抱きしめた。

 今口にしたことで、嫌な思い出が鮮明に蘇ってきた。陽の里は天空に近い、それこそ太陽光を燦々と浴びる台地にある。なのに、自分は暗い洞窟に隔離され、ずっと修行していた。

 寒くて、寂しくて、辛くて。

 どうして自分だけがこんな目に――という嘆きは何度も繰り返した。


「成程な。先天的にこれほどの能力を有していれば、マスターも匿いたくなるか」


 何度も頷きながら、レアは厳しい目つきで警告する。


「だが、そんなことをすれば脳が焼き切れることになるぞ。医者として忠告するなら、使用は控えるべきだろうな」

「……それが出来るなら苦労しません」


 頬を膨らませるマイアに、レアは苦笑する。

 レアの心配はもっともだ。マイアにしたって、こんな能力は正直手に余る。しかし、自分がこちらに来た意味を考えると、どうすればいいのか分からないのだ。


「ま、安静にしていたまえ」

「せ、先生」


 ベッドから腰を上げたレアに、マイアは慌てて呼び止めた。


「ん?」

「私を狙った人たちは、この能力に気付いているんですよね?」

「そういうことだな。しかも我々よりもずっと前から」

「なら、里の関係者……とか」

「ふむ。もしかして、心当たりがあるのか?」

「……いえ。単なる思い付きです」

「事件に参加する気か? なら、我々に任せておけばいいんだよ」

「ですが――」


 無理するな、とレアはマイアの肩に手を置く。

 しおれた花のような表情を見せるマイアを見て、やれやれとばかりにレアは歩き出し、病室のドアの前で立ち止まる。

 そして。

 誰に言うまでもなく、まるで独り言のように呟く。


「知識欲というのは、人にだけ許された機能だ。そして勇気がいる。引き換えに代償を伴うものならば、尚更な。欲望と知る覚悟――それに従うか、川のように流されるままに生きるか……。それは当人次第だよ」


 レアらしい科学者ならではの言葉。

 病室を出ていく彼女の背中を、マイアは見つめることしかできない。




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