第十話 襲撃の夜
医療班に話を通し、マイアを退院させた織笠は彼女を連れて自分の家に戻った。
外傷こそないものの、メンタル面の不安からまだ安静にするべきでは、と医療班のスタッフからは当初外出を渋られてしまった。織笠としても想定外の事態だし、スタッフの判断も至極真っ当なもの。やはり二、三日様子を見るべきかと考え直したところで、意外にもマイア本人から外に出たいと申し出た。面食らった一同だったが、環境を変えることが精神ケアに繋がる場合もある。しばらく通院する約束で、許可が下りたのだった。
「着いたよ。ここが俺の家だ」
「…………」
「そして今日から君の新しい住まいになる」
「…………」
織笠の自宅は、何の変哲もないよくあるタイプの一軒家。それを見上げて、マイアはあんぐりと口を上げながら呆けていた。
「どうしたの? そんなに珍しくもないと思うんだけど」
「いえ、あの、その……」
どこか上の空な返事に織笠の口元が緩む。
精保に出てからというもの、マイアはずっとこんな調子だった。
向こうの世界での自然豊かな景色とも、ストレイ区画の荒涼とした空間とも違う。大都市の爛然とした街並みは彼女にとって衝撃だったのだろう。初めて乗る車から見える、人の多さと精霊ホログラムを介したビル群。めまぐるしく変わる情報の数々に脳の処理が追い付いていないのだ。彼女にはいきなり刺激が強かったかと心配にもなったが、血色の薄い彼女がどこか高揚していたのがなんとなく伝わってきたから安心した。物静かでどこか理知的な雰囲気を持っていても、その辺りは年相応の少女に見えた。
「ほら、上がって」
織笠は玄関の鍵を開け、マイアを招き入れる。
「遠慮しなくていいよ。さ、どうぞ」
「……本当にいいんですか?」
「もちろん」
織笠は優しく言って、恐縮するマイアの背中を押す。
現在、この家には織笠一人しか住んでいない。
一年前まで親と同居していたのだが、両親は仕事の関係で県外に引っ越している。
そこにはあの事件が大きく関わっていた。
通称――“伊邪那美の継承者”事件。
人工的に二属性持ちの精霊使いを生み出す実験が、前・マスターの指示の元、秘密裏に行われていた。織笠の両親はその実験の研究者として重要なポジションを担っていたのだ。結果から言えば実験は失敗し、多くの命が無駄に失われてしまうことになった。良心の呵責に耐えかねた織笠の両親は、奇跡的に成功した検体を連れ脱走。その後、実の子のように育てながら、マスターの目から逃れるように暮らしていた。
だが、一年前の事件によって全て露呈。前・マスターは失脚し、織笠零治も自身の秘密を知ることとなった。事件後、丸く収まったように
他のマスターが彼等の処分を不問にしたのだ。
何とも後味の悪い事件だったが、織笠は既に両親共に和解している。彼等もまた精霊使いの為に、今度は多くの命を救うことを望み、研究者の道に戻ることになった。現在はマナ調整の新薬開発に勤しんでいるようだ。ちなみに、マイアを預かることは了承済みだ。
「お、お邪魔します……」
恐る恐る玄関に足を踏み入れたマイアは、その瞬間、大きな瞳をさらに開かせて、ふわぁと小声ながら驚嘆の声を漏らす。
どこにでもあるようなリビングなのだが、何かに惹かれるように進んだ彼女は興奮を隠しきれない様子で歩き回る。特に食いついたのは電化製品の類。調理家電や、テレビを見ては「何ですか、これは」と度々質問してくる。織笠も面倒くさがることもなく、一つ一つ説明していった。対し、興味津々といった表情で頷くマイア。小動物チックな動きが可笑しくて吹き出しながらも、彼女ならちゃんと適応できそうだと密かに安堵する。
「こ、この世界では皆さんこれが普通なのですか?」
「そうだね。君もすぐ慣れるさ」
「そっそ、そうでしょうか……」
「なぁに、君と同じように向こうの世界から来た精霊使いはいっぱいいるんだ。さ、二階に行こう。君の部屋はそこにしようと思っている」
「は、はい!」
二階は三部屋あり、角部屋が織笠の自室になっている。その隣をマイアの部屋にあてがうことにしていた。三人家族では部屋が余っているのもあり、普段は物置にしているのだが、今朝方急いで片付けたのだ。
「ここ……ですか?」
「ははは、ゴメン。さすがに来客用の家具は無くってね」
どこかで期待していたのだろうか、殺風景な空間を前に肩を落とすマイア。
「片付けるだけで手一杯で。君専用のベッドとか日用品は、これから買い揃えようと思ってたんだ」
「私……専用」
「そ、君の好みでね。さっそく行くかい?」
何度も小刻みに頷くマイア。
表情豊かな方ではないものの、好奇心はどうやら旺盛らしい。
とりあえずはなんとかなりそうか、と階段を降りたところでマイアがボソッと言ってきた。
「あの」
「ん?」
「これから私ここに住むんですよね?」
「うん。えっと……やっぱり嫌、かな?」
途端に表情に
やはり、新生活に不安を感じているのだろうか。勿論あるだろうし、しかもまだ知り合って間もない男との同居。こちらとしては最大限のサポートはするつもりだ。だが彼女も繊細な年頃。内心ではやはり嫌なのかもしれない。ここまで拒む素振りはなかったから、てっきり安心してしまっていたのだが。
と、織笠の思考がぐるぐると駆け巡っていると。
「だったら、織笠さん。私のこと名前で呼んでください」
「へ?」
思わず目を丸くする織笠。
「さっきから私を“君”としか呼んでいません。これから一緒に住むのによそよそしいのは変です」
「えっと、それは……」
意外な言葉に織笠は動揺。織笠としてもこんな少女と接する機会は少ないので距離感を測りかねていたところだった。
「マイアで構いませんから」
「いいのかい? 正直、そこまで信用されるのも驚きというか」
「はい。貴方は、あの人たちのように私を悪いことに利用するとは思えませんので。それはなんとなく纏ってるマナで感じます」
織笠は困った様に頬を掻く。
織笠には無論、そんな意思はない。しかし、あのマスター代行の考えは謎だ。その真意を探るべく、あの男の命に従いながら共に生活するという点では彼女を利用していると言えなくもない。
「分かったよ。じゃ、俺もレイジでいいから」
「それは嫌です」
「なんで!?」
思わず腰が砕けそうになる織笠。対してマイアは、悪戯っぽく小さく微笑みながら「よろしくお願いします」と囁くように呟いた。
ホームセンターで一通りの生活品を買いそろえた頃には、すっかり陽が落ちていた。自宅から注文すれば簡単なのだが、マイアに東京を案内する目的もかねて、敢えて割と遠くのホームセンターを選んだ。彼女も都会の景色を堪能したのか、終始感動した様子だった。
「楽しかったかい?」
織笠は助手席に座るマイアに声をかけた。
街に夜の帳が降りれば、精霊がここぞとばかりに真価を発揮する。爛然と輝くホログラムがまさにそれだ。高層ビル群に空間投影された平面スクリーンが様々な色彩を生み出して街中を染める。
マイアは助手席で、首都高から高速を流れるそんな景色に夢中になっていた。
「え、あ、はい」
少し恥ずかしそうに肩をすぼませるマイア。表情が豊かとは言えない彼女が、ここでも色々な商品を前に質問攻めしてくる様はほっこりする。特にお気に入りだったのが電化製品の類だ。精霊が機能面にどんな影響を与えているのか、店員の説明を食い入るように聞いていた。
(生活面はこれでなんとかなりそうだな。あとは――)
問題は彼女の服装か。今の白いワンピース姿は向こうから来ていたものだろう。姉妹のいない織笠には女性の、とりわけ女の子の服のセンスなんぞ皆無だ。ここはアイサやユリカにお願いするしかない。
「それにしてもすみません」
「ん?」
マイアが姿勢を戻して織笠を見上げる。
「何から何まで支払ってもらって。こちらの物価は分かりませんが、きっと安くありませんよね」
「気にしなくていいよ。これも仕事として事前に貰ったお金を使っているだけだから」
支度金を用意したのは他ならぬマスター代行だ。正直、自分の給料でどうにかなるのだが、そもそもは彼の命令だ。変に意固地になっても仕方がないし、ここは有り難く頂戴することにした。
「仕事……ですか」
「?」
唐突に声を沈ませてマイアがうつむく。
「ん? どうかした?」
「私は……これからどうすればいいのでしょう?」
呟きに混じるのは、迷いだった。
「マイア?」
「今日、こうやって色々見せてもらって、こちらの世界がとても素晴らしいものだと知りました。精霊使いの人たちが努力し、高い文明に適応することで、こんなにも美しい社会が形成されていくなんて感動しました」
たった半日でそこまで理解したのか、と織笠は瞠目する。
思えば、テレビや街頭モニターに映る芸能人、ホームセンターの店員など彼女の目に触れた人々は全て精霊使いだった。
街を見て、人を観察して。マイアは視界に飛び込む情報に驚きながらも、この幼い身体に全部吸収しようとしていたのだ。年齢以上の高い知能を備えている上に、そもそも感受性も強いのだろう。
まだ何も知らない彼女にはどれも眩しく映ったはずだ。
だからこそ自分自身の在り方に疑問が生じたに違いない。
「それじゃあ、私がこちらに来た意味ってなんなんだろうって、考えてしまったんです」
「マイア……」
織笠はハンドルから手を離し、自動航行モードに切り替える。
完全オートによる走行性能が年々上がっている現在、機械に運転を任せた方が遥かに楽になっている。安全性も当然向上したため、昔は多くあった事故や違反は極端に減った。
「それは……今、答えが必要かい?」
コクリと、マイアが小さく頷く。
生きる意味というのは、ある種の極論だ。彼女は大人の都合でこちらの世界に飛ばされてきただけ。まだこんな年代で考えることでもないとは思うのだが、彼女は真剣だ。織笠は真摯に受け止め、ちゃんと答えることにした。
そうだね……と織笠は慎重に口を開く。
「その答えは俺からは言えない。どうして欲しいか……今伝えることも出来るけれど、やっぱりマイア自身が決めるべきだと思ってる。君がここで生活する中で、いずれ見つけて欲しいかな」
「…………」
マスター代行の命令はある。だが、未来を決めるのはあくまでマイアだ。彼女はまだ少女。この先の選択肢はいくらでもあるのだから。
「意外と意地悪ですね。ヒントぐらいくれても」
「うーん」
横目に睨みながら軽く頬を膨らませるマイア。織笠は笑みを漏らす。
「もっと言うと、君がこの世界で精霊をどう扱いたいか、だよ。精霊は使い方次第で善にも悪にもなる。刃物みたいなものさ。便利だけど、ちょっとしたきっかけでそれが暴力にも成りえる。そういった危うい力を操れるっていう自覚は持たないといけない」
織笠は遠い目付きで東京の夜景を眺めた。脳裏に刻まれた懐かしい記憶。まだインジェクターになる以前、アイサが教えてくれた精霊使いの本質だ。
「まぁ、偉そうに言っても、完全に受け売りなんだけどね」
「…………」
マイアはその大きな瞳を閉じた。まるで静かに眠りについたように深く背もたれにもたれかかって、しばらく言葉を発さなかった。織笠の言葉を深く刻み込むかのように。
「焦ることはない。じっくり考えて決断すればいいさ」
自分でも随分背伸びした助言だな、と気恥ずかしくなりながら自動航行モード解除してハンドルをそっと握った。
しばらくして、隣の席から微かな寝息が聞こえてきた。横目に見れば、いつの間にかマイアが眠っていた。彼女にとっては激動の一日だった。余程疲れてしまったのだろう。自宅までまだ少し距離がある。このまま静かに寝かせておくことにした。
(さて……)
ハイウェイを走行していた織笠の車が、市街地に降りた。都心部を少し離れれば、あの煌びやかなネオンも数が減って穏やかな街に変わる。渋滞もなく、そのまま登録したルートに従えばおよそ二〇分ぐらいで家に着く。
だが、織笠は最短ルートを使わずに脇道に移動。特段、寄り道をする用事もない。出来れば、マイアを早く寝室に連れて行きたいとさえ思っていた。
(尾けられているのか……?)
鋭い目つきでバックミラーを確認する織笠。
ホームセンターにいた辺りから、妙な視線は感じていた。
敵意のようなものは感じられないが、ねっとりしたまとわりつく感覚が常にあった。しかも複数。それは外に出ても続き、軽く探ってみたが正体は掴めない。それから、一定の距離を保ちながら付いてきているが、マナを隠しきれない点から考えて素人の精霊使いだろう。
ようやく確信が持てたのは首都高を降りたときだ。グレーのライトバンがぎりぎり視界に捉えられる形で追ってきている。運転席と助手席に一人ずつ。後部席は暗くて正確には掴めないが、人影のようなものがある。
「ん……」
微かな吐息混じりに、マイアが目を覚ました。
出来れば彼女が寝ている間に済ませたかったが。こうなっては仕方がない。
「どうかしたんですか? 顔が……怖いですけど」
「ん……ちょっとごめんよ」
こちらに何の用があるのか知らないが、自宅まで来られるのはまずい。織笠は湾岸方面まで誘導して、海近くの旧道で停車させた。ややあって、グレーのライトバンも織笠の車の後方に停まる。
「織笠さん……?」
不穏な気配を感じ取ったマイアが、震える声で織笠を呼びかける。
この辺りは何年も前に海水面の上昇によって水没した土地が多くあり、実質通行禁止区域となっている。なので街灯も既に機能しておらず、ほぼ闇夜の状態だ。暗がりの車内で不安そうに見上げるマイアに「ここで待ってて」と優しく言って、織笠は車から降りた。
「――出てこい」
マイアの時とは真逆の、低く唸るような声で織笠はライトバンの前に立つ。
呼びかけた直後、車内から続々と男たちが姿を現した。数は三人。スーツを着たビジネスマン風の男もいれば、ラフな格好をした金髪の少年もいる。これといって共通点は見当たらない。
「何の用だ?」
そう呼びかけても、返事は無し。ふらふらと、やけに緩慢な動作で近づいてきながら、ぼそぼそとうわ言のようにビジネスマン風の男が何かを呟いている。
「楽……園……」
「何?」
織笠が眉をひそめる。
「女神を……」
「精霊使いの楽園の為に……」
他の二人も同様の言葉を口にしている。
薬物でも使用しているのだろうか。間違いなくこちらに歩いてきながらも、瞳の焦点が合っていない。只事ではない様子に織笠は身構える。念のために携帯しておいたE.A.Wに手を触れようとした、その瞬間。
後部座席にいた男が右腕を高く掲げた。年齢は二人の中間といった作業服の男だ。そして、広げた手のひらから水の渦が噴き出す。
「ッ!?」
水はやがて凝固し氷と変化。鋭い槍の穂先のような形状になったところで、男は腕を鞭のようにしならせ勢いよく発射させた。
明確な攻撃意識。
織笠はE.A.W――
束の間、立ち昇る煙を突き破って今度はビジネスマン風の男と金髪の少年が猛然と迫りくる。
「チィッ!」
二人が織笠を挟み込んで、同時に殴りかかってくる。ただ、格闘慣れしている動きではなく、隙だらけだった。織笠は簡単にいなしていく。
チンピラよりも劣る彼等は風貌から見ても犯罪者とも思えず、こちらを襲う意図が掴めない。大振りになった拳をしゃがんでかわすと、互いに殴り合ってしまう始末だ。まともにダメージを受けてふらつく二人を蹴り飛ばして、織笠は一旦離れた。
「いい加減にしろ、お前等!」
怒声を発するも、男たちは無視。いや、耳に届いているのかさえ怪しい。茫洋とした表情と行動が伴っていないのだ。
「女神を……楽園に……」
「未来……永劫……」
二人の男が精霊を解き放つ。ビジネスマン風の男は風を、金髪の少年は炎を腕に巻きつけながら再度突進を仕掛けてきた。精霊を暴力に使う方法としては最も初歩的な技術。純度も低い。
これまでとてつもなく危険な犯罪者と対峙してきた織笠には取るに足らない相手。そう判断しても、格下には油断せず、織笠はまずビジネスマン風の男に狙いを絞る。懐に潜り込んで右ひじを腹部に突き刺す。すぐさま回し蹴りをお見舞いし、ガードレールに叩きつけた。勢いそのままに、反対方向にいる金髪の少年の背後へ瞬時に移動。足をすくって浮かし、思いっきりアスファルトへ踏みつぶす。
「ぐぼっ!」
大量の唾液をまき散らし、白目を剥く金髪の少年。
これで二人。
残るは――と、織笠は振り返ることもせず引き金を引く。火力を集中させるため巨大化させていた氷塊を貫いて、銃弾が作業服の男の胸元に直撃。数メートル先の道路まで吹き飛んでいった。
「……ふぅ」
男たちを無力化して、織笠は一息つく。そして、周囲を見渡しながら訝しげに呟く。
「一体、なんなんだコイツ等……」
突然の襲撃者。自分たちを長い間つけ狙っていた部分から考えても、強盗の可能性は低い。何か目的があるには違いないのだが、気になるのは男たちの様子だ。どこか虚ろで精神の支障をきたしていた。さらに、しきりに呟いていた謎の言葉も引っかかる。
(とりあえずは、報告しないとな)
E.A.Wを腰元にしまい、精保に連絡しようと携帯端末を取り出した。
その瞬間。
「織笠さん!」
それは悲鳴だった。
声の主は、車の中で待っている筈のマイアのものだ。ハッとして、振り返る。
車の側にはマイアと、彼女を背後から拘束している見知らぬ男。
織笠よりも身長が高く、年齢も恐らく上。闇夜の溶け込むような全身黒づくめの出で立ち。細身ながら、その下には鍛えられた筋肉が浮かび上がっている。何よりも剣呑さをまとった鋭い眼光。
瞬時に理解出来た。今までの三人とはあからさまに違う、まるで軍人か傭兵の類が持つ危険な匂い。
「何者だ。コイツ等の仲間か」
「正解。だが、さすがの英雄も私の存在には気付かなんだか」
微かな笑みを含ませ、男は言った。
思わず舌打ちをする織笠。迂闊だった。もう一人残っていたのか。しかも、戦闘中だったとはいえ気配を悟らせずマイアに近付くなんて芸当、やはり只者じゃない。高い資質を持った風の精霊使いか何かだろうか。
「私は楽園よりの使者。此度はこうして女神を迎えに来たのだ」
楽園。女神。今そこで倒れている三人も口にした言葉だ。
「織笠さん……」
怯えながら、か細い声を出すマイア。恐怖に身を竦ませる彼女に一つ頷き、沸き上がる怒りを押さえつけながら織笠は男を睨む。
「彼女を離してもらおうか。お前たちの目的は知らないが、その子はこちらの保護下にある」
「それは出来ぬ相談だ、インジェクター。いくら貴様があの混沌を鎮めた英雄とはいえ、願いは受け入れられぬ。この少女は我等が統治する楽園に必要不可欠なマスターキーなのだ」
自分の存在を知っている。
一般人なら精保に所属する人間を覚える必要はない。知識として精保をマークするのは、裏稼業に属する精霊使いなものだろう。
――ということは。
「……そうか。マイア誘拐の実行犯に指示を出していたのはお前等か」
「左様。仲介役である剣崎が捕縛された今、我等が出なければならなくなった。剣崎も決して脆弱ではないが、さすがはインジェクターだ」
喉を鳴らして、男は笑う。
「だとしたら、あの晩船が来なかったのも……」
「我があの場にいたからだ」
即答する男。
「政府最強の番犬。その警戒網をかいくぐって合図を送るのは非常に難儀だったぞ」
「……なるほどな」
納得しつつも、男の隠密スキルの高さに歯噛みする織笠。あの晩、誰もこの男の存在に気づけなかった。同時に、疑問が頭をもたげる。
「どうして隠れる必要がある? 引き渡しならば剣崎と一緒にいればよかっただろう」
「剣崎は我の存在をそもそも知らない。我は保険だ。危険性が高い仕事には貴様らが必ず現れるからな」
苦しげにマイアが呻く。男の腕に、より力が加わったからだ。
織笠に次第に焦りが生まれてくる。
「いいからまずはその子を解放しろ。こちらの指示に従わない場合、強硬手段に出る」
「安心するがいい、織笠零治よ。女神に乱暴などするはずもない。丁重に扱うが、これからしばらく我慢をしてもらうようになるが」
そうして、男は指でマイアの顎を持ち上げる。今にも泣きだしそうに瞳を潤ませる彼女を覗き込んで、興味深そうに言った。
「しかし、運命とは奇妙よな。銀色の髪は奇跡と言っていい神の御業。かの女帝と瓜二つ。それがまたこうして再現されるとは」
今度はマイアの髪にそっと触れ、弄ぶように梳いていく。「いや、やめ……」と、もう声にもならないほど微かな叫びが、マイアから漏れる。
「ただ、かの女帝は、この地を理想郷へと生まれ変わらせようとしたようだが、実に愚かなり。精霊使いが過去の栄光を取り戻すには、理想などに想いを馳せるだけでは足りぬ。人の意思決定は人にあらず。強烈な統合意識が必要なのだ。故に、女帝の行いは無駄だった。無意味だったのだ。……そうは思わぬか、織笠零治よ」
「貴様ぁァァァ!!」
理性が吹き飛ぶ。
織笠にとって、久しく無かった感情の爆発。
それは何も、マイアへの行為だけではない。
かつて敵として、だが、その奥に隠された悲しみを背負って現実に抗い、それでも戦わねばならなかった彼女――織笠にとってはもう一人の自分ともいえる幻影への侮辱。
怒りがまるで可視化されるように、陽と闇の精霊が渦となって荒れ狂う。老朽化が著しいアスファルトには亀裂が入り、穏やかだった海面までもが波打つ。
「さすが精保が誇る、呪われし英雄。数々の死線をくぐり抜けた人間はここまで成長するか。見事なものよ」
男は驚嘆しながら、強引にマイアの手を引く。
「貴様の力が如何ほどか興味は惹かれるが、今は本来の目的に専念しよう」
「う……!」
マイアが抗うも、少女の腕力では男の腕は振りほどけない。抵抗お構いなしに、男はゆっくり後ずさろうとする。
「嫌!」
「ふむ。暴れられると我も安全に連れ帰るのは困難。下手すれば首の骨を折ってしまうかもしれぬ」
そう言って、男はマイアの口元を塞ぐ。必死に暴れていたマイアだったが、突然ぐったりとしてしまう。睡眠薬のようなものを嗅がされたのだろう。意識を失っている。
「マイア!!」
マイアを小脇に抱え、男が背を向ける。
「逃がすか!」
「織笠零治よ。我の目的は貴様と戦うことにあらず。それに――」
男は首だけ振り向かせ、唇の端を持ち上げた。
「戦う相手はまだそこにいる」
男の視線は織笠に向けられていない。異変を察知した織笠が、周囲を確認する。
そこには、先程倒したはずの三人の男たちが立ち上がっていた。
「な……」
驚愕に染まる織笠。
確実に仕留めた感覚はあった。気絶させるため多少の手加減はしたものの、本来なら二、三日は目覚めないはずだ。
注視してみれば傷口はあるものの、痛がる素振りもない。ぼんやりとした表情そのままだ。痛覚が遮断でもされているのか。
「本来あるべき精霊使いの姿。真なる力を引き出せば、精霊使いはここまで進化するということだ」
織笠を取り囲んだ男たちが一斉に精霊を発現。炎や風、氷の塊がみるみる大きくなっていく。それを一度に放たれれば、織笠には逃げ道はない。
「く……!」
まずい、織笠がそう思った直後だった。
男たちの身体から赤い霧が吹く。織笠は驚きに目を剥くが、それが鮮血なのは容易に想像がついた。
マナの暴走。自分の能力を限界以上に引き出そうとすれば身体に支障をきたす。血液中のマナが暴れ、血管を突き破ったのだ。
おおよそ、彼等は精霊使いとしては並の素質。日常生活の範囲でしか精霊を扱ってこなかったのだろう。
だが、それでも彼等は精霊を解除しようとはしなかった。
(やっぱり、自我が失われているのか……?)
繊細な精霊は粗末に扱えば報いを受ける。精霊使いの常識を破っても、彼等の反応は薄い。推測できるのは、洗脳の類でも受けている可能性だ。
「さて、どうする? 織笠零治よ」
「貴様……!」
このままでは彼等は自滅する。しかし、織笠がこれ以上攻撃しようものなら一般人の彼等もただでは済まない。織笠に躊躇いが生じる。
「我はここで失礼するとしよう。さらばだ、インジェクター」
「待て!!」
「フハハハハハハハ!」
男は高らかに笑う。
そのときだった。
男の下腹部あたりから光が溢れたのは。
ただ、その光は彼自身が放出しているのではなかった。
「な……!?」
見下ろした先で、男は絶句する。
抱きかかえていた少女が、目を覚ましていた。
あまりの驚きに男の力が緩んだ。そのまま地面に叩きつけられるはずのマイアが、まるで重力を失ったようにふわりとそのまま膝をつく。
明らかな異変。
ぐったりとしたまま、しばらく動かなかった彼女がゆっくり顔を上げる。
光彩を失ったマイアの大きな瞳からは、感情というものが消えていた。ただ、男たちのそれとは異質。彼女が纏う白い光も、穏やかで柔らかい。
「マイ……ア……」
織笠が呆然と彼女の名を呼ぶ。
何が起こったのか。マイアから放たれる光が、精霊なのは間違いない。陽の属性である神々しさだけが、ひしひしと伝わってくる。
そして。
その光が、輝きを一層強くした。視界を一瞬にして奪うほどの眩い光の奔流。東京の片隅で、ひっそりとした闇夜がどこまでも白く照らす。
やがて光は収まり、織笠は塞いでいた目をゆっくり開ける。直接的に浴びたせいもあって、視界はチカチカしていた。が、それも無くなると元の暗い車道を映していた。
「なん……だったんだ……」
織笠が呟く。すると、どこからか呻き声のようなものが耳に入った。
「う……」
「こ、ここは……」
「俺は一体……」
織笠が周りを見渡すと、男たちが困惑しながら立ち尽くしていた。自我を取り戻したのか、表情には生気も戻っている。
「正気に戻った……のか……?」
苦しみだしたのはその直後だ。脳から寸断されていた痛覚が正常に機能し始めたようだった。激痛に呻き、瞬く間に今度は本当の気絶をしてしまった。
「これが、女神の力か……」
黒衣の男が歓喜に震える。とはいえ、男は至近距離でマイアの光をまともに喰らっていた。視界は戻り切っていない。その隙を狙って、織笠が間合いを詰める。
「白雷!!」
不意打ち気味に取り出した織笠のもう一つのE.A.W――
振りかぶった剣が稲妻を呼ぶ。鳥類を思わせる鳴き声が轟きながら、アスファルトを粉砕した。
「ぐッ!!」
黒衣の男は反射的に後方へ跳び退く。織笠はそこから追撃をかけようとはしなかった。手放したマイアを抱き締め、男から距離を取った。
「マイア!」
腕の中で強く呼びかけてみたが、応答は無し。また意識を失ってしまったようだ。薬のせいか、力を急激に使ったせいか。いずれにせよ、早く精保まで連れて行かねば。
「ぬ……」
黒衣の男がよろけてひざまずく。直撃していないとはいえ、白雷の威力は天災の雷に酷似している。かすっただけでもただでは済まない。
「仕方があるまい。……一度、ここは引くとしよう」
苦しそうに顔を歪ませて男は呻く。
「我の名はザルツ。呪われた英雄よ、また会いまみえよう」
そう言い残して、ザルツは霧と化していく。小さな粒子が風にさらわれ、海の向こうへと流されていく。あとには静けさだけが取り残された。
「逃げられた……か」
あっさりとした引き際にいささか疑問は抱くものの、ひとまずは安堵する織笠。まずは連絡、と織笠は精保に報告して護送車両を手配。到着の後、自分もマイアを自身の車に乗せて精保に向かう。
最中、ガラス越しに見える夜の海はどこまでも黒く、果てしなかった。
まるで今回のマイア然り、彼女を狙う連中の謎が深まるのを投影しているとばかりに。
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