異常音
蛙鳴未明
異常音に関する備忘録
これは備忘録であり、証言でない。証言とするにはあまりにも情報が欠けている。しかし、これを読んだものが危険を感じてくれればそれでいい。聞くな、祈れ。
従弟の家を訪れた。かつては田舎の祖父の家で、夏中遊ぶ仲だった。サワガニ、ザリガニ、虫、イワナ、山でとれるものは全てとり、ツチノコ探しに興じたこともある。祖父が亡くなってからはとんと合っていないが、泥だらけの山芋を抱えてツチノコだと言い張る真面目くさった顔を思い出して酒のあてにすることはよくある。かく言う私もただの平たい石を河童の皿だと言い張っていたので同じ穴のムジナだが。しかし数十年経って、ムジナの間にも大差が開いた。彼は開業医、私は三流サラリーマンである。
聞き及んでいた通り、彼の家は広かった。敷地の一角には蔵まである。見栄えがいいからと新造したらしい。たいした見栄っ張りである。奥さんに部屋をひとつひとつ丁寧に紹介されている内に日は暮れ、酒宴となった。従弟は上機嫌で杯をどんどん空けていく。聞けば娘さんは春から東大に通っているらしい。それは上機嫌になろうというものだ。帰省しているというので、会ってみたいと言うと、不意に彼の機嫌に影が差した。
「娘はねぇ……」
それっきり酒を飲む機械になってしまった。奥さんによれば、近頃娘さんの帰りが遅く、従弟はご立腹だそう。
「遅いったって九時十時よ? そんなに気にしなくってもねえ」
「気にするだろう。年端もいかない娘だぞ!」
従弟、数分ぶりの発声であった。
「年端もいかないったってもう大学生だろう? 怒るほどじゃあ……」
「大学生なんて子供だ! まだまだ小児科通いだ!」
「学生の時は遅くなるもんよ。私だって」
「俺は今あの子の話をしているんだ。だいたい――」
さらなるヒートアップを一瞬覚悟した。が、従弟は唐突に眉をひそめ、振り返って壁を睨む。
「どうした?」
「いや、ネズミがな……」
「最近ネズミが壁にいるってうるさいんですよこの人! そんなことある訳ないのにねえ」
「壁ネズミとはまた……疲れてんのか?」
従弟は酒を空け、寝る、とだけ言って席を立った。宴はお開きである。
貸してもらった布団に潜り込んだが、眠気はいっこうにやってこなかった。妙に目が冴えていた。暗闇のなか、天井のシミを数えようと目を凝らしていると、人の気配を感じた。暗い戸口に女性が立っていた。
「おじさん、はじめまして」
なるほど、二人の娘だった。顔も雰囲気もよく似ている。彼女は暗闇をかき分け、私の枕元に屈みこむ。
「ごめんね、こんな遅くに」
「いったいどういう了見だい。電気もつけずにおじさん呼ばわりとは」
「おじさんに見てもらいたいものがあって。機械に強いでしょ?」
ぼう、と闇に四角い長方形が浮かび上がる。それを支える彼女の顔はうかがい知れない。
「いつの間にかスマホに変なファイルがあってさ」
txtでもdatでもない、見たこともない拡張子のそれを、彼女は躊躇なく叩いた。情報リテラシーは落第である。画面に文字がずらりと並んだ。よく見ると、ウィルスソフトにありがちな脅迫文ではない。
「おじさんならこれの意味分かるかなって」
メモはこう始まっていた。
「これは備忘録。そして証言――」
※※※
これは備忘録。そして証言。私をとりまくこの狂った状況がどうやって現れたのか、それを整理する場。あとすこしで、すっかり私はおかしくなってしまいそうだから、そうなる前に今、私自身を振り返っておきたいんだ。
彼氏ができ、成績もよく、サークルでも頼りにされる――そんな薔薇色のキャンパスライフに影が差したのは、ある熱帯夜のことだった。本当に小さな影だった。ただの違和感に過ぎなかった。あの時はそれが私の生活を一変させてしまうとは、夢にも思わなかった。
七月の終わり、私は未完成のレポートに向かっていた。私としたことが、課題の提出期限を勘違いしていたのだ。キーボードを叩く音だけが蒸し暑い部屋を埋めていた。隣で付き合ってくれていた彼氏はもう、ソファにもたれて船をこいでいた。やっと一段落してちょっと伸びをした拍子にできたわずかな静寂。それに混じった微かな――本当に微かな違和感。はじめは彼氏のいびきかと思った。随分控えめないびきをして、やっぱり可愛いなこの人、なんて微笑んだ。しかし、寝顔をよく見ようと身を乗り出すと、音が遠ざかる。妙に思って聞き耳を立てた。私と彼氏以外に、音を出すようなものはこの部屋にない。どうやら隣室から聞こえてくるようだった。
ソファのある壁にそっと耳を寄せると、雑音がはっきりと形をとる。ひっかくような、叩くような、変わった音。オノマトペで言うならカリカリ、コツといったところ。隣人が意図して立てているにしては小さすぎる気がした。しかし、何かの拍子に鳴るとも思えない奇妙さも持っていた。事故的に鳴っているなら、こんな一か所から連続して聞こえるのは変な気がした。その正体を探ろうと、いっそう耳を壁にくっつけ、神経を集中させていた私は、突然の声に文字通り飛び上がりそうになった。振り返ると、彼氏が怪訝そうに私を見ていた。
「なにしてんの?」
言葉が繰り返された。客観的に見て自分がいかに変な格好をしているかに気付いた
私は、慌てて元のしおらしい体育座りに戻って、変な音がして、とかなんとか言ったはずだ。すると彼は眉をひそめて数秒黙り、首を傾げた。
「めっちゃ静かだけど、ここ」
もう一度耳を澄ますと、あの音は消えていた。あの、霧の一粒のような違和感も綺麗さっぱり消えていた。
「気のせいだったのかな。確かに聞いたと思ったんだけど……」
「気のせいでしょ、深夜だし。それより課題は大丈夫なの」
大丈夫じゃなかった。時計の針は零時を回っていて、その日、私は初めて課題を提出し損ねた。遅れて提出すれば大丈夫さ、大したことじゃない、と彼氏は慰めてくれたけど、私にとっては結構ショックで、上の空のまま彼を結構邪険に扱ってしまったかもしれない。あの日以来の若干の冷え込みが今に繋がっているなら、私はもっとあの音を恨まなきゃいけないだろう。もうすっかり、恨みゲージは満タンだけど。なんで私がこんな目に、その思いでいっぱいだ。答えを出すためにも、振り返りを続ける。
再びそれを聞いたのは三日後、バイトから帰ってきた夜だった。はじめの音より、すこしだけ大きくなっていたように思う。音の正体が気になって仕方が無かった私は、化粧落としの手を止めて壁に張り付いた。やっぱり、ひっかくような叩くような奇妙な音。それが不規則な間隔で連続している。さっぱり正体が分からない。隣人説から始まって、小動物が壁に住んでるんじゃないか、まで考えが発展してしまったあたりで、不意にそれは途切れた。時刻は零時を過ぎていた。私は化粧落としを終え、ベッドに入ったものの、音の正体が気になって気になって、結局まんじりともせずに朝を迎えた。思えばあれは、私があの音に憑りつかれた、いわば初期症状のようなものだったのかもしれない。
次にあの音が鳴るのはいつだろう。それで頭がいっぱいになってしまった私は、日中の授業をノートもとらずにぼーっと聞き流し、そのままぼーっと帰路に着いて、気付けば家に着いていた。荷物を下ろし、一通り家事を済ませながらその日の夕飯を考えていたあたりで、またあの音を聞いたように思う。その時私は驚いて、多分ちょっと飛び上がったと思う。音が鳴るとすれば日付が変わるあたりだろうと、勝手に決めつけてしまっていたのだ。音は小さかったけど、壁に張り付かないでも息を殺せばかたちを捉えられるくらいには大きくなっていた。
私は耳を澄ませ、その音に法則がないかを検討したけど、それは無駄に終わった。音は短い間隔で鳴ることもあれば、忘れた頃のしゃっくりみたいに唐突な間で鳴ることもあり、まったくとらえどころがなかった。それが止んで十分経ち、私がようやく時計を見上げた時、夏の太陽はもう随分前に沈んでいた。その晩、私は初めて夕飯をカップラーメンで済ませた。なぜか食欲がなかった。
次の日も私は音のことを考えて過ごした。サークルはいつもよりうまくいかなかった。イングリッシュスピーキングソサエティのはずが、あまり会話が弾まないまま終わってしまった。ため息を吐きながら大学を出て、彼氏を呼んだ。彼はすぐに来てくれて、私を慰めてくれた。終始優しかったけど、私が「音が気になって仕方ないだよね」と言うと、途端に眉をひそめた。
「音って、前の晩聞いたっていう?」
「うん。壁をこするような、ひっかくような変な音なんだ。その正体が気になってたまらないの。多分、隣の部屋からだと思うんだけど」
「苦情入れなよ」
「どこに?」
「隣の人に」
「それはちょっとやりすぎじゃない?」
「でも、困ってんだろ?」
「困ってるわけじゃ……ただ、音の正体が気になるだけで――」
「そのせいでサークル上手くいかなかったんだろ? 十分困ってるよ。苦情入れなよ」
「でも、これは私が勝手にぼーっとしちゃってるだけで……隣の人が音を立ててるのかも分からないし、だから私は音の正体が知りたい訳で……」
「音の正体知ってなんになるの?」
「分かんないけど、苦情っていうのはやりすぎじゃ――もうちょっと穏便に……」
「別に直接文句をいう訳じゃない。管理会社に言えばいい。夜中隣から変な音がするんですって」
「でも――」
「でもっていっても――」
それからの喧嘩は思い出したくもない。最後に仲直りはしたものの、互いにむすっとした顔でカフェを出て、歩道の両端を歩いた。
その晩もまた、音を聞いた。音量を絞ったテレビに混じって転がってきた。迷わず私は壁に耳を寄せる。鼓膜を撫でる感触が、どこか心地よく感じた。追っていたドラマは背景になってしまった。私は静かに眼を閉じて、カリカリコツ、というそれに一心に聞き入っていた。そのうちにふと、気が付いた。音は単に大きくなってるんじゃない。近付いてきているんだ。壁を掘り進むように、隣室から私の方へと、近付いてきているんだ、と。
得体のしれない音が壁を進んできているなんて、普通怯えるべきところだ。でも、彼氏との喧嘩のせいか、その時の私はなぜか音への愛おしさでいっぱいになって、壁に耳をもっと押し付けた。あの時から私は、常軌の逸した世界に首を突っ込んでしまったんだろう。壁の音はなかなか止まず、気付けば私は眠っていた。なにか夢を見ていたはずだけど、中身を思い出せない。もしかしたら今はその夢の続きなのかもしれない。そうであって欲しい。けれど、いくらつねっても頬は痛いままだし、この身体の震えも本物なのだ。
土曜日、音は朝から鳴った。気付くとカリカリコツ、と連続していて、しばらくそれに聞き入るけれど、やがてどうでもよくなって目を瞑る。するといつの間にか消えている。忘れた頃にまた、カリカリコツと聞こえてくる。それは目に聞いた音より、確実に大きくなっている……。いずれ音が壁を越えた時、見えるであろうその正体に思いを巡らせているうちに、日はすっかり傾いていた。米もパンもパスタもないことに気が付いて、コンビニにでも行こうと腰を上げた。上着を羽織ってサンダルをつっかけ部屋を出る。私の部屋は201号室だった。隣のくすんだ緑の扉は神秘を湛えて、西日にてらてらと光沢を見せていた。自分の名前を呼ばれて我に返った時、私は隣室のノブに手を伸ばしかけていた。階段の下から、彼氏が不機嫌な顔で問いかけた。
「何してんのさ」
「ちょっとコンビニ行こうと思って……」
「今、隣の部屋に入ろうとしてなかった?」
そう言われたとき、私の心臓はきゅうっと縮んだ。立ち入り禁止の場所で遊んでいたのを見られたかのようだった。そんなことないよ、と言いながら二、三歩後ずさった私の身体は隣室のドアに軽くぶつかった。隣に何があるのかを知られてはいけないと、無意識に考えていたのかもしれない。隣室にあるなにかを、私が守らなきゃいけないと、信じ込まされていたのかもしれない。今思い返せば愚かなことだけど、その時は必死だった。なんでもないを繰り返して、口のなかがカラカラに乾いた。彼氏の顔は心配に変わった。
「大丈夫? 昨日より変だよ。隣の部屋になんかあるの?」
何も答えなかった私の核心に、彼は鋭く斬り込んだ。
「音?」
うなずかなかったけれど、硬直した私の全身は、彼に頷いたも同然だったろう。彼氏の顔はまた険しくなった。
「音なんだね。まったくもう――」
ずんずんと階段を上ってくる彼を見ながら、私はただ隣室の扉に張り付くことしかできなかった。彼は私を簡単に引きはがし、赤い陽に照らされて碧く見える扉を叩いた。
「ちょっと何すんの」
「苦情を入れるんだよ――おーい出てこい! あんたがうるさいせいで彼女が困ってんだよ」
「別にうるさいわけじゃ――」
「困ってることには変わりないだろ――」
「困ってるわけでも――」
「はっきり言って今君は変だ。おかしくなっちまってる。心配なんだよ。おーい、誰もいないのか!」
彼氏は諦めて手を下ろし、携帯電話を取り出した。
「何するの」
「見ての通りだ。電話するんだよえーっと管理会社の番号は――」
そんなことしなくていいって、と何度も言ったけど、彼氏は聞き耳を持たず、電話は通じてしまった。隣室から変な音がして困ってる、という彼氏の言葉を否定したかったけど、柵にもたれたまま金縛りにあったようになって何もできず、ただ彼氏の背中を眺めるしかできなかった。管理会社の人は困惑しているようだった。
「えーと、お客様、もう一度お聞かせ願えますか?」
電話越し、微かな男性の声。彼氏はさっきの話を忠実に繰り返す。しばしの沈黙の後、首をひねっているのが伝わるような唸り声。
「あのー、お客様。何か勘違いなさっていませんか?」
「勘違いって、何が」
「件の202号室、空室なんですよ」
「空室……空室? そんなはずないですよ。こっちは確かに聞いてるんです。困ってるんですよ」
「そうですか。うーん、考えられるのは動物が巣を作っているとか、あるいは中でなにか破損しているか……ただそちらのアパートでそういうことが起こるとは思えないんですよねえ……ま、私共の方で確認させていただきます」
挨拶もそこそこに電話は切れた。ツー、ツーという無機質な音をぶら下げて、彼氏は私へ振り返る。
「確かに聞いたんだよね?」
「私が嘘吐いたことあった?」
彼氏は額に手を置いて唸った。
「どういうことなんだ、まったく」
それを知りたくて、私は「おかしくなっちまって」いたのだった。分かんないよ、と呟いた時、彼氏の手は隣室のドアノブに乗っていた。
「何するつもり?」
「何って、決まってるだろ。中に何があるのか見るんだよ」
黄昏時に青く沈んだ彼の表情は
「そんなのだめだよ」
「なんでだめなんだい? 君も音の正体を知りたがってたじゃないか」
「そうだけど、こんなやり方じゃ――」
私の言葉が終わらないうちにノブが回った。奇妙なことに、鍵はかかっていなかった。錆びついた耳障りな音を立てて扉が開く。何の変哲もない、ごくありふれた玄関の暗さがそこにあった。扉を見た時に感じた不気味さも神秘性も、すっかり剥げ落ちてしまったようだった。彼氏は躊躇なく中へ入っていく。引き留めようとしたけど力で負けて引き摺られる。私たちの足跡は、うっすらと積もった埃を舞い上げていく。襖に彼氏の手がかかる。何かが起こる、そんな気がした。私の制止の叫びもむなしく、襖は開け放たれた。
なにもなかった。驚くほどなんの変哲もない部屋だった。見慣れた六畳間。一面を占める窓と小さなベランダ。ものの全くない薄ら寒さ以外は、私の部屋と何ら変わりない。彼氏はそろそろと部屋へ足を踏み入れながら、困惑しているようだった。きょろきょろとあたりを見回し、目瞬きを繰り返す。
「なんもないじゃないか。ほんとにここから聞こえて来たのか?」
「うん」
と返しながら、私も困惑していた。壁は染み一つなくまっさらだった。その向こうにある私の部屋の壁を、そのまま持ってきて貼り付けたようだった。音の聞こえてきたあたりの壁を撫でてみた。くぼみも傷もなく、硬いざらざらとした感触があるばかり。すこし叩いてみても、健全な硬い音しか返ってこない。あの音のひとかけらすら、そこにはなかった。
部屋を出て、私と彼氏は顔を見合わせた。言いにくそうに彼氏が口を開く。
「あのさ、疑う訳じゃないけど――」
「聞こえた。確かに隣から聞こえたのよ」
「でも部屋には――」
「聞いた、本当に聞いたのよ」
震えた自分の声は自分のものじゃないみたいだった。私は、その時初めて音への恐れを抱いた。最近の私は、何もかも私らしくないということに、ようやく思い至ったのだった。私なら絶対時間通りに課題を提出するし、カップ麺で満足するなんてありえない。私が行くと、サークルはいつも盛り上がった。今まで一度だって彼氏と喧嘩なんてしなかった。数年ぶりに涙が湧いて、私は彼氏の顔を見上げた。てっきり眉間に皺を寄せていると思っていたけれど、彼は反対に眉を下げ、落ち着きなく視線を彷徨わせていた。怯えていたのだ。いつも優しく、時には厳しく、常に背筋を伸ばしていた彼が。
「ねえ、何が起こってるの?」
彼は視線を逸らして階段を下りていった。なにかあったら連絡して、と思い出したように言って、街燈の影を跨いで消えた。夜は随分濃くなっていた。まとわりつくようなその重みに耐え切れなくなって、私は膝を着いた。しばらく泣いた。自転車のライトに気が付いて、泣くのをやめた。他の住人が帰ってきたのだ。こんなところを見られたらなにか変な勘繰りをされる、そういえば私は何をしようと外へ出たんだっけ、と考えて、ようやく夕飯のことを思い出した。立ち上がろうとした時、さび付いた音を聞いた。
振り返って息をのんだ。扉がゆっくりと開きつつあった。こちらを招き入れるようにゆっくりと、内側へ。月光に照らされてぬらりと光っていた。あの扉が内開きだったか外開きだったか思い出せない。私の部屋は外開きだった。彼氏は扉を引いて隣室へ入っていったような気がする。でもあの時、確かに扉は内側へ開いた。これも記憶のまやかしかもしれない。色々なことが分からなくなってしまったけど、その光景だけはくっきりと眼に焼きついている。満月の明かりが差し込んで、隣室の床を照らした。うっすらと積もったほこりが月光にその縁を銀色に輝かせて、今にも浮き上がりそうだった。そこに私たちの足跡はなかった。
気付けば私は布団を被って震えていた。暗闇のなか、ベッドの感触は曖昧で、ここが本当に私の部屋なのか、それともあの202号室の隅なのか、分からないことが余計怖くて、私の震えは止まらなかった。とても暑かった。昼間の酷暑はまだ部屋に滞留していた。私の全身を滝のように汗が流れていたけれど、それでも私は布団から出られなかった。布団から顔を出した時、あの薄ら寒いがらんどうの部屋が広がっていたらどうしよう――頭の中をそればかりがぐるぐると回って、もうどうしようもなかった。
あの時ほどあの奇妙な音に救われたことは無かっただろうし、喜びと同時に嫌悪を抱いたこともなかっただろう。それから、今でも、これからもずっと、私はあの音へ嫌悪しか抱いていないのだから。
私はそろそろと布団を持ち上げた。あの音がはっきりとかたちをとった。右の壁から、トランペットよりも明朗に、カリカリコツと響いていた。私が隣の部屋にいるなら、あの慣れ親しんだ方角から音が聞こえるはずがない。間違いなく私の部屋だと確信した時、喜びが嫌悪に勝って、私は布団から飛び出した。確かに私の部屋だった。パソコンも、テレビも、いつもの場所に置いてあったし、枕元にはアザラシのぬいぐるみがいた。
「私の部屋だ、私の部屋だ!」
何度も繰り返し言いながら、私は床が抜けそうな勢いでホップステップジャンプを決めて、隣室の壁へ擦り寄った。頬擦りまでしたかどうか。考えたくないけど、多分したと思う。擦りむけるくらいの頬擦りを。音が繰り返されるたび、心臓がギャロップした。過呼吸のようになって、何度も繰り返しぬるい空気を吸ううち、ふと私は冷静になった。私は何をしてるんだろう。音の大きさを意識した。もうほとんどくぐもっていなくて、薄皮二、三枚隔てた向こうには、発信源があるように思えた。音は繰り返す度に着実にボリュームを上げていく。
迫っているのだ、この壁紙の向こうから。
そう認識した瞬間、私の息は止まってしまった。身体は硬直していた。指先一本動かせず、次第に苦しさが増していくなか、私はただ、音の響いてくる点を凝視していた。えたいのしれない誰かにひたひたと迫られていることに気が付いた時、すぐに大声を上げて逃げられる人はきっと少ない。逃げるには切っ掛けが必要だ。けれど切っ掛けは私の部屋に落ちていなかった。音は繰り返す。一定間隔で、じわじわと近付いてくる。束ねた糸を鋏で切るように、層をひとつひとつ押し砕き、ゆっくりと最後の一本へと迫っていく。目がかすんでいく。喉が空気を求めて痙攣する。それでも私は何もできずに、白い壁を見つめていた。
音が止んだ。痛いほどの静寂のなかで、壁が黙ってほろりと崩れた。小指の直径ほどもない小さな穴に、この世の闇が全て詰まっているようだった。カリカリコツ、と音が繰り返す。それは大聖堂の鐘のように鮮明だった。壁がさらに崩れ、穴が直径を増した。次に私が聞いたのは自分の絶叫だった。アザラシのぬいぐるみが壁に激突した。パソコンがそれに続いた。手の届く限りのモノをありったけ、がむしゃらに放り投げながら、私は部屋を飛び出した。
無我夢中で彼氏の家に駆け込んだ。彼氏は怯え、時折震えながらも、私の血まみれの素足を手当して、卵スープを作ってくれた。すこし胡椒がきき過ぎていたけれど、それは私を芯から温めてくれた。流れる汗はべたつかず、どこか爽快感があった。熱帯夜なことも忘れて私は彼氏のコートに包まり、束の間のまどろみに落ちた。
目を覚ますと、彼氏がキッチンで食器を洗っていた。きっと水の流れる音で起きたのだろう。ぼうっとしていると、彼が私の起床に気が付き、水を持ってきてくれた。
「おはよ。大丈夫?」
大丈夫、と答えて微笑んだ。微かな違和感を覚えた。気のせいと言うことにして水を飲もうとしたその時、聞いてしまった。カリカリコツ。もう一度大きくカリカリコツ。息が苦しくなる。視界が狭くなる。取り落としたグラスが割れて飛び散るのが、二千光年も離れた星での出来事のように見えた。彼氏に抱きかかえられて、私は呼吸を取り戻す。彼氏が呼ぶ私の名前は、膨張する異常音に完全に覆い隠されて、あの時、私はもう私を思い出せなくなっていた。俺のことが分かるか、と言われても、目の前にいる男が何者なのか、さっぱり分からなかった。知識を引き出そうとする私の手を音が押さえて離さない。今もあの人の名前を思い出せない。誰の名前も思い出せない。全てをあの音が塗り潰している。飛行機の騒音のような異常音が轟いている。書いているうちは少し和らぐ、ような気がする。多分ただの気のせいだけど、無いよりマシだ。思い出すのを続けることにする。
どこまで書いたか。そう、彼氏の家でもあの音を聞いたのだった。私はブリキの人形みたいにぎこちなく、右側の壁を見た。カリカリコツ、繰り返す。目を見開き、口も半開きになっていたと思う。彼氏は必死に私の身体を揺さぶった。
「どうしたの!? 壁に何かあるの!?」
「聞こえないの? あの音……壁の向こうから……」
「聞こえないよ! 全然! さっぱり!」
「そんなはずない。聞こえるよ。かりかり、こつ。かりかり、こつって――」
「意味が――意味が分からないよ。なにがあったんだよ……」
なんでそんなにおかしくなっちゃったんだよ、と彼は吐息のように呟いたけど、それに気をとられている暇はなかった。音が大きさを増す速度は、私の記憶よりはるかに大きかった。私は自分でも驚くほど力強く彼氏の腕を振り払って立ち上がった。
「ちょ――何すんだよ!?」
「音……音が……」
それで精一杯だったし、それ以上言う時間もなくなった。壁に小さな穴が開いたのだ。澄んだ音色が教会の鐘のように響いた。それに私の悲鳴が重なった。一歩ごとに足に刺さる痛みを悲鳴で打ち消し、私は走った。引き留めようとする彼氏の声が透き通り、失われていった。もうどこに行けばいいか分からなくて、私は駅に向かって走った。とにかく遠くへ行けばなんとかなるような気がして、その藁にもならない希望にしがみついてもがいた。 二、三度転んだし、一度は車に轢かれそうになったけど、止まる訳にはいかなかった。止まればあの音に追いつかれてしまう。追いつかれたときにどうなるかは知らない。でも、身の毛もよだつような酷い目に合うだろうことは本能で確信していたから。
何度も電車を乗り継ぐうちに、故郷への列車に乗っていた。座席の隅で震えていた。震えのあまり意識が胸から飛び出してしまいそうで、ずっと自分を抱えてうずくまっていた。寒かった。人の気配を感じなかった。電車は小刻みに浮き沈みを繰り返す。それがまるでゆりかごのようで、私は束の間まどろんだ。夢の中で、私は母の腕に抱かれていた。別に赤ん坊に戻ったわけではないけれど、すっぽりと母の中に納まっていた。母は子守歌を歌っていた。
ねんねんころり、おころりよ、寝ないと卒塔婆が突き刺さる
ねんねんころり、おころりよ。寝れば天狗が攫ってく
物騒な歌だね、と言ったら、あらそうかしらと母は首を傾げた。
「孫に教えてもらったのに」
「孫って誰よ」
「知らないけどたしか――」
母の舌が割れた。小さな穴が開いていた。底が見えないほど暗く、真っ黒な穴だった。それは母の舌をぼろぼろと崩して広がっていく。母の口から、ひっかくような、擦るような音が聞こえた。
私は飛び起きた。全身がしとどに濡れていた。耳鳴りに混じって鮮明にあの音を聞く。私の顔の映った窓に、小さなヒビが入っていた。私は転ぶように立ち上がった。再び音が響く。穴が開いたと、振り返らなくても分かった。足を震わせながら、私は前方の車両へと逃げた。連結部分でまたあの音を聞いた。後ろ手に閉じる扉の引き手に穴が開いたのが分かった。私は手をひっこめ、よろめき、無我夢中で先頭車両へ走った。網棚から、窓から、手摺から、座席から。音はどの場所からでも関係なく、澄んだ音色を繰り返す。私は半狂乱になって扉を叩いた。電車が止まると同時に飛び出した。雨が降っていた。ラジオのノイズのような雨音の隙間から、あの音が聞こえた。耳を押さえ、目をつむり、走り続けた。それでも音はやまなかった。
実家の表札に書いてある名前が、どれも読めなかった。それでも実家と分かったのは、今時珍しい蔵のおかげだ。鍵も財布もどこかへ落としてしまっていた。インターホンを押しかけて、嫌な予感に指を引っ込めた。押すと同時にあの音が聞こえるんじゃないか。どくん、どくんと心臓が鳴る。私は深呼吸し、半ば覚悟しながらインターホンを押した。ピンポン、驚くほど平凡だ。実際私は驚いた。同時に詰まった息を吐き出した。やっと安全な場所に辿りつけた気がした。はーい、と懐かしい母の声。近付いてくるぱたぱたという足音。あと二秒もすれば扉が開き、私は実家へ迎え入れられるだろう。そうすれば、何もかもが普通に戻る気がした。気がしただけだった。私はあの音を聞いた。自分の頭蓋骨を擦り、ひっかき、叩く音だった。顔を出した母に、蔵に入れてと叫んだ。厚い壁があれば厚い壁があれば私は私以外を守れる。
今、私は蔵のなかでこれを書いている。さっき鼓膜を破ったら音はやんだ。でも、また聞こえ始めてる。多分もう、頭蓋骨の半分は崩れてる、そんな気がする。私を突き抜けたら、この音はどこへ行くんだろう。私で終わりならいいな、いいなと思う。そしてあんなアパートはすぐに潰れろ。音の正体は最後まで分からない。でも覚えておいて欲しいのは、どこにでもあるような平凡な壁から聞こえたってこと。多分、これを呼んでる人の家にも、あるとおもう、そういうカベ。気を付けて。これはちゅういかんきで、いしょ。ちがでてる。ぬるい。たくさんでてる。こうなっちゃだめ。たぶんあれがわるかたいのらなきゃいののののうみこぼれれれてえええ
あまい
※※※
夜の静寂が鼓膜に刺さってくるようだった。それを破るべく、私は顔を上げる。
「これを読んで何を言えばいいんだい」
「別に」
彼女の声は背後から聞こえた。一瞬心臓が止まるかと思ったが、なんてことはない。ただ集中して読んでいるうちに彼女が位置を変えた、それだけのことだ。
「ひとに読ませておいて『別に』ってのは無いだろう。どうせこれは隠れて書いてる小説かなんかだ、そうだろ。感想が欲しかったりしないのか」
「いらないよ」
生暖かい吐息が耳に触れて、全身があわだった。目瞬き一つで、彼女は入ってきたときと同じように戸口に立っていた。スマホの光が彼女の手にぶら下げられていた。
「違うのか、じゃあ私になにをしてほしかったんだ?」
「祈ればいいんじゃないかな、私に」
スマホの光をなびかせて、彼女はいなくなった。訳が分からず、私はしばらく布団から身を起こした体制のまま固まっていた。ありとあらゆる可能性を考えた結果、彼女はきっと泥酔していたのだろうという結論に達した。メモの文章と彼女のイメージは結びつかなかったし、きっとそうだろう。そう、自分に思い込ませるように考えて布団をかけ直したが、暗闇を見つめたまま私はさっぱり眠れなかった。
夜明け前の群青がカーテンの隙間から差し込んできた頃、ふと違和感を覚えた。静寂に何かが混ざっている気がする。隣室の壁を擦るような、ひっかくような、そんな振動があるような――いてもたってもいられず、私はトイレに立った。やたらと長い暗闇を、フローリングをぺたぺたと鳴らして帰る。ふと思う。あの子の頭蓋が三分の一ほどズレていたりはしなかっただろうか。
部屋に帰ってからは悪夢ばかり見た。私は昼前にやっと起き出した。枕元に豆腐の欠片のようなピンクが落ちていた。珈琲を挽いている従弟に見せると、彼はこともなげに脳髄だね、と言って手を速めた。そういえば彼の名前を覚えていないことに、私は今更気が付いた。
異常音 蛙鳴未明 @ttyy
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