ただいま

 時刻は夜だった。ぼんやりと花屋の前で立ちすくむ年配のスーツ姿の男性に誰も気づいていなかった。そしてその当の本人すら、自分が今何故ここに立っているのか判らない様子だった。キョロキョロと心細さを顔に貼り付けてあたりを見回している。

 

 花屋の軒先は色とりどりの花で溢れていて人々の目を楽しませていたが、その男性の心はさして高揚することはなかった。むしろ、胸の奥がざわざわとして、不安が大きくなっていく心地だった。

 

 その時、紫色の小さな花が咲いた陶器の鉢植えの脇から一匹の茶トラの猫が彷徨い出て、男の足元から不思議そうに見上げた。そして誘うようにゆらりと尻尾を揺らす。男の方もその猫の方をじっと見つめて、やがて決心したようにゆっくりとその後について歩いた。

 

 大きな通りを避けるようにして歩く猫の少し後ろを男はゆっくり追いかけた。細い路地や公園を抜けて静かな住宅街に差し掛かる。やがて、明かりの消えた一軒の家の前で立ち止まった。

 

 男はその家をじっと見つめた。茶トラは男を促すように、足をくいっと押した。男は自然なようすで門扉の内側のかんぬきを上から手を差し入れて外す。キィと小さな音を立てて開いた。

 

 その時、茶トラがミャアと鳴いた。

 振り返った男の手には、いつの間にか小さな花束が握られていた。男が感謝を伝えるようにじっと見つめると、茶トラの猫は座って尻尾をぱたんと振った。それを合図に、男は閉まりきったままの玄関の扉に溶けるように消えていく。

 

 茶トラはしばらくその扉をじっと見つめていたが、やがて起き上がると夜に紛れていった。

 

 *

 

「なんや、迷い人かいな」

 

「ふーん。ならワシが案内したるわ。付いといで」

 

「ああ、そっちの道はやめとき。こっちや」

 

「ここやな」

 

「なんか忘れてへんか? なんであの店に居ったんや?」

 

「じゃぁな。ちゃんと『ただいま』言うて帰るんやで」


 了

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