とくべつな名前
白夜の季節もそろそろ終わり。主神様の寝所には夕暮れのような橙色の光が斜めに差し込み、寝台に座るあの方の姿を黒く形どっていました。
「主神様。美の神が参りました。」
「よく来たね。
……何か、私に聞きたいことはないか?」
なるほど、わざわざ私的な場所に呼び出したのは、慣れない精霊とのやり取りで色々と疑問に思っているだろう私を慮ってのことでした。
やはり、主神様は優しい方です。
「あります。主神様はリンのお名前を呼んでいましたね。」
「……覚えていたんだね。」
「主神様はリンをご存じだったのですか?」
「ああ、私の精霊、ウェルの
ウェル。昼の大精霊のことでしょう。
お名前を教えてくださるということは、私に彼女の力も使っていいと許可してくださったのだと理解しました。
リンだけが名前を知られているのは不公平だと思われたのかもしれません。
「同源。元は同じ存在だった、ということでしょうか。
昼と夜の精霊に分かれる前に、一人の精霊だったと……
それで、主神様に従わないリンが分裂して、主神様のお名前を忘れて、別の精霊になった……?」
「もうそんな昔のことなど忘れてしまったよ。
君も、あの夜のことは早く忘れることだ。
音楽の精霊を消してしまって、地神に叱られただろう?」
その話をされると、心がチクリと痛むのですが。
私は少し困った顔をしてしまったあと、慌てて笑顔に戻しました。
「いえ、地神様は寛大に許してくださいました。
名を交わした精霊は一人じゃないから大丈夫なのですって。」
「……そうか。それなら良いんだが。」
主神様は何故か少し深呼吸のような小さい溜息をつき、それから私に微笑みを向けてくださいました。
「おいで。」
手招きされ、私は主神様の寝台に座りました。
隣に並んだ主神様が私の頭を撫でてくださいます。
その手が、す、と首元まで落ちてきました。
くすぐったい感じがして、ぴくりと肩が震えてしまいましたが、主神様は気にするふうではありませんでしたので、私はそのままじっとしていました。
「君には私が呼ぶための名前をあげよう。美の神、だけでは他の人たちと区別できないからね……。」
「それは、新しい神名ということですか?」
「いいや、神名はしっかりと力のある言葉であるべきだ。私の一存で決めていいものではない。
今から与えるのは、ただ、私が君を呼ぶための名前。
諱ではない、隠す必要はない。
むしろ君を特別にするために、皆の前でそれを呼びたい。」
ああ、今、なんと。
「私が、主神様の特別に……?」
「……そうだな、……ラインハルト、と呼ぼう。」
ラインハルト。意味は、純心です。
主神様は、私が二心なくお慕いしているのを、理解してくださっていたのです。
こんなに嬉しくて、幸せなことがあるでしょうか!
「ラインハルト……私の名前……」
顔が興奮で熱くなっているのが分かります。
油断すると嬉しくて泣いてしまいそうで、もう、どんな顔をしていいのか分かりません。
主神様は、私の首元から肩に手を移し、そっと抱きしめてくださいました。
「うつくしい子、私のラインハルト。君が生まれてきてくれて良かった。君は私のもとでこれからリンと共に私を支えてくれるね?」
「はい、主神様。」
ラインハルト。
そう呼ばれる度に、
私の魂が震えるようで。
主神様は両腕で抱きながら、
私に遠慮するように目を伏せて、
確かめるというよりすがりつく形で、
私の心を強く揺さぶってこられるのです。
「……主神様にはお名前はないのですか? 諱とか……」
あなたの一筋の光として。
今はもう奪われてしまったけれど、〈光の都〉の名の下に、
あなたの居場所になっても、いいですか。
しかし、主神様は悲しそうな顔になり、私を手放して黙ってしまいました。
それを見て、答えは言われなくても分かりました。
リンが、精霊が名を忘れてしまうくらいの何か。
逆奇跡、とでも呼べばいいのでしょうか。
世界に愛された彼にも、理不尽は降り掛かったのでしょう。
「……名前などないよ。私に名前など要らない。
君、とでもあなた、とでも呼べば良い。」
「そう、なのですね……」
言われなくても少し考えれば思い至りそうなものを。
私は自分の浅慮を恥じ、顔を伏せました。
「私が名前をお付けしてもいいですか?」
「やめてくれ!
私は名前には良い思い出がない。もう、捨てたんだよ。
ラインハルト、お前は特別だが、私と対等だとは思わないように。」
「はい……」
ああ、私は思い上がっていました。
あの主神様にこうまで言わせるとは。
そう、優しい方ではあるけれど、
心が満たされているわけではないのでした。
いえ、満たされていないからこそ、
小さな私などにすがるのでしょう。
それでも消沈している私を見て可哀想だと思ってくださったのか、主神様は再び笑顔で私を抱きしめてくださいました。
はあ、と主神様から溜息が聞こえます。
私を抱きしめる手が、そっと私の腕を、腰を、滑るように動きます。
「……ラインハルト。私にその命、捧げてくれるか?」
「……何を、なさるのですか?」
「今からお前を支配するのだよ。大丈夫、悪いようにはしない。私の特別になるための儀式……とでも思ってくれればいい。」
「それでしたら、喜んで。」
何をされるのかピンとは来ていませんでしたが、主神様の特別になれるなら何でも構いません。
私は嬉しくて、練習してきたものよりも大きな笑顔を主神様に披露してしまいました。
私は、主神様に貞操を捧げました。
それがそういう行為だと理解したのは、
幾日も、何度も寝所を訪れる私を見咎めた母に、
怒り狂いながら教えられたからですが。
「私はもう大人です。一人前の神です。
何が正しいか、何を大切にするか、
私なりの考えがあります。
母上といえど、私と主神様の間に口は挟ませません。」
私がまっすぐ母を見据えて反論するも、
彼女の耳には半分も届いていないようでした。
「どうしてお前はそんなにあいつのことを慕うの!?
お前はあいつに対抗できる力を持っているのよ。
言いなりになんかならず、きちんとあいつの所業を見なさい。
あいつがどれだけ……」
私達は所詮、神の座を与えられただけの人間です。
星の機構である精霊とは違うのです。
世界の管理者である主神様とも違うのです。
その違いを理解しておきながら、私を利用して、
主神様から管理者の座を奪おうとする馬鹿な女……。
「母上。主神様は私達の言葉を全て聞くことができます。
それを理解した上でのその発言ですか?
あなたの浅慮には呆れて物が言えません。」
「アウヅ……」
アウヅ、などと。
愛された大切な諱を、もはや両柱といえど無遠慮に呼んでほしくはありません。
私はもう、子供ではないのですから。
怒りを抑えることができず、私は母を睨みつけていました。
「私の名はラインハルトです。
主神様から名を頂いたのです。
金輪際、アウヅとは呼ばないでいただきたい。」
あの方が私を求めながら、何度も。
お前はうつくしいな、と。
お前は私のものだ、ラインハルト、と。
忘れるなよ、と。
私の耳元で、そう囁くのです。
「母上は、私をうつくしいと思いますか。」
「お前は、美の神よ。
どんなにあいつに汚されていようと、
世界で一番うつくしいわよ。」
「であれば、そのうつくしさも、あの方から頂いたのです。
私は幼い頃からあの方をお慕いしておりました。
私がうつくしいのは、あの方に恋をしているからです。
あの方に、うつくしくあれと願われているからです。
私は極北の泰平のために、あの方にお仕えし、
あの方にこの体を、この命を捧げる。
そのために存在しているのです。」
「アウヅ……」
「ラインハルト、と。次からは返事をいたしませんよ。」
睨めつける代わりに作り笑いをくれてやると、母は溜息をつきながら首を横に振りました。
「……アザレイに相談するわ。」
私は顔から血の気が引くのを感じました。
アザレイとは、武神である父の諱です。
「母上! 父上と主神様の仲を決定的に裂くおつもりですか!」
「仲を裂くようなことをしてきたのはあいつの方よ。」
「いいえ、私が求めたのです!!
あの方のおそばにいることを!
あの方の特別になることを!」
「アウヅ、まさかお前……」
「ラインハルトです!!」
埒が明きません。
私はリンを呼び出し母の背後を取らせました。
言葉を発さずとも意図するだけで動く精霊は、
今の母にとっては不気味な脅威でしかないでしょう。
「お前も、あいつに記憶を操作されているの?」
「えっ?」
突拍子もないことを母が言ってきたので、私は思わず面食らいました。
全く身に覚えがなく、何のことだか分かりません。
私が主神様をお慕いするのは、間違いなく私の意思です。
「あいつは私達の記憶を消すことができる。
その力を使って、私達はあいつに従わされているのよ。
私達は気づいたら長命種に作り変えられていて、
何故か誰も覚えていないあいつが、私達の上に立っていた。」
「それは……でも、無かったものをあったことにはできません。
私の今ある心を無かったことにはできても、このお慕いしている気持ちは、私のうちから出たものに違いないのです。」
「ええ、それはそうだと思うわ。
ただもしかしたら、あいつにとって都合のいい記憶だけを残されているのかもしれない。
だからお前は慕う気持ちしか認識できないのかもしれないのよ。」
「そんな……」
そんなことを言い出したら、
信じられるものなどないということになります。
信じられるものがないならば、
私は……。
「いいえ、それでも私は主神様にお仕えします。
あの方を信じられないとしても、
信じようとするのは勝手でしょう。
あの方が私をデザインしているのなら本望。
あの方が望む私でありたいとさえ思います。
私は、〈
私の強い想いが母に伝わったのか。
「……あいつにしては、良い名付けをしたわね。」
母は短く鋭い溜息をついて、諦めたように、呆れたように私に微笑みかけたのでした。
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