白と黒 〜 ルールは誰のものか 〜

文部科学省「生徒指導提要」の12年ぶりの改訂案が来月公開されるそうだ。小学校から高等学校まで生徒指導の手引きとなる「ルールブック」のようなもので、NHKの報道によれば(学校現場からの声ではなく)協力者会議の委員から「理不尽な校則(拘束?または人権侵害?)は学校が見直す努力が必要」との指摘を受けての(受け身の?)改訂だそうだ:


「校則は、制定の背景や見直し手続きを含めて、部外者の目にも触れるよう学校のホームページで公開することが適切であり、児童生徒が校則見直しに参加することに教育的な意義がある」「性的マイノリティとされる児童生徒への支援として、自分が認める性別の制服を着ることや、多目的トイレの利用を認める」


見直しの要点を読んでみて、こんな当たり前のことも今まではできてなかったことに改めて驚くとともに、「部外者」であることを免罪符にして国際的に見ても「異様で恥ずかしい状態」を放置してきたことを「主権者たる国民」の一人として申し訳なく思う。また、多年にわたり、色違いの下着を強制的に脱がせたり、ツーブロックっぽく見える髪型を強制的に排除したりと、「ルールを守ることを教える」ために「熱心すぎる指導」に励んできた「立派すぎた」先生方のことも少々心配になってきた。自らの指導研究ノート(仮にそのようなものがあるとして?)を「恥ずかしすぎる過去」として「墨塗り」するのか、「人権侵害の認識はなかった」とすっとぼけて嵐が過ぎ去るのをじっと待つのか、「当時はそれが社会の(?)ルールだった」と開き直るのか・・・(自分が当事者でなくて正直ホッとしている。)


與那覇潤が、白か黒か、賛成か反対か、善か悪か、といった二分法だけの「グラデーション(色合いの濃淡)のない社会」の危うさを論じていたが、いわゆる「統一教会問題」や(一部の思考停止状態の人々による神学的な?)「護憲・改憲論争」から、ほぼ全国民に関係するはずの「ブラック校則問題」に至るまで通底するものがありそうだ。


多様性を排除して、さらに「排除している事実」さえ認めようとしない(その一方で、一夜にして「白→黒」「黒→白」に全体主義国家のマスゲームのように瞬時に同期して変身することも強要するような)硬直化した社会に未来はないし、社会の担い手を育成する「教室」に「治外法権的無法地帯」を作ってはならない。いかに理不尽であっても「ルールはルールであるが故に守らせるべきだ」という倒錯した価値観が「学校での原体験」を通して一人一人に刷り込まれ社会全体に蔓延した結果、内閣官房での一連のスキャンダルから、国際的に「優良ではないが有名だった」大企業が数十年にわたって不正に手を染めてきたことが今頃になって発覚するというお粗末な不祥事の数々まで、「内部通報されることもなく立派に成就」したように思われてならない。


自分の過去を墨で塗りつぶして「なかったこと」にするのは、「昭和ひとけた」の私の父母の世代で終わりにしてほしいと思っていたのだが、残念ながら「2022年の瓦解」を経た令和の我々も「過去との決別」を強いられているようだ。潔く墨塗りをするか、白々しくすっとぼけるか、たくましく開き直るかは別として、「過去の延長線上に明るい未来はない」という認識は社会全体で共有すべき時だろう。「令和の民主主義」のルールは、それが校則であれ法律であれ、当事者が主体的に参加して「私たちのルール」として作り尊重できるものであってほしい。


墨塗りもみんなですれば怖くない?


2022.8.31

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