inclusive と exclusive

昔、海外を旅行していた頃、ホテルの料金表示で 「including breakfast & tax (朝食・税金込み)」 というフレーズを確認するとホッとしていた記憶がある。うっかり「excluding breakfast & tax (朝食・税金別)」の「見かけの金額」にだまされて予約してしまうと、チェックアウトの際、不必要に豪華な朝食代や税金(場合によっては高額のサービス料まで)も請求されて軽く予算をオーバーしてしまうからだ。


ビジネスの世界では、日本(またはアジア)の「総代理店(exclusive agent)」になれば、その地域の販売権を「独占」できるので(それなりの結果責任を伴うし、結果が出せなければ契約解除されてしまうのだが)一定期間「安心して」事業展開することができる。(裏返して考えると、競合他社を「排除」することによって得られる束の間の「安心感」ではあるのだが。)


近年、「social inclusion(社会的包摂)」が重要な概念として認識されるようになってきた。20世紀後半の欧州で「social exclusion(社会的排除)」が大きな問題になり、それに対するアンチテーゼとして現れた概念だそうだ。21世紀になって、日本でも社会的包摂の概念が専門家の間では明確に意識されるようになったのだが、自国を「気配り」と「おもてなし」のすごい国だと誤認しているうちに、国際的には「exclusiveな社会」を構築してしまったように思われる。


「自由(liberty)」や「民主主義(democracy)」を標榜する組織名も相変わらず人気なのだが、先進国標準で見たときに、さまざまな組織のガバナンスが「自由でも民主的でもない」ように感じられるのは素人の誤解だろうか。各種メディアで報じられるニュースによれば「排除」と「恫喝」と「忖度」のロジックが一定層に深く染み付いているようではある。


「exclusiveな組織」が「inclusiveな社会」の構築を目指すというブラック・ジョークのような論理を正当化するならば「democracy(民主政)」よりも「aristocracy(貴族政)」の方が優れているという暗黙のメッセージを発していることになるのかも知れない。そのような「雰囲気」あるいは「空気」が若者たちの「社会に対する諦め = 悟り?」を誘発しているとすればとても悲しいことである。


数学・論理学の世界では「inclusive OR(包含的OR)」と「exclusive OR(排他的 OR)」の概念があって、学校数学で教える「または」は「inclusive OR(少なくとも一方の意味)」なのであるが、家庭で「バナナまたはチョコレート」(exclusive ORの意味の「または」)を食べて良いと言われて両方とも食べてしまうと、しばしば気まずい事態が発生する。


日本語(日常語)の「または」が「inclusive OR」の意味になるのと、日本が「inclusiveな社会」になるのと、どちらが早いのだろうか。


2022.5.22

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