2.

「え、そんなことある?」

泰晴が身を乗り出して、目を丸くする。

翌朝。今日は花曇りといった空だ。心なしか、鋭の気分もどんよりしている。鋭は学校に来て早速、昨日の図書室の件を泰晴に話していたところだった。

「そうなんだよ。だから俺、ちょっとびっくりしちゃって…。なんか、女子の世界では普通なのかなって思って」

「いや、それ、その女子が変わってるだけだろ。普通、そんな初対面の奴にべらべらしゃべるって、なかなかないと思うけど。てか、同じクラスって言ってたよな。誰?」

「ヒガ…さん?って言ってた」

「ヒガさん?」

ひときわ大きい声を出した泰晴に、鋭は慌てて言った。

「え、知ってるの?」

「知ってるも何も、俺、中学一緒で、去年も同じクラスだったんだよ。あいつ、ちょっと変わってるんだよね」

泰晴が目を伏せて苦笑する。

「やっぱり…、変わってるんだな。どんな子だったの?」

「いや、あんま人としゃべってるの見たことない。なんか女子から敬遠されてた感じだったな…、ま、俺もなんだけど…。でも話したら普通に面白いし…。他には…あ、そうそう、真面目だった!だからだよ、ちょっと近寄りにくいだろ?」

そう言われてみれば確かに、真面目そうな人だったかもしれない。しかし鋭の第一印象は、『変な人』。それだけだ。昨日のような気まずい思いはあまりしたくない…。

「あ、噂をしたら。あいつだろ?」

泰晴が鋭に顔を寄せて、小声になる。鋭も彼女をちらっと見た。

目の周りに影をつくるくらいの長くて厚い前髪に、毛量多めのボブ。真面目というか、自分に似て、暗いような…。とりあえず、あまりしゃべりたくないかも…。

「でも、かわいい顔してるよな」

泰晴がつぶやいたが、鋭は返す言葉がなかった。

「そういえばさ、今日はいきなり小テストだろ?勉強した?」

泰晴が突然元の声に戻って、明るく言った。噂話はやめようと思ったのだろう。鋭も声のトーンを上げた。

「いや、全然してない。やばい、やばい」









昼休み。鋭は毎日の数学の演習課題を集める係で、黒板の前に置かれたみんなの課題を数えていた。

「今野くん!私がやりますよ!」

「あ、ヒガさん。じゃあ…。お願いします」

にこにこしてヒガが手を差し出す。断りきれなくて、鋭はその手に課題を預けた。

「えーと、3番の宇野さんと、19番の高瀬くんが出してないですね」

「もう締切間近だし、行っちゃう?」

鋭がそう言うと、ヒガは課題を抱きかかえて、

「待ちましょう!」

と意気込んだ。え、お腹すいた…、早く仕事終わらそうよ…。そんな鋭の思いが顔に出たのか、比賀は鋭の表情を見て少し困ったように笑った。

「あ、お腹すきました?お菓子持ってきたので、あとであげますね!」

───いや、多分そういうことじゃないと思う…。もしかして天然っていうやつか、この子!?鋭は、引きつってしまう口角をなんとかコントロールして最大のスマイルを見せる。

「いや、あの、いいよ…。ハハハ、え、えっと、3番と10…6番?あ、19番だったっけ、早く出してー!」

半ばやけくそになって、普段は出さないような大きい声が教室に響く。クラスのみんなが鋭を見た。それに気づいて鋭は我に返り、赤面してうつむいた。やがて、「ごめーん」と言いながら未提出者が課題を持ってくると、鋭は課題をヒガから奪うようにして、提出場所まで走って行った。

(やっぱヒガさんって、不思議な子だな…。不思議ちゃんって、俺苦手なのかも)

課題を出し終わって、教室までの道で、そんなことを考える。教室についた瞬間、

「今野くん、はい、お菓子!」

と、ヒガからクッキーを強引に握らされた。返答に困っていると、ヒガは学食の方へ走り去っていった。消えゆく彼女を見た鋭は、ため息をついた。初めて見るタイプの人…。

「鋭くーん!仕事お疲れさま!え、なにそのお菓子?おいしそー!」

いつの間にか泰晴が鋭の後ろに立っていた。「これ、ヒガさんからもらった…」

何か言ってくれることを期待したが、飢えた犬にはただの餌に見えたようだ。

「え!いいなー!俺も欲しい!帰りに買って帰ろ。あー、お腹すいた!弁当食おう、コン」

「…お前って、幸せだよな」

「え?」









「ただいまっ」と、誰もいない家に向かって、1人つぶやく。鋭は、ふらついた足取りで2階の自分の部屋に入った。そのままベッドに倒れ込むと、ボフッという間抜けな音がした。

今日も疲れた。まだ名前と顔が一致していない人と話すのは、人見知りな鋭にとってかなりの重労働なのである。しばらくうつ伏せになっていると、「ただいまー、鋭、いるんだろ?」という声が2階まで届いた。

「お帰り、父さん」

階段を降りると、玄関でスーパーの惣菜を抱えた父の姿があった。そんな父は、元気がない息子を見て笑ってみせた。

「鋭、今日はメシを作れそうにないから、お前の好きなかき揚げ買ってきたよ。ごめんな」

父の広(ひろ)は、御年49歳。忙しい仕事をしていて、しばしば家に帰ってこない。今日も、実に2日ぶりに会う。

鋭が一足先に台所で惣菜を開けていたら、広がやって来て、同じように夕飯の支度をし始めた。広がパックご飯をレンジに入れながら鋭に話しかける。

「鋭。学校、どんな感じなんだ」

「どうって…、別に」

「別にいいのか、悪いのか。まったく。最後まで言いなさい」

「…ぼちぼちです」

「なら、よかった」

それでその話は終わり、同時にパックご飯を温め始める。1つあたり、500ワットで2分。

「父さん、母さんとシンは元気?」

温めている間に、鋭がうつむきながら言った。広もレンジに向かってつぶやいた。

「ああ、どっちも元気だ。シンなんか、こないだ部活の練習試合で活躍したって聞いたぞ」

鋭の母の千冬(ちふゆ)と、鋭の2つ下の慎(しん)は、鋭が6歳になったときから、鋭たちと離れて暮らしている。理由は、『母さんの仕事が忙しいから』。おそらく、そのとき幼稚園生だった鋭に分かりやすく言った嘘だということは、10歳を超えた辺りから気がついていた。幼いが故に最初こそ毎日泣いていたが、小学校高学年にもなるとそれが普通の生活になった。しかし本当のことは今でも広が話そうとしない。ただ、離婚した訳ではないようで、春休みには家族4人でちょっと遠い道の駅まで買い物に行ったり、鋭と慎の2人でカラオケに行って歌ったりもした。

カラオケで何を歌ったか思い出していたら、レンジが鳴る。米のいい匂いがしてきた。


「いただきます」

「いただきます」

あれこれ話をしながらご飯の準備が終わり、2人は席について食べ始めた。今日のご飯はパックご飯と即席みそ汁、スーパーで買ってきたかき揚げ、メンチカツ、海藻サラダである。2週間に3回はこのような簡単な献立になるが、それ以外はほとんど広が手作りしている。

黙々と咀嚼する音と、先ほどつけたテレビのニュースのアナウンサーの声だけがリビングに響く。

「鋭、新しいクラスになって友だち、できたか?」

広がみそ汁をすすりながら聞く。鋭はかき揚げをいじる箸を一瞬止めた。

「…。ひとり、できたよ。手塚泰晴っていう奴」

「おお、よかったな。仲良くするんだぞ」

『続いてのニュースです。11年前、××市で発生した強盗殺人事件で死刑が確定されたサカキバラタツノリ死刑囚67歳が今日午前10時32分、刑が執行されました───』

「─────サカキバラ?」

広が口の中でつぶやいた。空気が固まる。

「父さん、覚えてるの?この事件」

鋭はメンチカツを頬張りながら聞いたが、広は目を伏せたまま動かない。

「××市ってさぁ、俺たちが前住んでたところじゃない?怖いなぁ、覚えてないけど」

「……鋭、覚えてない、のか?」

顔を上げた広が、引きつった笑みを浮かべて言った。しかし、目は笑っていない。

「え、うん。どうしたの?」

鋭は軽く笑った。いつもの広とは違う姿に戸惑う。

「いやいや、怖い事件だった。そうか、死んだのか、犯人」

広は明らかに何かを隠している。しかし、これ以上は踏み込むな。と言っている気がして、鋭はご飯をかきこんだ。

『鋭。人が言いたくないことを無理に聞こうするのはいけないよ』小さい頃、母の千冬に教えられたこと。そうだ。知りたくても、俺は知ってはいけないんだ。──もう聞かない、このことは…。カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、やけに明るく見えた。







夕食の片づけが終わって、部屋に戻る。鋭はスマホで音楽を聞きながら課題をしていた。父さんが隠していること。明日の授業。クラスメートとの関わり。ヤスハル。あと、少しだけ、ヒガさん…。いろいろなことがぐるぐると頭を駆け巡る。ちょっと疲れたな…。首と肩を回す。


──────あ。


これは肩こりじゃない。あ、やばい、やばい、やばい、や。





「ヴ…。ヴゥ…………。グァァ!ギャァァ!」





机に登って教科書を荒らそうとする、獣の姿。一匹のキツネが、そこにいた。











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