1.
スマホの目覚ましの音が夢の中に入ってきた。夢と現実の狭間から抜け出してアラームを解除すると、また眠気が忍び寄ってくる。
今野鋭(こんのえい)は、カーテンの隙間から差し込むぼんやりとした日差しを浴びて、むくりと起き上がった。
春眠暁を覚えず。まだ回転が遅い頭に、唐突にこの言葉が浮かび上がった。高校1年生のときの漢文の授業で習ったこの言葉は、鋭のお気に入りだった。春でなくても常に眠い彼は、昔の中国の詩人と気が合うと思ったのだ。漢文だけはいい点数である。
今日はめでたく高校2年生になった彼の始業式だ。
鋭はカーテンをゆっくりと開けて、外を眺めた。近所の公園の桜の木から、花びらがはらはらと散っている。例年より少し早く咲いた桜は、もうすぐ葉桜になるだろう。
そんなことを考えていると、下の階から父の声が聞こえた。
「鋭、起きろー!父さんもう仕事行くぞ!」
「はーい、今行く!」
父は鋭の弁当と朝ご飯を作ってから会社に行く。今日は弁当がいらない日だが、早く起きてごはんを作ってくれる父には頭が上がらない。時計を見てみればもう7時を回ったところで、いつまでものんびりしていられないと思った。ベッドから降りて、大きくのびをすると、父が出て行く音が聞こえた。
鋭は自転車で学校に行く。学校に着くまでざっと20分。ギーコ、ギーコと、灰色のボロ自転車を走らせる。
高校に受かった喜びと、新生活に胸をときめかせていた去年の春。1年経ってみて分かった。周りの大人に言われていたほど、友だちができなかったのだ。気の合う友だちは、高校に行けばすぐに見つかるよ。大丈夫!──なんてうそだった。彼はクラスで浮いていた。勉強も真面目にやったし、月に一回あるかないかの部活も休まず行った。それなりにクラスメイトとバカ話もして、楽しかったけれど、それだけだった。特に親友と呼べる人物がいないというのは、かなりポイントが低めで、クラスメイトからの評価は「学校はあんまり休んでないけど、存在感ゼロで気づいたらなんかそこにいる人」。つらくも楽しくもない日々だった。終業式でクラスが解散する日も、特に悲しいとかいう感情はなかった。
───でも。
今日から、何かが変わるかもしれない。親友ができるかもしれない。ちょっとだけ、学校に行きたくなるかもしれない。
青信号を渡り、住宅街を抜けると、高校が見えてきた。春がすみの淡い空に、鋭の吐いた息が溶けてゆく。柔らかな風が鋭をやさしく押した。
「キャー!さきぴーとクラスいっしょ!」
「おい田中!隣のクラスだぞ!」
新クラスの表が貼り出された掲示板に人が群がっている。鋭は、ごった返す人の合間から頭を出して、細目で名前を探した。
あった。今野鋭、2年3組。出席番号7番。
それを確認した彼は、誰かと喜び合う訳でもなく、淡々と校舎に入った。
新しい教室に足を踏み入れる。なんだか他の学校に来たようだ。1年生の教室とは違う匂い。人がまだ少なく、少し張り詰めた雰囲気に緊張しながら、席に座った。
「あー、あのさ」
「わっ」
腰を下ろした瞬間、肩をたたかれる。どきっとして、体が固まった。
「あ、ごめん。これ、落としたよ?」
少しこわばった表情の男子が、鋭をまっすぐ見つめていた。彼が手にしているものは、鋭のカバンについたきつねのキーホルダー。
「あ、ありがとっ」
「うん。てか、隣じゃね?」
「あ…」
自分のこと以外何も名簿を見ていなかったので、知り合いがいるかどうかも分かるはずがなかった。
「…。えっと、あとで自己紹介とかたくさん聞くと思うけど。俺、テヅカ ヤスハルです。前は7組でした。よろしく」
テヅカと名乗った彼は、眉毛がうっすら見える前髪の無造作な短髪で、さわやかな印象だった。対して鋭は、サラサラなマッシュヘアだが、目元が隠れて暗そうなオーラを醸し出している。
「あっ…、えーと、その、俺、前は4組で、今野鋭っていいます。よろしく」
名前を言われたから、こちらも名乗らなければならないが、緊張してたとたどしく答えた。不安になってテヅカの顔から目をそらす。
「エイ、ってさぁ、どうやって書くの?」
テヅカの方は目を輝かせて、興味津々である。
「『鋭い』、って」
「へー。今野くん、きつねっぽいもんな!」
ストレートに言われる。悪気はなさそうだが。ただ、鋭は別に容姿をどう言われても気にしない性格だ。
「よく言われる…」
「あ、そう?じゃ、今野くんのこと今からコンって呼ぼうかな!いや、鋭って呼ぶかも」
テヅカはひとりで一生懸命考えている。
「あ、俺のことはなんとでも呼んでよ」
鋭にくしゃっとした笑顔を見せる。鋭は自然とほほえみが浮かんできた。
「…えっと、じゃあ、ヤスハルって呼ぶね」
「うん」
よかった、と鋭は思った。親友になれなくても、しばらくは話せる友だちができそうだ。思えばこんなに初対面からいろいろしゃべったのは初めてで、勇気を出せば意外と話せるんだということを実感した。
集会やホームルームが終わり、下校時刻になった。各々、部活に家に散ってゆく。教室から出て行こうとするクラスメイトをかき分け、ヤスハルが鋭に話しかけた。ホームルームで分かったが、ヤスハルの名前は手塚泰晴と書いた。
「コン、部活なんか入ってる?」
「俺、写真部」
「え!?写真部?全然活動なくね?てかさ、廃部じゃないの?」
泰晴が驚く。それもそのはず、写真部は月一でしか部活がないのだ。しかも部員は鋭と、彼と同じ学年の女子だけである。
「今年入らなかったらやばいかな、ヤスハル入る?」
さりげなく勧誘してみると、泰晴はにっこりと笑った。
「俺は自由に生きるわ」
泰晴と別れ、鋭は春休みに借りていた本を返しに図書室へ行った。図書室のドアを開ける。
古い本の匂いが立ちこめている図書室には、いつもほとんど人がいない。鋭のお気に入りの場所で、1年生のときはしょっちゅうここにこもっていた。
だるそうに漫画を読んでいる図書委員に本を返してから、朝のホームルーム前に読む本を選ぶ。
本棚は高く、鋭の178センチの身長でやっと手が届くほどだ。本棚の上の方の本は、あまり借りられていないので汚れておらず、隠れた名作が眠っていることを鋭は知っている。どれにしようかな。
ドン。
「あっ」
上を向いて歩いていたので、本棚の角を曲がった瞬間に人とぶつかってしまった。
「あ、すみません」
「ごめんなさいっ」
鋭がぶつかった相手を見ると、相手も鋭を見上げる。おそらく150センチ前後の小柄な女子で、上履きの学年カラーで同学年だと分かった。鋭はめずらしく図書室に人がいることに少しうれしいような悲しいような気がした。
謝ったあと、その女子とすれ違う。鋭は、ふわりと何かが舞ったことに気づいた。彼女がしおりを落としたようだ。パステルカラーのグリーンで、布でできた上品なものだった。
「これ、落としたよ」
「あ、ありがとっ」
彼女はさっとしおりを受け取る。少し触れた手には、わずかに汗がにじんでいた。
大して気に留めることでもなかったので、鋭はまた本探しを始めた。しかし、本棚を挟んでいるとはいえ人の気配がすることは、いつもと違って少し緊張する。本棚が高層ビルのようで、知らない都会に来たみたいだ。鋭にとって図書室とは自分だけの部屋のようなもので、俺、なんか傲慢だったな…と、ちょっと恥ずかしくなる。
「今野くん、だよね?」
「…っ、なに?」
ぼんやりしていて、不意をつかれる。いつの間にか先ほどの女子が鋭の後ろに立っていた。
「同じクラスの。わたし、ヒガウヅキっていうんだけど。ほら、同じ係の…」
ヒガ、と聞いてなんとなくそんな人がいたような気がした。鋭は無理やり笑顔を作る。
「あ、あぁ、ヒガさん。……」
続く言葉が見つからない。泰晴は男子だからまだ話せるが、女子となると話は別だ。
「本、好きだよね。よく図書室来てるの見るし」
「え、いたの…?いつもここに来てるの、俺だけかと思ってた…」
何気に失礼な質問である。鋭は言ってしまって後悔した。しかし、彼女は赤面して言った。
「うん。私もしょっちゅう来てるよ。それに、他にもまあまあ来る人いるし。あのさ、私も本好きなんだ。………」
沈黙が流れる。外から運動部のかけ声が聞こえてきた。2人は同時にうつむいた。地面の木目を目でなぞる。
そもそもなぜ彼女が声をかけてきたのか、鋭には理解不能だった。初対面の人、それも異性に、ここまで話すのか?女子の世界はそれが普通なのか?
なんかこの子、変わってね?
鋭が混乱していると、「じゃ、それだけですっ」とヒガウヅキがばたばたと図書室を出て行った。
取り残された鋭は、呆然とそこに立ち尽くした。本たちが彼を笑っているショーの観客に見えて、耐えられなくて図書室を出た。俺、何もしてないよな?鋭は去り際に図書委員が居眠りをしているのを横目に見た。いつもならどうでもいいことなのに、人の行動一つが脳裏に焼き付く。
やっぱり、人間は苦手だ…。
無性に泰晴に会いたくなった。今ならなんでも話せそうな気がした。校舎を出ると、春なのに日差しが鋭を刺した。鋭は、なんとなくふらついた運転で家に帰る。朝と比べて強くなった風が、鋭の髪の毛を乱した。
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